心までは命令できない。
その青年には致命的な欠陥があった。
青年・イーレンフリースには
「彼のような人間なら『それ』は得意分野では?」
それに対する本人の反論は「ところがどっこい苦手なんだなこれが。『超』と『
───自己紹介だ。
彼は基本フレンドリーに人と接する。コミュニケーション能力に長けており、彼との会話が途中で絶える事はあまりない。そんなイーレンフリースが対人の挨拶、その基本中の基本を苦手としているなど、彼の人柄を知る人間が首を傾げるのも無理のない話である。そして皆が皆問い詰めるのだ。「それだけの話術がありながら何故」と。「いつもの調子で」と耳にタコが出来るぐらいには誰も彼もに言われ続けているが、その誰もが、自分が
自己紹介とは、初めて会う人などに姓名・職業等を述べ、自分が何者であるかを説明するという行為だ。つまり、自分の事を知らない人間に自分を知ってもらう為のもの。名前と職業を言うだけなら余程の事情がない限り誰にでも可能な事だろう。彼にとってもそれは不可能ではなかった。では何が出来ないのか。その次である。「自分を知らない人間に自分を知ってもらう」。これだ。ここが鬼門なのだ。イーレンフリースには初対面の人間に自分を知ってもらえるだけの
「ホラ、俺って頭空っぽだから」
単なる自虐でも
もう一度言おう。
青年・イーレンフリースには欠陥があった。人を人たらしめ、個人を個人たらしめるものがなかった。その人間の
重ねて言おう。
青年・イーレンフリースには人として重大な欠陥があった。何もなかった。否、少しだけ持っていた。だが、ほとんどなくなっていた。
何度でも言おう。
青年・イーレンフリースには生きていく上で深刻な欠陥があった。
彼は、己の過去に於ける大部分の記憶を失くしていた。
Venezia, XX/XX/XXXX
Caro signore XXXXX
───いつも私の相手をしてくださりありがとうございます。今回は何を書き連ねようか迷っておりました。お返事が遅れてしまった事をお詫び申し上げます。
さて、それでは。
今回は私の話をしましょう。
私が誰なのか。どういった存在なのか。それは私にもわかりません。気が付けば知らない場所で呆然と空を見上げていたのですから。ええ、ええ。私は世に聞く「
過去、自分が何をしていたのか。誰と出会い、どのような会話をしたのか。何処へ赴き、何を見、何を感じたのか。それら全てが抜け落ちて───いえ、失礼。全てではありませんでした。何事にも例外はつきもの。私の記憶にもそれは当てはまりました。
私には、覚えている事があります。自分の名前と、双子のきょうだいである事です。前者は
……けれどいなくなってしまいました。
あんなにも大好きで、愛していて、愛してくれたあの子。私の唯一。「
あの子の事で、関係する事で、忘れてしまったのは「いつの間にか」という部分。あの時私は眠っていました。あの子と手を繋いで、向かい合って。
それで、嗚呼それで、そのあと。
私は今まであった出来事を、その記憶を、全て失っていました。ええ、それはもう「
私は何が得意なのでしょう。
私は何が苦手なのでしょう。
私は何が趣味なのでしょう。
私はどんな生活をしていたのでしょう。
私は何が好きで何が嫌いなのでしょう。
私はいつ生まれたのでしょう。
私は誰から生まれたのでしょう。
大切だったはずなのに。忘れてはいけなかったのに。最愛のきょうだいのみを残して、私の記憶は零れ落ちてしまいました。空っぽになってしまいました。
───このように。きょうだい以外の過去を失ってしまった私に、あなたは過去と未来を見通す悪魔の名を与えました。何も考えずにつけたとあなたは言いますが、よくもやってくれましたね。当初は顔を歪める事しか出来ませんでしたよ。何たる皮肉、と。本当は私の事情なぞご存知だったのではないでしょうか。あまりに出来すぎでしょう。面と向かって訴えても知らん顔するあなたの事です、これ以上の追求は甲斐なしというもの。此処らでやめておきます。
あなたが首領の地位を降りるにあたり、入れ替るように新たな人員が増えました。私は「いつの間にか」その中に組み込まれており「いつの間にか」幼い首領の前に出されていました。そう、あなたの仕業です。鬼畜なのでしょうか鬼畜なのでしょうね鬼畜です三段活用。今まで通り裏方がいい、表に出るなど私にはどだい無理だと、そうやって私がどれだけ言い募ってもあなたは引き摺り出しました。
………思いますがそれでも私は裏にいたかった。いえ、いたいのです。あの小さな
私の
Distinti saluti.
