02
からりと乾いた空気に雲一つない青空は見るだけで心を高揚させる。こんな日は外へ出ず、家にいる方がいいと思っているのに、なまえは珍しくもジクジクと刺すような日差しの下にいた。真上から降り注ぐ熱に目が潰されそうだ。太陽の光があまりにも眩しく、目を細める。こんな日差しを浴び続けては沸騰してしまうと、そのまま逃げるように建物の陰に駆け込んで駅へと急いだ。
時刻表通りにホームへやってきた電車に乗り込んで、なまえはホッとした。運が悪いと突発的に発生したホロウで電車が来ない、なんてこともあるのがこの新エリー都である。冷房がよく効いた車両の中で携帯をぎゅっと握りしめて、深呼吸をした。握りしめられた画面にはリンからの「落ち着いて行動すること!」「変なことをしちゃいそうになったら私かお兄ちゃんの顔を思い浮かべること!」のメッセージが映し出されている。
ヴィクトリア家政に指定した日付をなまえは携帯に大切に登録していた。それだけは飽き足らず、家にあるカレンダーというカレンダーに印をつけたのは記憶に新しい。鮮やかに彩られた日付はまさしく今日≠ナある。つまり、なまえにとって待ちに待った日だった。
昼夜問わず人が行き交うその場所はビル街と呼んでも問題はないだろう。六分街と異なり、学校帰りの学生の姿も目立つ流行があふれた場所である。そんなルミナスクエアにあるショッピングモール──ルミナモール──前が待ち合わせ場所だった。わかりやすい場所がいいだろうとそこを指定したのは依頼主のなまえである。しかし、なまえは目的地に電車がついたというのに改札へ向かわずにホームで立ち尽くしていた。どこを見ているかも定かでなく、焦点の合わないぼんやりとした目。思いつめて、ホームへ身を投げようとしていると言われても納得してしまうような雰囲気だ。
電車の出発を知らせるアナウンスが響き、その音でなまえはようやく動き出した。ふわふわとした足取りはある意味浮足立っているようにも感じられる。まるで幽霊のような足取りのなまえが向かうのは改札ではない。速足で人込みの間隙を縫って進み、滑り込んだのは化粧室である。幸運にもそこには誰もいない。なまえは鏡の前に立ち、自分の顔を見る。鏡の中には蛍光灯の光に照らされた青白い顔の女がいた。
顔色の悪い自分を見てなまえは少し笑ってしまった。自分の行いに自分自身が後悔していることを改めて感じてしまったのだ。
なまえは動物が好きである。艶艶と滑らかな皮膚をもつ蛇やキョロキョロと大きな瞳をもつ蜥蜴が好きだし、猫や犬、鳥などのもふもふとしている生き物も大好きだ。街中でネコのシリオンやサメのシリオンを見かけるたびに横目──本当はじっくり見たいがそんな不躾な視線を送るわけにもいかない──で見てしまう。自分にはないものを持つ人を眺めることも、なまえは好きだった。
そんな人間の前にオオカミのシリオンであるライカンが現れた。いつものなまえだったら「あ、もふもふな人だなあ」と思う程度。シャンと伸びた姿勢を遠目から眺めて終わりだ。しかし、Random Playでアキラと親し気に話すライカンを見てなまえは弾けてしまった。
簡潔に言ってしまえば羨ましくなってしまったのだ。自分になかなか心を開いてくれなかったクロ──六分街で自由気ままに過ごす大変かわいらしい猫である──が見知らぬ誰かにすり寄っているのを目撃してしまったときのような衝撃。「私というものがありながら、他の女に媚びを売るのね! でも、かわいいから許してしまう……」とリンに絆されている猫たちを見てしまったときの気持ちを思い出した。初対面の、偶々すれ違っただけの相手に向けるにはあまりにもぞんざいな気持ちが生まれてしまった瞬間である。その気持ちだけで存在も定かではない情報屋を頼り、ヴィクトリア家政なんて縁もゆかりもない会社までなまえはたどり着いた。
