鬱くしさに怯える。

いつか全て死ぬのだろう


───嗚呼、まずいな。
男……アスタロトはふと、そう零した。

仕事がひと段落し、仲間たち(メンバー)が酒盛りをしていた時。その小さな声に、グラスを片手に雑談をしていた彼らは会話を中断する。そういえば、と。ここで彼らは疑問を抱いた。いつもなら単なる酒盛りを宴にする勢いで騒いで盛り上げる男の声が、今回は全くと言って良いほど聞こえなかったのだ。あいつはどこにいる?しん、となった部屋を見回せば隅の暗がりに「あいつ」はいた。一人掛けソファーの背もたれに腰を掛け、ワインの入ったグラスを手に持ち俯いている男。くしゃりと山吹色の髪を片手で崩すその様は、どう見ても「いつも通り」ではない。真っ先に動いたのは医療に携わるリリスだ。


「ちょっと、あすちゃん大丈夫?飲みすぎたの?」


顔を覗き込みながら脈をはかる……脈は正常だが髪を掴んでいる手に遮られて顔は見えない。首や頬に手を当て体温を確かめると思いの外低かった。確かに彼の体温は平均よりも低めだ。だが、彼は今の今までアルコールを摂取していたのだ、平熱であるのはおかしい。……疲れが祟って貧血を起こしているのかもしれない。そう思ったリリスはアスタロトの手からグラスを取り上げ休むよう告げる。


「調子が悪いならもうお酒は──、」
「……リリス?」


だが彼女は途中で言葉を切る。アスタロトを凝視したまま固まる彼女に訝しげにスモーカーが呼びかけた。他の面々も不思議そうに二人を見やると、頬に触れるリリスの手をアスタロトが掴んでいた。「……あすちゃん?」彼女の呼びかけにゆっくりと顔を上げた彼は───


「嗚呼、リリス医療員……申し訳ありません、少々疲れただけです。どうかお気になさらず」


───これは誰だ(・・・・・)

彼らは怖気(おぞけ)が立った。
同じ部屋で共に酒を飲み共に騒ぐ男だった。コミュニケーション能力に長け、仲間との縁を繋ごうと積極的に動く男だった。公私の区別をしっかりとつけ、公的では冷静に、私的ではフレンドリーに振舞う男だった。それが「アスタロト」という男のはずだった。なのに。今ここにいる男は「誰」だ?聞いた事もない口調で、声色で。見た事もない表情で、目で。感じた事もない雰囲気で、態度で。私の時とは正反対で、公の時とはまた違う静かさで。リリスの心配をやんわりと、それでいてはっきりと拒絶するこの男は、一体。


「ねえちょっと、顔色すごいよ。ほんとに大丈夫なの?」
「問題ありません。少々疲れただけですので」
「問題があるように見えるから言ってるんだけど?」
「お気になさらず。疲れただけです」
「さっきから同じ事しか言ってないじゃん。すぐに部屋に戻って、」
「お気になさらず、ラミエル商取引員」


硝子玉のような、何もうつしていない瞳。「男」の顔は明らかに血の気が引いており、今にも倒れるのではという不安定さがある。ラミエルが声をかけるも似たような言葉を繰り返されるばかり。普段彼とじゃれ合ったりジャグリングをしたりしている時には絶対使わないような格式張った呼称を使われ、戦々恐々とする。「やばいよこの人」と彼女に耳打ちされたスモーカーは眉間の皺を深めた。「男」に手を引き離され動揺していたリリスをラミエルに任せ、今まで彼らを傍観していた準首領・サタンに目配せする。彼は携帯端末を持ち上げ「もうお呼びした」と頷いた。面倒事は嫌うくせに仕事は早いサタンに内心溜め息をつきながらスモーカーは「男」の肩に手を置く。


「一体どうしたアスタロト。今回の仕事(ヤマ)はそんなにキツかったか?」
「……いえ」
「お前がそこまで疲れを表に出すなんざ相当だろ。酒は終いだ、もう休め」
「いえスモーカー幹部、私は、」

