空くしさに哭く。

しあわせの呪い


「恋という情も色という欲もないけど子供が欲しい」


くるくると器用にペンを回しながらアスタロトは唐突にそんな事を言う。「俺がパパになるんだよ」などとワケのわからない台詞を吐きながらドヤ顔するこの男を呆れた顔で見、リリスはそれぞれの医療品の残数をチェック表に記入していく。

アスタロトはアセクシャルである。性別に関係なく他者へ恋愛感情や性的感情を抱かない人間だ。特に後者にいたっては嫌悪感すら覚えるほど。だからと言って人間が嫌いな訳ではないし、他者に対して「可愛い」や「愛しい」と思う事だってあるのだが。つまり、「恋愛感情はないけど結婚はしたい」「性的欲求はないけど子供は欲しい」そういった考えは持つのだ。


「養子でもとれば?」
「!!!」
「『今気付いた』みたいな顔すんじゃないわよ」


リリスはそういった性癖に関する偏見を持たないので特に引く事はない。溜め息をつきながらそれらしいアドバイスをすると、その手があったかと言わんばかりにバッと振り向かれる。まるでお手本のような「賢いがどこか抜けているキャラクター」のリアクションをとるアスタロトにイラッとしたのは無理のない話……だと思いたい。いまだにくるくると回し続けているペンを奪い、彼の頭に突き立てる。ドスッというちょっと重たい音と共に「うごッ」と何か声らしきものが聞こえたがそこはスルー。何故かプルプル震えているアスタロトを見下ろし、リリスは真剣な目で問う。


「ちゃんと責任とれるの?」
「大丈夫、めっちゃ可愛がる」
「そういう事じゃねぇよ」


そうじゃねぇ。……思わず口が悪くなってしまった。これだと子供を育てるという責任が何たるかを1から教えねばならないだろうか。育てるとはただ衣食住を与えるだけではない。子供が自分の足で進んでいけるようバックアップをするのだ。それが「親」というものである。目の前の男(どういうワケか涙目でドヤ顔という器用な表情をしている)はそれをわかっているのか?だがまあ、


「アメジストみたいな瞳の子がいいなー。金髪で女の子だとなお良し」
「き き な さ い」


この様子を見る限り、そう簡単に育児放棄するとは思いづらいのも正直なところだった。ぺらぺらと理想の女の子(凄まじい語弊)を語るアスタロトにリリスは仕方ない男だと苦笑を零す。ハイハイと相槌を打ちながら、彼女はチェック表に向き直った。まだ引き取りもしていない架空の娘について嬉しそうに話し続ける男の姿が視界から外れる。……その一瞬。


「……そうすれば、少しはまともになれる気がするんだ」


それまでの軽快な雰囲気が霧散する。誰に聞かせる訳でもない言葉。溜息のように吐き出されたそれがリリスに届く事は、なかった。



***


「突拍子もない事と重々承知の上で申し上げます」

「暫しお(いとま)を頂きたく」


目の前に跪く男はそう言った。血の気の引いた死人のような顔で、虚ろな瞳で、己のボスを見据える。その視線に(おのの)きながらカラメラは「い、とま……とは」掠れた声で訊ねる。彼の言う暇が「休暇」を指しているのか「辞職」を指しているのか「離縁」を指しているのか、動揺した頭では判断が出来ない。だがはっきりとわかる事がある。

……彼が何処かへ行ってしまう。


「行かねばならないと、思いました」
「……まってください」
「これ以上の醜態を晒してしまう前に」
「そんなこと、」
「ここを離れるべきだと」


引き留めようと震える声を絞り出す。やっと、やっと彼と向き合えると思ったのに。首領の地位を下りた父に紹介された山吹色の髪の男。なかなか「本心(うらがわ)」を見せない部下、アスタロト。ノストラ・ドルチェには何らかの事情を抱えている者が大勢いる。彼もその一人だろうという凡その見当はついていた。……その事情がどんなものであるかを本人の口から聞く事は(つい)ぞ叶わなかったが、それでも。ようやく知る事が出来たアスタロトの「本心」と向き合えるのだと。思っていた。そのはずだ、なのに。

彼はそれすらも許してくれないのか。


「……どうしてもですか」
「はい。すぐにでも行かねば」
「どこへ、行かれるんですか」

「──故郷に」


ギリシャ共和国。東南ヨーロッパ、バルカン半島南端に位置する国。その最大の都市であり首都のアテネが、アスタロト───否、エレンフリードの故郷だ。消えてしまったのは全てそこにいた時のもの。ギリシャで最愛のきょうだいと共に過ごしていた、その頃の記憶。まだ「普通」で「まとも」だった時分。きょうだいと手を繋ぎ向かい合って眠ったあの夜。一夜にして大部分を白紙にしてしまったその場所に、彼は行くと言う。


「──帰って、きてくれますか?」
「……え?」
「絶対に、帰ってきてくれますよね?」


震える声で、絞り出すように言うカラメラ。「戻ってくる」ではなく「帰ってくる」。何故だか思った。そう言わなければならないと。少しでも間違えてしまえば、もう二度と彼は「帰ってこない」と。そう思ったのだ。呆然とした様子でカラメラを見上げるアスタロト。言葉の意味を理解出来ず聞き返してしまった。帰って、くる?


