美しさに言祝ぐ。

「Еιρηνη」「Нιλενχληс」「Нλυσια」


ざくり、ぱきり、という音をたてながらイーレンフリースは道なき道を進む。雀の涙ほどしかない記憶を頼りに、彼は目的地を目指す。秋の終わりか、冬の始まりか、そんな曖昧な季節にカッターシャツとスラックスなんていう軽装は少々厳しいものがある。しかし今のイーレンフリースは寒さなど感じていなかった。いつも着ている黒のコートは片腕に引っ掛け、最早獣道と言っても過言ではない森の中を突き進む。木々が天を覆い日を遮り、周りはかなり暗い。時折立ち止まり、その薄っぺらい記憶と照らし合わせながらまた歩を進める。彼は今何処へ向かおうとしているのか。それは。


「ああ……うん」


───憶えている。

無けなしの記憶の中に残っている、数少ない場所。そこは長い間放置されていたようで、荒れ放題になっていた。雑草は生い茂り、雨風に晒され壁は崩れ、苔生(こけむ)した屋根は花まで咲いている。記憶とはかなり異なる外観だがそれでも懐かしく思うのだから此処で間違いはない。……なんだったか。こういう時に言う台詞があったような。


「た、だいま……?」


脳が解を出す前に口が勝手に動いた。掠れた声で発せられた内容に、思わず言葉尻が上がってしまう。結果的に疑問形になってしまい、イーレンフリースは二重に困惑した。この言葉は確か、帰ってきた時に使われる挨拶のはず。……本能的に理解でもしているのだろうか。辛うじて記憶に残っているものの、此処には特に思い入れはない、と自分では感じていたのだが。

ノストラ・ドルチェから離れる為なら何処でもよかった。とにかく離れられれば、それで。「此処」である必要はなかった。「此処」じゃなくてもよかった。……はずだ。けれどあの時口を()いて出てきた単語は「故郷(ここ)」だった。そして今足を運んだのは───かつて住んでいた家。


「実家……って言うんだっけ、こういうの」


親の顔も名前も覚えていない。この家で共に暮らした家族を、イーレンフリースは思い出せない。記憶に存在する唯一は、あの子は此処にいない。いないのだ。いないはずなのだ。だけど。


「よく此処までついて来れたな」


純粋に驚いた。そう言って後ろを振り返った、その先に。

一人の少女が、立っていた。


***


───そっくりだ。

見窄(みすぼ)らしい身形(みなり)の少女は細く小さな身体を木に隠し、顔だけを此方に覗かせている。とはいえその顔すらも伸びっぱなしの前髪に半分隠されているのだが。しかしその様を見てイーレンフリースは「似ている」と感じた。雰囲気が「似ている」と。くすんだ金髪、痩せ細った手足、薄汚れた衣服……いや襤褸布(ぼろぬの)?10人が10人同じ事を思うだろう。彼女は孤児だ。何を以て彼について来たのかはわからないが、身寄りのない孤児ならばそれも納得できる。全く根拠はないが。

イーレンフリースが一歩、少女に近付く。そうすればビクリと肩を揺らして身体を強ばらせるので、おそらく人と関わった経験があまりないのだろう。怯えさせてしまったか、と心の中で溜息をついた。淡々とした口調で何か用かと話しかけると今度は顔が引っ込んでしまった。今見えているのは木に添えられた白い手のみだ。どうしたものか。

この少女は(おおよ)そ中心街からついて来ている。イーレンフリースはエーゲ海から街へとあがって来た際、ちょっとしたきっかけで子どもたちにジャグリングを披露した。色とりどりのボールを投げる程度のものだったが、それでも目を輝かせる彼らにむず痒くなったのは秘密だ。その時に近くの路地裏から視線を感じたのでチラリと目を向けたところ、金髪が見えた。宙を舞うボールを目で追い、それに合わせて体が動きそうになる様は仔猫を彷彿とさせた。彼のジャグリングに興味を覚えたのか子供たちと別れた後に人目を忍ぶように跡をつけ、今に至る。力を込めれば折れてしまいそうなほど細い足にも拘らず、舗装どころか道ですらない森の中をイーレンフリースの姿を見失うことなくついて来れたのは素直に驚いた。案外足腰が強いのか?……肉付きの悪い身体は見るからに栄養失調なのだが。

ともあれ、こんな所にまでついて来たのだから余程の用事があるのではと訊ねてみたものの、こんな反応ではどうしようもない。本当にどうしたものか。問い掛け続けるか、それとも向こうから近付いてくるのを待つか、いっその事一気に距離を詰めて捕獲してしまうか。……最後は駄目だな、倫理的にアウトか。なしで。ふう、と溜息をつき、イーレンフリースは(おもむ)ろにそこらに落ちている小石をいくつか拾い、ジャグリングを始めた。