「──何があったんですか?」


ガチャリと音をたて、部屋のドアが開かれた。ドアを開けたのは暗殺部隊に所属するエンヴィーで、その隣に彼らのボス・カラメラが立っている。幼い首領は室内のただならぬ雰囲気に心配そうな声で問うた。サタンに頼まれて迎えに行ったエンヴィーが大まかな状況を伝えてはいたが、彼自身も詳しい事はわからない。わかるのは「アスタロトの様子がいつもと違う」という事ぐらいだ、誰もが彼の豹変に困惑するしかなかった。サタンはまず、部下が上司……しかも組織のトップである存在を呼び出すというあまりにも非常識で無礼な行為を謝罪し、事のあらましを端的に伝える。


「──とまあ、酒に酔ったワケでもなくまるで別人になっちまって。……多重人格の()があるなんざ聞いた事ないんだが。ボスは何か聞いてるか?」
「……いえ、聞いてません」
「そうかい……って事ぁ先代すら知らな──」

「──本人の口からは(・・・・・・・)、何も」


ピン、と室内の空気が張り詰めた。
そう、彼の口から(・・・・・)は少しも聞いていない。脳裏に浮かぶのは先日見つけた一通の手紙。先代首領である父に宛てられた一種の暴露文。最後に綴られた文字列「Elenfried Greco=Antinori」は差出人の名……つまり「エレンフリード・グレコ=アンティノーリ」という男の私情が拙いイタリア語で書かれていた。そしてカラメラは確信する。その筆跡には見覚えがありすぎた。

アスタロトは記憶を失っている。だがそれを本人の口から聞いた事はない。一度たりとも、だ。自分には過去がなく、自身への信用がなく、自己の存在すら危ぶんでいるこの男はその漠然とした、けれど確固とした不安をおくびにも出さなかった。「アスタロト」の皮を被り、「エレンフリード」の姿を微塵も見せなかった。迎えに来たエンヴィーや呼び出したサタンから伝えられたあらましから、恐らく彼は何らかの事情──精神的な疲れあたりが妥当だろう──によって化けの皮(アスタロト)が剥がれ本来の顔(エレンフリード)が出てきたのではないか?そう推測するカラメラは「アスタロトが多重人格の如く人柄が豹変した」という事実をこの場の誰よりも理解していた。それと同時に、彼らは今まで共に仕事をしていて一度も感じなかった「アスタロト」という男の「異常さ」を、今この時を以て気付いてしまった。


「Ti senti male?」
「………Don?」


カラメラはアスタロトに近付いて声をかける。彼を部屋に放り込もうと腕を掴んでいたスモーカーは力を込めた。幼い首領がいつもと様子の違うアスタロトによって傷付けられはしないかと警戒した為だ。だが当の本人は相も変わらず脱力したまま。気分が優れないのかというカラメラの問いにもワンテンポ遅れての反応。髪を掴んだままだった手を下ろし、自らのボスを振り返った。硝子玉のような虚ろな目が、少しだけ細くなる……まるで眩しいものを見るかのように。ゆらりと立ち上がりカラメラの前に跪いた。


「嗚呼、首領(ドン)……挨拶もなしに申し訳ありません。私のような者の為にこのような場まで……」
「部下の様子を把握するのも首領の務めです。もっと頼ってください。『自分のような』なんて言わずに」
「……それは…………」


頭を垂れたまま言い淀む。何があったのかと再度聞かれてもただ一言、疲れただけ。先程と何ら変わりない主張にカラメラは困った顔をした。今回の仕事はさして取り上げるような特別な内容ではなかったはず。作戦会議の時も決行中の時も特に異常は見受けられなかった……それは状況・構成員共に、である。勿論そこにはアスタロトも含まれている。彼が目に見えて、口に出して「疲れ」を露わにするような仕事ではなかった。何が彼をここまで追い詰めたのだろうか。