「──ええ」

「ええ、勿論ですボス。必ず帰ります。私にはもう、此処しかないのですから」


己のボスの目を見ながら、彼は断言した。必ず帰ると。此処が、ノストラ・ドルチェが、己の帰る場所なのだと。ぎゅっと握り締められた幼い首領の手を優しく包み、アスタロトは今此処で「休暇申請」を行った。「辞職願い」でも「離縁要求」でもない、「少しの休み」を彼は求めたのだ。安堵で体の力を抜き、カラメラは自分の手を包むアスタロトの大きな───しかし細い。拒食症の弊害だろう───手を握り返した。


「──アスタロト報復員の休暇申請、承りました」
「ありがとうございます。申請書は後ほどに。提出し次第すぐに発ちます。……この度はお騒がせして申し訳ありません。帰ってきた暁には『まとも』に仕事に従事する事をお約束しましょう」


感謝するようにカラメラへ頭を垂れ、立ち上がる。そして迷惑をかけてしまった仲間たちに謝罪した。相変わらず瞳は伽藍堂のままだが、そこに先程のような不安定さは見受けられない。刺し貫く視線から逃げるように、ふらりと覚束ない足取りで退室する。長い廊下を歩き続け、時たま壁に手をつきつつ、辿り着いた自室に足を踏み入れる。ドアをバタンと閉めそこに(もた)れかかると、そのままずるずると崩れ落ちた。冷や汗は頬を伝い息を切らし、「男」は立てた膝に顔を埋める。チカチカと点滅する視界から逃れるように目を閉じた。


「…………帰ってくる、か」


こうして、アスタロトは暫くの間ノストラ・ドルチェを離れる事となる。


***


「※※※、ずっと一緒にいようね」


幼い子供が手を取り合い目を閉じる。明日は何をしようか。どこへ行こうか。まだ見ぬ明日の楽しみを考えながら二人は眠りにつく。普段こそ似ていないと、双子に見えないと言われるきょうだいだが、健やかな寝息をたてる姿は大層そっくりで。きらきらと光る金髪、それに比べて少し落ち着かせた色合いの髪。それぞれの髪を揺らしながらぐっすりと明日を夢見るこの二人。明日が来る事が当然だと信じて疑わない彼ら。その純真無垢な思いを、迎え入れた朝は容易く踏み躙った。


「どこ、どこにいるんだ……?※※※……※※※!」
「いやだ、そんな、」
「どうして!!※※※!!」

「※※※……おれの──」



***


「──いとしい子」


目を開けた。美しい海が広がっていた。

靴を脱ぎ、靴下を放り投げ。己の首領に休暇申請書を提出し、すぐさまイタリアを発った「男」は浅瀬で足首まで浸かり立ち竦む。季節(シーズン)外れのエーゲ海に観光客の姿は(まば)らだ。潮風が頬に当たる。その感触がどこか懐かしく感じるのは、此処に訪れた事があるからだろうか。何も、覚えていないが。

いとしい子。俺のいとしいきょうだい。
きみがいなくなってから随分経ちました。

とある人に拾われ、俺は新たな環境で新たな人間関係を築く事になりました。でもそれはとても難しかったです。他人と関わる事は、とても。きみがいなくなってしまった事で、俺は他人と関わる事に恐怖を抱くようになったのです。また、消えてしまうのではと。それまで生きた過去(あかし)が失くなってしまうのではと。とても、恐かった。だから俺は考えました。俺を拾ってくれた人は俺に新しい名前をくれました。その名前を利用して、その存在を演じよう(・・・・)と。

苦痛に感じた時もありました。恐怖を覚えた時もありました。でも、そうしなければ、生きていけませんでした。なにもない。なんにもない。俺が持っているものはなんにも。空っぽなのです。伽藍堂なのです。空虚なのです、きみの事以外は。だから演じました。だから偽りました。悪魔の名前を借りて、それらしく(・・・・・)。空っぽのエレンフリードは取り繕いました。過去と未来を知る悪魔を取り繕いました。

演じて、偽って、取り繕って、そして。どれほど時が経ったのでしょうか。きみがいなくなってから。それらしいモノ(アスタロト)になってから。長くも短くも感じます。数十年にも、数秒にも思えます。取り繕って継ぎ接ぎだらけになってしまった化けの皮(アスタロト)。ぼろぼろになってしまった最後の砦(アスタロト)