Elenfried Greco=Antinori
「
「! ハ、ハイ!どうぞ!!」
コンコンと軽快なノック音、聞こえてきた男の声。弱冠15歳にしてマフィアのトップを務める少年・カラメラは、ハッと我に返る。
大きすぎる地位と一緒に父から受け継いだ自室にて、彼は一通の手紙を見付けた。ハードカバーの分厚い本に挟まれていたその手紙はどこか見覚えのある筆跡で。好奇心が勝り開いてみると、そこに記されていたのは驚きの内容だった。最後に綴られているのは差出人の名前だ。そこまで読み終えたところで、ノック音。慌てて手紙を閉じ、本のページの間に挟み込む。入ってきたのは山吹色の髪の男───アスタロトだった。
「んん?どうかしました?やけに慌ててましたけど」
「い、いえ、少し集中していたので……びっくりして」
「ありゃりゃ。お邪魔しちゃいましたね。すみません。それを読んでらっしゃったんですか?」
アスタロトが指を指したのは、先程まで熟読していた手紙……が挟まっていた本。内心ドキリとしながらカラメラは頷いた。自室内にいくつかあるうち最も大きな本棚、その最下段、その隅。そんな場所に追いやられていたこの本のタイトルは
「『Goetia』ねぇ……首領ったら悪魔なんぞに興味が?おっかねー」
「ちがいます。ただ高価そうな装飾の本なのに一番下にあったから気になっただけです」
……悪魔関係の本だったのか。父の私物にそんなものがあるとは思ってもみなかったカラメラは、父の趣味が少し心配になった。それにしても何故この本に手紙が挟まっていたのだろう。自分の記憶と勘に間違いがなければ、あの筆跡は───
「ところで何か僕に用事が?」
「ああそうそう。スモりんから武器開発の稟議書が、俺からこの間の下町調査の報告書が来てますんで、それぞれ確認お願いしまーす」
「わかりました。ご苦労様です」
「いーえー。それでは失礼しまっす」
持っていた紙束を渡し、ぺこりとお辞儀をしてアスタロトは踵を返……そうとしたが再度カラメラに向き直った。悪戯な笑みを浮かべて彼は己の首領の持つ本を指差す。
「その本」
「、え?」
「その本に書かれている序列29番目が『俺』ですよ」
それでは本当に失礼しまーす。
ひらりと手を振り、アスタロトは部屋をあとにした。
───アスタロト【Astaroth】
40の軍団を従える地獄の大公爵とされる強大な悪魔。「Goetia」においては72柱の悪魔の中で序列29番に位置し、過去と未来を知りあらゆる学問に精通するとされ、召喚した者に秘められた知識を教授する存在だという。
「──『
青年・イーレンフリースには欠陥があった。
───彼は悪魔の名を借り受けた。
青年・イーレンフリースには致命的な欠陥があった。
───彼は悪魔の名を隠れ蓑にした。
青年・イーレンフリースには人として重大な欠陥があった。
───彼は悪魔の名に苦しんだ。
青年・イーレンフリースには生きていく上で深刻な欠陥があった。
───彼は悪魔の名を返上出来ないでいた。
何故なら彼は、未だ空っぽのままなのだから。
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