「………味が、しませんでした」
「……味がしない?」


己のボスからの胡乱げな視線に耐えかねたのか、アスタロトはぽつりと零した。首を傾げて復唱するカラメラに、先程リリスに取り上げられたグラスを指さす。半分ほど残っているそれをサタンが香りや色合いを調べるも「問題ない」と首を振った。ラミエルも口にするがそちらも特に異常はなし。毒の扱いに長けた二人が確認したのだから、ワインに劇物の類が盛られた訳ではないのだろう。現に、グラスに注いでからそれなりに経っているので少しばかり風味は飛んでいるが、それでも彼が飲んでいたそれはかなり強い味が残っている。一口飲んだだけのラミエルだがその渋く重い味わいに顔を顰めていた。


「ヴィントナーズ・リザーヴ。『黒葡萄の王者(カベルネ・ソーヴィニヨン)』が使われたカリフォルニアワインだ」
「カベルネ・ソーヴィニヨン?」
赤ワイン(ヴィーノ・ロッソ)の中で最も有名でポピュラーな品種です。渋味と酸味が強く、肉料理に最もあう黒葡萄とも言われていますね」


中途半端に中身が減ったボトルを掲げ、ラベルをブラックが読み上げる。まだ未成年で酒の知識が少ないカラメラは聞き慣れない単語にエンヴィーを仰ぎ見た。口元に手を沿えて眉間に皺を寄せ、彼はわかりやすく簡潔に説明する。アスタロトが飲んでいたのはニューワールドのワインで、味が強い。更にフルボディで強いタンニンが含まれた品種を使用しているため赤ワインの中で最も重たい味わいのはずなのに、味がしない?ブラックと共にエンヴィーも同じものを飲んでみるが、カベルネ・ソーヴィニヨンの特徴がしっかりと現れた味だ。何も問題は感じられない。


「味覚障害……?」
「この間まではこのワインなら(・・・・・・・)味が感じられました。ですが」
「待ってちょうだい、『このワインなら』って……」

「ですが今は、それすらも」


味が感じられなくなってしまった。アスタロトの味覚はある時から徐々に鈍っていき、遂に機能しなくなったのだ。薄れていく味、食感しかわからない料理、失われていく食欲。単なる作業と成り果てた「食事」という行為は、彼にとって苦痛以外の何ものでもなかった。その証拠に、アスタロトの体重は年々減り続けている。以前まで感じられた味が、今口にしたら感じられない。そんな恐怖に苛まれ、一種の拒食症状態にあったのだ。そして最後の砦だったこのワインすらも味覚から消えてしまい。


「少々……生きる事が困難に思えてきました」


───嗚呼、まずいな。非常にまずい。

アスタロトは譫言(うわごと)のように呟いた。記憶が死に、味覚が死に、次は何が死ぬのだろう。消えていくのだろう。ひっくり返した砂時計のように、じわりじわりと、しかし一定の速さで零れ落ちていく恐ろしさ。「前はあったはずなのに」と、失くしてしまった事に気付く絶望感。

───嫌だなぁ。

悪魔の名(アスタロト)を借りてそれらしく(・・・・・)なれたと思ったのに。
信頼に足る真人間(ヒト)になれたと思ったのに。

台無しだ。遂に自らの手で化けの皮(アスタロト)を剥がしてしまった。エンヴィー風に言うとゲームオーバーだ。取り繕った悪魔(アスタロト)が積み上げた信頼を空っぽの本体(エレンフリード)が見事に崩してしまったのだ。嗚呼、やらかした。自分には何もないという事実が露見した今、最早アスタロトは己の価値が見出せない。

───まずい、まずいなぁ。


「突拍子もない事と重々承知の上で申しあげます、ボス(・・)
「……なん、でしょうか」


今にも死に絶えそうな面持ちで跪きながら「男」はカラメラを見上げる。先程告げられた言葉は紛れもなく彼の本音。初めて零した、不安。きゅ、と心臓が締め付けられるような感覚がする。嫌な予感が拭えない事に冷や汗をかき、小さな首領は先を促した。

───まずいなぁ、嫌だなぁ。


「暫しお暇を頂きたく」

(うつ)くしさに怯える。