なまえは存外、腰が重い。自身の欲求に素直ではあるが、それ以上に損得勘定で動くことが多かった。思い立ったら即行動、なんてらしくもないことだ。でも、実践できてしまった。自身の行動力に感心すると同時に圧し掛かるのは自己嫌悪である。自分がやっていることは違法行為に抵触しているかもしれない。いや、抵触しているだろう。近年プライバシー保護など、個人が尊重され、守られるご時世なのだ。そうでなくても情報屋なんてアンダーグラウンドな存在を頼ってしまっている。清廉潔白、とは言わないがそれなりに善良な市民をしてきたなまえにとってこれは確かに悪いこと≠セった。
「やって、しまった」
リンへ相談したときにやっぱりやめると言えばよかった。自分が何かすれば、リンやアキラに迷惑がかかる。それどころか六分街も悪い意味で注目を浴びてしまうかもしれない。なまえの頭の中で治安局員が自分の肩に手を置く光景が鮮明に思い浮かぶ。鏡の中の女の顔色も一層悪くなった。
そんななまえに活を入れるように携帯が震えた。思わぬ刺激に肩を跳ねる。ぴかぴかと光る画面を見ると「なまえ姉は強い」「当たって砕けろ!」とメッセージがぴこんぴこんとリアルタイムに増えていた。
ノックノックの増え続ける通知になまえは目をぱちくりとさせた。その間にもメッセージと通知は増えていく。「待って……砕けないで……」「ダイヤモンドは砕けない」の文面を見た瞬間、なまえは自分の口元が緩むのを感じた。両手で携帯を包むように握る。ゆっくりと息を吐き出して、目を瞑った。大丈夫、大丈夫……、とビデオ屋の兄妹の姿を思い浮かべながら自分へと言い聞かせる。そのまま目を開けば、先ほどより随分と顔色が良くなったなまえの姿があった。
ライカンと合流する前になまえはやるべきことがあった。自分を落ち着けることも含まれていたが、それだけではない。リンからの応援メッセージに「漢、なまえ。任務を完遂します」と返信し──突拍子もない返信にリンが「えっなまえ姉、本当に大丈夫かな……すっごい不安……」と困惑していたことは言うまでもない──なまえは情報屋から提出されたカスタムサービス申込書の画像データを開いた。申込書にはスタッフの指名や指名理由・サービス内容の他、ホロウに入る必要性や動物の毛アレルギーの有無などが書かれている。なまえはその一番下に書かれている文章を心にとめるように読み上げた。
「ヴィクトリア家政は尻尾への接触サービスを提供しておりません=v
なまえは確かに情報屋に「ヴィクトリア家政のライカンへどうしても依頼をしたい」とお願いをした。しかし、そのお願いの内容はあくまで家事代行であり、それ以上でも以下でもない。故に、情報屋が依頼主は執行責任者のもふもふが狙い≠ネんてことを知っているはずもない。
申込書にわざわざ書かれているということは、本当にお断りだということだろう。リンからも「シリオンのしっぽへのおさわりはダメだからね! 頭とかあごは、セーフだと、思う……たぶん」となまえは釘を刺されていた。尻尾には感覚細胞が多く通っているため、犬や猫は触られるのを嫌がる。そうでなくても、ほぼ初対面の人物に対して「尻尾を触らせてください!」なんてお願いできるほどなまえは思い切りが良くはなかった。まあ、それでも頭やあごは狙っているわけだが。
∴∵∴∵
余裕を持って行動する。それは社会人として基本的な行動だ。それを他人に強要する気はないが、人を待たせることに対してなんとなくなまえは罪悪感を持っていた。その考えは社長令嬢として行動する今日も変わらない。
左手に着けた腕時計の針は思ったよりも進んでいる。余裕をもって家を出たはずなのにうまくいかないものだ。なまえは道路をパタパタと駆け足で進む。うっすらと汗がにじむがそれを気にする余裕もなかった。