Ειс τον αφρо
ειс τον αφρо τηс θαλασσαс
η αγαπη μου
η αγαπη μου κοιμαται
παρακαλω σαс κυματα
μη μου την εξυπνατε
παρακαλω σαс κυματα
μη μου την εξυπνατε

Γιαλо γιαλо πηγαιναμε
κι оλο για σενα λεγαμε
γιαλо να παс
γιαλо να `ρθειс
τα λоγια μου
να θυμηθειс
γιαλо να παс
γιαλо να `ρθειс
τα λоγια μου
να θυμηθειс


少しだけ覚えているギリシャの民謡を口遊(くちずさ)みながらテンポ良く小石を投げる。歌につられたのか再度少女が顔を出した。カラフルなボールのような華やかさはないが、軽やかに宙を飛び交う小石は彼女の興味を惹かせられたようで。次々に投げられる小石を追いかけ顔が動く動く。

そういえば「あの子」も、俺のジャグリングを見て目を輝かせてくれてたっけ。あの紫水晶のような、深く美しい───


「………は、?」


絶えず操っていた小石が地に落ちた。

ふわりと。そよ風が吹き木々を揺らす。それに合わせて少女の長い前髪が持ち上がった。くすんだ金髪の下に隠された瞳が露わになり、彼はそこに釘付けになった。見覚えのある、幾度となく焦がれ探し回った、最愛(きょうだい)の、

───紫水晶(アメジスト)の瞳が、そこにはあった。


「エリー……?」
「? え、り……?」


最愛の名前が唇から零れ落ちる。地面に落ちた小石とイーレンフリースの驚愕の表情を見比べながら少女は首を傾げた。その拍子に前髪が揺れ、紫水晶が再度姿を現す。顔の筋肉が勝手に動き、視界が歪んだ。口元が震えて喉から込み上げる「何か」を、彼は抑える事が出来ない。……この流れはデジャヴュだ。海岸でも同じ事をしたばかりじゃないか。「あの子」の名前を呼びながら散々にやったじゃないか。目の前にいるのは「あの子」ではない。最愛のきょうだいではないのに。

どうして。
他人と家族を重ねて泣かなければいけないんだ。
どうして。
偽物を前にして本物を嘆かなければいけないんだ。

どうして。
こんなにも似ているんだ。

止めどなく嗚咽の漏れる口を手で覆いながら、イーレンフリースはその場にしゃがみこんだ。褐色の瞳から溢れ出た雫が地面を濡らす。

似ているのが雰囲気だけだったら、ここまで取り乱さなかった。「あの子」のトレードマークとも言える瞳さえ同じでなければ、泣き崩れる事はなかった。拭っても拭っても湧いてくるそれは「アスタロト」になってから滅多に見なくなったものだ。稀に流れるのは生理的なものぐらいだった、なのに、こうも容易く決壊するほど涙腺も精神も弱っていたなんて。


「γεια,(ねえ、)」


「……Εισαι ενταξει;(だいじょうぶ?)」
「─────!!」


いつの間にか、目の前に。
イーレンフリースが取り落とした小石を拾い上げ、少女は顔を覗き込んだ。膝を折り背中を丸める彼の前に同じようにしてしゃがみ、拾った小石を差し出す。彼女の無表情ながらも心配そうなそれに再度デジャヴュが襲った。かつて自分を心配してくれた最愛の瞳がフラッシュバックする。辿々しいギリシャ語で大丈夫かと訊ねる少女に、イーレンフリースは引き攣った悲鳴をあげて後ずさった。


「Σταματα……!!(やめてくれ……!!)」


それは明確な拒絶。


「Σαс παρακαλουμε να μην ερχονται εδω……!!(こっちに来ないで……!!)」


そして曖昧な恐怖。


動揺でバランスを崩し、尻もちをつく。ガタガタと震えながらイーレフリースは目の前の紫水晶から逃れようと後ろへ擦り下がる。……恐ろしい。少女の瞳が。……怖い。紫水晶が。

自分の中の最愛の瞳が、塗り替えられてしまう。
目の前の少女の瞳に、すり変わってしまう。


「………Δεν θελω.(いやだ)」


いやだ。やめてくれ。入ってくるな。
あれは、あの瞳は、あの子だけのものだ。
そして、俺だけの記憶。
あの子と俺だけの思い出なんだ。

イーレンフリースの中に唯一残っている存在の。彼がこの世で最も愛しているあの子の。きょうだいの瞳が少女の瞳として上書きされてしまう。彼は今、最愛の記憶まで失おうとしている。「イーレンフリース」の存在を証明する唯一が、消えようとしている。