俺は、私は、僕は、みつかってしまった。
空っぽである事がバレてしまった。
なんにもない事を知られてしまった。


「どう、しよう」


俺はどうすればいいのでしょう。なんにもない事が露見してしまった。必死に隠していたのに。見つかりたくなかったのに。あの場所に必要なのはアスタロトであってエレンフリードではないのに。どうすれば、どうすれば。俺は、私は、僕は、おれは、どうすれば。嗚呼いっそ、


(コロ)してしまおうか」


あやふやな自分を。この手で、絞め殺してしまえば。

なぁに、簡単です。首に添えた手にちょっと力を込めるだけ。そうすれば器官が狭まり、呼吸もままならなくなる。少しの間、酸素の通り道を塞いでしまえばいい。それだけ。それだけでいい。それだけなら、この痩せ細った手でも簡単に出来るでしょう。やがて意識を失い、この浅瀬へと倒れ込む。そして波打つ海水が肺を侵食する。酸素の居場所を奪う。

海を共犯者にして俺は殺す。
空虚さに絶望して俺は死ぬ。

さあ。首に当てたこの手に力を込めて。じわりじわりと意識を追いやるのだ。

ぐ、と力を込める。血管は圧迫され、気道が狭まる。酸素が上手く取り込めなくなり、くらりと視界が揺れる。はくはくと口を動かし酸素を求めるも、首を掴む手は緩めない。生理的な涙が滲む。そういえば。最後に泣いたのはいつだっただろうか。感情的になって涙を流したのはいつだっただろうか。アスタロトとして、エレンフリードとして。心の底から、思いの丈を口にしたのは。でも、もう。それも出来ない。今ここで、俺は。終わりにしたい。

先代、先代。私は、私には、あの幼い首領のお傍にいる事が出来ません。せっかく居場所を与えて下さったのに、私はあなたに恩を返す事も出来ず終わりにしようとしています。失くしてしまった「過去」に縋り続けた、その成れの果て。あの手紙にも書いた通りの「空っぽ」な私を、あなたが悼む必要などありません。嘆かれる権利すら私にはないのですから。あなたの期待にも思いにも応える事が出来なかった私を、どうか赦さないでください。いなくなった最愛にばかり(かま)けて、他を疎かにした()けが回ってきただけの事。自業自得とはこの事を言うのでしょうね。

お傍にいると、必ずお守りすると。幼き首領に告げたこの誓を破った罰は、人知れず死に忘れ去られる事に他ならないでしょう。

つらかった。いづらかった。
くるしかった。いきぐるしかった。

───終わりにしたい。

ただひたすら、いたかった。

───終わらせたい。

心がいたかった。心遣いがいたかった。

───殺したい。

思いがいたかった。重さがいたかった。

───死にたい。


「帰って、きてくれますか?」

「、ひゅ……っぁ」


お傍に、いたかった。


───死、ねない。


ずっと一緒に、いたかった。


───俺は、死ねない。


「絶対、帰ってきてくれますよね?」

「なんで…どうして……」


力が緩んでしまった。塞き止められていた血液が元の速さで流れだす。狭まった気道が元に戻り、酸素が肺を満たす。

死のうとした。自分を殺そうとした。故郷の、この美しいエーゲ海で、全てを終わらせようとしていた。………はずなのに。死ねなかった。殺せなかった。終わらせられなかった。

幼き首領の言葉に引き摺り戻された。

……呪いだ。嗚呼これは呪いだ。彼は見越していたのだろうか。こんな呪いをかけるなんて、なんて御方だ。あの時読んでいらっしゃった本、「Goetia」。ソロモン王が使役した72柱の悪魔から入れ知恵されたに違いない。少々系統は異なるが、明らかにこれは呪いだ。嗚呼、ちくしょう、やられた。俺は先手を打たれたのだ。身勝手に終わらせない為に、首領は俺に呪いをかけたのだ。

人の決断を曲げる呪い。
断腸の思いをあっさりと覆らせる強力な呪い。

死へと堕ちていった思考を生へと引き摺り上げる、恐ろしい呪い。

俺は死ねない。あの言葉を頂いてしまったから。俺は死んではいけない。是と返してしまったから。絶対にと、帰ってきてくれるかと、そう訊かれたのだから。勿論と、必ず帰ると、自分にはもう此処しかないと、そう応えたのだから。なんて呪いだ。死ねない。死んではいけない。


「死なせてくれないのか……!!」


こんな空っぽの自分を。首領、あなたは。

目頭が熱い。さっきとは違う何かが目から溢れる。長らく見ていなかったそれ。久し振りのそれ。……涙とは、こんなにも際限なく湧き出るものだったのか。


顔をくしゃくしゃに歪め、「男」はみっともなく嗚咽を零しながら哀哭した。


「おれ……おれ、もうわからないよ」

「たすけて、エリー」


***


「え、りー……?」

(うつ)くしさに()く。