ルミナモール前は人が多い。それは純粋に人通りが多いとも、待ち合わせに使われやすいとも言える。絶え間なく人が行き交う中、なまえは少し離れた場所からでもその人物を見つけた。どれだけ人がいようとなまえの目にはしっかりとその姿が映る。すらりと伸びた背筋に手入れの行き届いた綺麗な毛並み。ピクピクと周りの音を拾っているのか小さく動くかわいらしくも仕事熱心な耳。きっちりと着こなされた執事服にまるで自身を律するようにつけられたハーネスと無骨さ以上にしなやかな印象を与える機械仕掛けの足。時間を確認するために開かれた懐中時計も彼の気品を引き立てる小道具のようにさえ思える。まるで、夢のような光景だった。なまえの足が止まってしまったのは仕方ないことだろう。なまえはライカンという存在に対して耐性がなく、頭の中でどれだけシミュレーションしようと本物≠ノは敵うはずもなかった。
なまえはその場に立ち尽くした。夢にまで見たライカンが自分を待っている。その事実を強く実感し、反射的に手で口を押さえた。ジッと、ライカンの挙動を見逃さないように観察する。そんな不躾な視線にオオカミのシリオンが気付かないわけがなかった。懐中時計を胸ポケットにしまったライカンの瞳がなまえを捉える。目が合ったと理解するより早くなまえは歓喜した。きっとアイドルに遭遇したファンはこんな気持ちなんだろうなあ、と自分の気持ちが高揚していること理解する。ゆっくりと、着実に距離を詰めてくるライカンをなまえは眺めることしかできない。ふわふわと揺れる耳と尻尾を追うのに神経を集中させてしまっていて、足が縫い付けられたように地面から動かなかった。
「この度はヴィクトリア家政をご指名いただき、誠にありがとうございます」
目の前で恭しく礼をするライカンになまえはようやく頭が働き始めた。
「え、あ、い、いえ……」
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。本日随行させていただきます、フォン・ライカンと申します」
「い、いえそんな! わ、私はなまえと言います。今日はよろしくお願いします、ライカンさん」
再起動した脳みそは目の前の状況を正しく処理しようと必死に働く。取り込んだ酸素はすべて思考回路に使われているのではないか。そう思ってしまうほどになまえの思考はふわふわしていた。寝起きのような、酸欠のような感覚を覚えながら、ぎこちない笑みを浮かべる。目の前に焦がれてやまなかったライカンがいる。その事実だけでだらしなく緩みそうになる顔の筋肉を必死に動かした。
「今日は、その、ルミナモールで買い物をして、えっと映画を観て、それと、えっと……」
ライカンは仕事としてこの場にいるのだから、ちゃんと業務内容を伝えなければならない。ただでさえ、なまえは漠然とした依頼内容を投げている新規依頼者である。これ以上迷惑はかけられない。必死に現時点で決定しているスケジュールを頭の中で整理する。今日一日の流れとしてそれをライカンに伝えようとなまえは口を動かした。しかし、ちゃんとしなければならないという義務感以上に緊張が上回ってしまい、言葉がうまく出てこない。それが焦りを生み、なまえを思考の底へと突き落とす。
「かしこまりました。まずはルミナモールでお買い物でございますね」
ぐるぐると思考を巡らせ続けるなまえを落ち着けるようにライカンは穏やかに声をかける。
「は、い」
「本日のご予定はその都度、このライカンに仰せ付けください」
混乱を溶かすように軽く腰を折り、なまえへ視線を合わせるライカン。なまえはキラキラと光が反射して、まるで宝石のような深い赤色の瞳を見て思考を飛ばした。
「るみな、もーるで日傘が欲しくて」
「そうでございましたか。猛暑が続きます故、日傘は必需品と言っても過言ではありません」
「あの、普段使いする程度のものなので、そんな高いものを買う予定はないんです」
「あくまで機能性を重視した品をご所望である、ということですね」