これ以上、俺から過去を奪わないで。

少女の瞳を視界に入れないよう膝に顔を埋め、まるで子供のようにしゃくりあげるイーレンフリース。その様を相も変わらず無表情に、それでいて心配そうに見つめ、彼女は男の隣に寄り添った。ひくり、ひくり、と揺れる彼の身体に合わせて、その丸まった背中を軽く叩く。愚図る幼子を宥める母親のような手つきで、少女はイーレンフリースを(あや)す。そしてぽつりと囁いた。


「Ειναι ενταξει.(だいじょうぶだよ)」


こわかったね、つらかったね。でもだいじょうぶだよ。

静かな声。一定のリズムで背中を叩きながら落ち着いた声色で「大丈夫」を繰り返す。何も知らない。何も理解していない。そんな彼女の何の根拠もない「大丈夫」に、何故か心が安らいでいく。少女の口から紡がれる拙い母国語はどこか懐かしく、耳に馴染んだ。失くしてしまった過去の中で与えられた思い入れのある言葉なのだろうか。知らない、わからない、覚えていない。こうして故郷に戻ってきた所で、実家に帰ってきた所で、蘇った記憶など一つもない。「懐かしい」とは思えど思い出したことは一度もない。それどころか唯一の過去すら別のものに上書きされようとしていた、のに。


η αγαπη μου~ η αγαπη μου κοιμαται~」


その件の本人は今、何故か隣で歌を歌っている。先程イーレンフリースがジャグリングをしながら歌ったギリシャ民謡だ。何を思ったのか、単純に慰めようとした帰結なのかわからないが、所々発音を違えながらも一生懸命歌うその様はやはりきょうだいとそっくりで。「えく、えくし…んん……」と、自分でも発音が違うことに気付いたのか首を傾げる。何度も歌い直す姿に、イーレンフリースは(おもむ)ろに口を開いた。


「えくしぴにぁ、えくしぴにあた〜?」
「………εξυπνατε~」
「! εξυπνατε~?」
「Καλос.(そう)」


感情が昂っていた名残で少々鼻声だったが、正しい発音を聴かせるとなるほどとばかりに繰り返す。今度は正しく出来ていたので素直に褒めてやる。続きを促せばつっかえつつも口遊(くちずさ)み、偶に間違いを正してやりながら二人は歌った。つい先程まで脅え、脅えられ、拒絶し、拒絶されたことなど感じさせぬ雰囲気で、彼らは歌い続けた。


***


ああ、何やってんだか。そう内心で溜息をつき、隣に座る少女を見る。あんなにも恐ろしかったはずなのに、何故寄り添いながら歌を歌っていたのか。彼女に手渡された小石を手の中で弄びつつ考えているが、その間もずっと歌っている。そんなにこの曲が気に入ったのだろうか。いや、自分のきょうだいもこの曲が好きでよく口遊んでいたが。こんな所までそっくりだなんて。


「嗚呼──まったく」


吐息を零すように呟く。
負けた。この少女には敵わない。

イーレンフリースの手の中を覗き込んでいる少女の顔をこちらに向ける。長い前髪を避け、覆い隠されていた紫水晶と目を合わせた。彼女の無表情に合わせて少々虚ろな紫瞳。じっと見つめてくる彼を不思議そうに見つめ返す大きな瞳。


「──似すぎだっての。Ποιο ειναι το ονομα σαс;(名前は?)」
「?」
「Ειναι το ονομα.(名前だよ。) ο-νο-μα.」


聞き慣れない言葉だったのか首を傾げる少女に「名前」という単語を繰り返してやる。すると合点がいったのか「ああ」と言うように頷いた。そして自分の着ているぼろぼろの服の一部をイーレンフリースに見せる。そこには所々掠れて欠けた字で、字……で………


「……………。いやいや」
「?」
「いやいやいや」
「?…??」
「なんの冗談だよ。とんだキラキラネームじゃんこれ」
「???」


どう考えてもこれは名前ではない。もし本当に名前だとしたら皮肉にも程がある。襤褸布を着、痩せこけ、一目で孤児とわかるような彼女がこんな名前であるはずがない。キラキラした意味で、更に言うなら荘厳で神々しい名前だ。自分でつけたのだろうか。意識が高いだけか。嫌な言い方をすれば、釣り合っていない。「しかもシルクじゃねぇか誰のおさがり貰った?」と、あちこち汚れたり破れたりしているそれが上質な布である事に気付いた彼が思わず訊くも、少女は首を傾げるばかり。