お金持ちのお嬢様であることを念頭に置きながら、なまえは言葉を選ぶ。普段のなまえであれば少し背伸びした品を買おうとそれほど問題はないだろう。しかし、ヴィクトリア家政へ依頼するためになまえは大枚をはたいた。さすがにそれによって無一文になる、なんて考え無しではない。だが、財布が薄くなったことは確かだった。現在の懐事象を考えるとお金持ち御用達の場所なんて足を踏み入れたら、ただの冷やかしでしかない。ライカンという大層な執事を連れていながら、そんな真似は絶対にできない。今のなまえにとって自身が恥をかくことは同時にライカンに恥かかせることも同意義であった。
「お、お父様がライカンさんにどういった依頼をされたかは、私は詳しく知りません。ただ、私は買い物をして、映画を観たい。それだけなんです」
居もしない企業で社長業に従事する父を思い浮かべながら、なまえはにっこりと笑う。安価な品物を購入するのも、ただ街をぶらつくのも、映画館で映画を観るのも全部一人でやってみたいこと。でも、父はそれを許してはくれず、ライカンを同行させることを条件に許可がようやく下りた。心配性の父から自立したい娘──それが今日、なまえが演じる社長令嬢だった。
「旦那様よりなまえお嬢様の命に従うように、とのみ仰せつかっております」
「、そうですか」
お嬢様と呼ばれた衝撃に何とか耐えながら、なまえは情報屋に感謝した。娘の自主性を損ねない程度の依頼として処理してもらう。何か問題が起きなければ、今日の依頼は本当に付き添い≠ナ終わる。実にいい塩梅である。
あとはどうやってライカンのもふもふを堪能するか──なまえにとって、大変重要な任務である。直球で「触らせてほしい」と頼むとしても、今ではない。自身がいつも接している猫たちのようにシリオンに接していいはずがない。まずは信頼関係を、いや、とりあえず撫でてもおかしくない流れを作らなければならないだろう。何かいい手はないだろうか、と考えを巡らせるなまえはちらりとライカンを見た。そんななまえの考えなど知らないライカンはごく自然に「どうぞ」となまえをルミナモールへと導く。
「ありがとうございます」
「日傘、となりますとこの建物の5階に「Lumina noble」が店舗を構えているようです」
なまえでも聞いたことがある傘専門店の名前をライカンはさらりと口にする。もしかしてルミナモール内のすべての店舗を把握しているのではないか? 一瞬ありえないと考えたが、相手はホロウだろうが何でもござれなプロのエージェントだ。本当にそうかもしれない。
「ご主人様がお気に召される品があると良いのですが……」
「え、ご、ごしゅじんさま……?」
ピシャンッとなまえに雷が落ちた。お嬢様呼びを耐えたなまえの耐久力では追撃を防ぐことは難しかった。聞きなれない単語に再起動した思考はそのまま強制終了寸前まで追い込まれる。今まで生きてきてなまえはご主人様≠ニ呼ばれたことはない。いや、なまえ以外の一般市民の多くもそうだろう。メイド喫茶やら執事喫茶など特殊な状況下に置かれない限りその名称が使用されることはほぼないとさえ思っている。実際、なまえにとってご主人様は創作上のものであり、現実的なものとして実感できるほどに近くに存在していることはなかった。
「ごしゅじんさま、ですか」
動揺して同じことを繰り返すなまえにライカンは「失礼いたしました」と目を伏せた。
「旦那様よりこの度はあくまでなまえお嬢様がご依頼をされており、ご主人様はなまえお嬢様であるとお伺いしていたため……申し訳ありません。何か不都合がございましたでしょうか」
「え、あ、いや! いやだとかそうじゃないんです……その、そう! ご主人様だなんて初めて呼ばれたので、」
「本当にそれだけなんです!」となまえは動揺を隠すことができず、声が震える。心なしか体温も上がっている気がしたが、それは太陽のせいにしよう。そう自分に言い聞かせてなまえは足を動かす。
「さあ、いきましょう」
なまえの勢いに押され、動作を止めたライカン。そんなライカンの姿を気に掛ける余裕がなまえにあるわけもなく、令嬢らしからぬ買い物が始まったのは言うまでもない。
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