「だから似すぎなんだってお前……『Нλυσιον』て」


なんだって名前まで。ふざけんなよ。
心底呆れた声を出す。少女に対する抵抗は既に諦めていたので、この声は単なる意地だ。雰囲気、瞳、嗜好、名前、という共通点。最早謀られているといっても過言ではないのでは?そう勘繰らざるを得ないまで、彼女はきょうだいに似ていた。なんなんだ、転生か、憑依か。オカルトは専門外だぞ。ぐしゃりと己の髪を掴み、心の中の悪態を溜息に変換する。肺の空気を全て排出せんばかりの盛大なそれに目を白黒させている少女を見、性懲りもなくまた意地を張ろうとしていた自分を制す。

諦めたんだろう、腹を括れ。


「お前は孤児だ。居場所がない、行く場所もない。それなら、俺が貰ってもいいんじゃないか」

「恋という情も色という欲もないけど──」

「──丁度子供が欲しかったんだ」


自分の家族として迎え入れよう。彼女の存在は己を過去と向き合わせ、伽藍堂な中身を埋める。彼女の瞳は最愛を忘れない目印であり、嗜好はこれ以上思い出を失くさない為の原点だ。先程は酷似した瞳に魅入られ記憶から掻き消えようとしていたが、少女はきょうだいではない。そして代わりでもない。最愛は最愛であり、少女は少女。その指針として、イーレンフリースは新たに名前を付ける事にした。


「そうすれば、」
「少しはまともになれる気がするんだ」


「『あの子』はな、『平和』って名前なんだ」
「そんで俺が『自由』」
「似てるだろ、『平和』と『自由』。おそろいってやつだ」


ガリガリと地面に書く。きょうだいと自分、それぞれ「Е」と「Н」から始まる名前。「Е」の方を指差し「平和」、「Н」の方を指差し「自由」と言う彼は、己の名前をひどく気に入っていた。最愛の名前と似た意味を持つそれを。ほとんどの記憶を失くしてもきょうだいとおそろいというだけで忘れなかったくらいに、イーレンフリースは己の名前を大切に思っていた。名前とはこの世で最も短い(のろ)いであり、生まれ落ちて最初に貰える(まじな)いであり、そして「αμην(斯くあれかし)」と願われる呪文だ。彼にとっては過去と同様に為人(ひととなり)を表すものでもある。しかし少女が示したそれをそのまま使わせるのは大分収まりが悪い。

だから決意した。新しい名を与える事を。
名を与えるという行為はその存在を認めるのと同義であるからして。

「平和」と「自由」の隣に名前を刻む。
Н、λ、υ───


「『Н()』『λυ(リュ)』『σι()』『α()』……?」
αμην(然り), αμην(然り), αμην(斯くあれかし)


───Нλυσια。
歌うように、呪文を唱えるように。イーレンフリースは(のろ)いと、(まじな)いと、願いを込めた呪文/名を与えた。幾度となく「αμην(然り)」を繰り返しながら彼は少女の、否、「Нλυσια」の頭を抱え込み撫でる。お前は此処に存在していると、そう在って欲しいと刷り込む。


「なあ、俺の『Нλυσια(樂園)』」


抱え込んだ小さな頭にそっと口付け、顔を上げさせる。長い前髪を払い、瞳が顕になる。吸い込まれそうな紫の瞳。己の想いが詰まった紫水晶。

嗚呼、やっぱり、


「Τοσο ομορφη.(美しいな)」


***

※どれが誰かはフィーリングでお願いします※
※怒涛の突っ込みカーニバル※

「???…………!?!?!?」
「ハァイ!コードネーム・アスタロト、本名をエレンフリード・グレコ=アンティノーリ!故郷にて武者修行を終え、只今戻りました!!」
「お、おかえりなさい……、………???」
「あ、この子娘です。ギリシャで拾いました」
「むすめ!?!?え、拾っ、え????」
「元の場所に返してきなさい!!!!」
「いやでーす、もううちの子でーす。Еι Еληη, Πεс Γεια.(ほらエリー、挨拶)」
「Γεια σαс.(はじめまして)」
「なんて??????」
母国(ギリシャ)語だよ。そっちもまだ覚束ないんでイタリア語は追追(おいおい)かな」
「………本気で養う気?」
「当然。……いやぁ、まさかこんな理想に会えるなんて」
「……あ!アンタほんとに連れてきたのね!!」
「責任はちゃんと負いますってぇ。ねぇ?」
「……………」
「あ、ちょ、なんで逃げ、待っっ、エリー!?!?」
「…………オイ」
「そんなに『(アスタロト)』が嫌!?」
「胡散臭いからだろ」

(うつ)くしさに言祝(ことほ)ぐ。

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