noon


03


 ズズズッとみっともなく音を立ててミルクティーを啜る。釈然としない気持ちのまま、なまえはある一点を眺めていた。視線の先には誰もいない。ただ、何もない通路が広がっているだけだ。
 なまえはポツンとベンチに座っていた。その横に控えていたライカンの姿はない。
「ふわふわ、してた」
 自身をしっかりと支えていた腕を思い出して、なまえは自分の左手を見る。そこには何もないはずなのに、何かがある気がした。

 無事に日傘を手に入れたなまえは、次はどうしようかと考えていた。自身が購入した品物は自然な動作で──それが普通だと言わんばかりに行動するライカンになまえが感動したのは言うまでもない──ライカンに取り上げられてしまっている。ふらふらとあたりを見渡しながら歩くなまえをライカンは急かすわけでもなく、ただ付き従う。出しゃばることもなく、スマートな対応だが自主性の薄いなまえにとっては少し苦痛でもあった。依頼主として、ご主人様として、仕事を与えるべきなのだろうか。そう考えても、日常生活において他人に命令を下す立場にないなまえはらしい言葉≠見つけることができない。
 最近は暑いだとか、仕事は大変だとか、沈黙を作らないように口を動かし続ける。他愛無いなまえの話にライカンは相槌を打つ。その相槌がなんとも心地良くて、なまえは話を止めることができなくなっていた。否定することもなく、追及することもなく、表面をなぞるような会話はどこか心を落ち着かせる。
 だが、いつまでもウィンドウショッピングを楽しむわけにもいかない。いくら予定を立てていないと言っても、このようにライカンを消費することをなまえは許容できなかった。どうしたものかとライカンとの軽い雑談を楽しみながらも頭を悩ませる。その時だ。プツンッと何かが切れるような、抜けるような音がした。なんだ、と考えるより先になまえはカクンと自分の足が崩れるような感覚に襲われる。
「失礼します」
 体勢を崩す前にふわりとした浮遊感。先ほどよりも近くで聞こえるライカンの声。遠くから「わあ!」と歓声のような、感嘆のような声も聞こえた。何が起こったのか理解できず、なまえは自分を支える存在に身体を預けることしかできない。
「……固定具が外れてしまっていますね」
 左足から抜けたサンダルが落ちている。片膝をつき、跪いたライカンは立てている方の足の太ももになまえを置いた。片手で落ちないようにしっかりと固定されたなまえは急な出来事にされるがままだ。おとなしく置物に徹しているなまえを尻目に、ライカンは地面に転がっているサンダルを拾い上げた。
「熱で接着面が溶けてしまったようです」
 ブツンッと音がしたのは自分が履いていたサンダルが壊れたから。足が崩れるような感覚はサンダルが壊れたのにそのまま歩こうとしたから。ふわりとした浮遊感は、転びそうな自分をライカンが支えてくれたから。なまえは自身に起きたことを一つずつ理解していく。
「、ありがとうございます」
 助けてもらった事実にようやく行き着いたなまえはライカンを見る。ライカンのおかげでなまえは傷一つない。本来であれば、サンダルと一緒に地面に転がっていていただろう。地面に倒れている自分を想像し、なまえはライカンに密着している恥ずかしさよりもその働きぶりに感心していた。それと同時に道の端を歩いていたことに安堵した。道のど真ん中でこんな、映画のようなワンシーンを繰り広げていたら今以上に視線が痛かっただろう。
 腰に添えられている手も、自分を軽々と持ち上げて見せた力強さもライカンがただの執事でないことを証明している。依頼があればホロウ内での活動も行っているエージェント。自身が関わるとしたら、それこそ運悪くホロウ災害に巻き込まれた時くらいだろう。
「お怪我はありませんか?」
 どこか目をキラキラさせたなまえにライカンは気遣いの姿勢を崩さない。それがなまえはいじらしく感じてしまう。この場にいるライカンはどこまでも執事≠ナあった。
「ありがとう、らいかん」
 隣を歩いていた時は随分と上にあった頭が目の前にある。その事実になまえの手が自然と伸びる。右手はライカンの頭に。左手はライカンの顎に。吸い寄せられるようにゆらゆらと揺れながらも、確実に近づいてくる手をライカンは不思議そうに眺めている。その表情がかわいらしく、なまえは自身の衝動へ素直になった。
 右手はライカンの頭を軽く撫で、左手を顎に滑らせる。丁寧に、毛の流れに逆らわないようにゆっくりと。ふわふわとした毛に自身の指が沈んでいくのを感じながら、なまえは「らいかんはえらいねえ」と目を細めた。これは多幸感ってやつかもしれない。主人の手を振り払うこともできず、困惑しているライカン。その姿に申し訳なく思いつつも、なまえの手が止まることはない。
「……勿体ないお言葉です」
「あなたのおかげですよ」
 鼻から頭にかけて、犬でいうストップを揉むように撫でる。さすがにハーネスとの隙間に指を滑りこませる、なんてことはしない。したかったが、なまえの溶けだしたなけなしの理性がそれを止めた。指先から伝わる体温と手を包み込むふわふわとした感触。想像していたよりも固い毛質を堪能しながら、耳の後ろを掻くように擦る。
 六分街には猫はたくさんいるが、犬はあまりいない。なまえは犬より猫派ではあるが、犬を撫でたい気持ちがないわけではない。ルミナスクエアでは犬を見かけるが猫と違い、犬を撫でるのはどこか敷居が高かった。その欲が、この瞬間に浄化されていく。わしゃわしゃと無造作に、自身の衝動に任せて雑に撫でることはできない。感覚を覚えるように、丁寧に、包み込むように触れる。
 困ったようにこちらを見ていたライカンの目にキラキラと光が反射する。キュッと結ばれていた口元が心なしか緩み、吐息が漏れていることに気づいた。極めつけに、パタパタと軽く地面を叩く尻尾を見て、なまえは破顔する。ああ、かわいい。気持ちがいいのかなあ。相手がシリオンでなければ、目の前の毛に顔を埋めていただろう。
 「えらい」「いいこ」「ありがとう」と理性と一緒に思考まで溶けたなまえは言葉を繰り返した。相手が嫌がっていないならいいだろうと自身の行為に対して無理がある正当性を付与する。ふわふわとした感触を楽しみながら、耳の付け根や顎を指先で軽く掻く。それを何度も繰り返していく。心なしかライカンの目がとろんとしている気さえした。しかし、ライカンの口からちろりと赤い舌が覗いたのを見た瞬間、なまえは冷や水を浴びせられた気分になった。
 自身に残っていた理性が一斉に自分を責め立てる。これは、マズい。ドロドロに溶けていた理性が瞬間冷凍されて固まっていく。後ろからナイフを突きつけられたような、言いようのない感覚がなまえを襲った。今の自分は客という立場を利用して好き勝手している迷惑な人間に他ならない。リンに「変なことをしちゃいそうになったら私かお兄ちゃんの顔を思い浮かべること!」と言われたが、変なことをしてしまった後はどうすればいいのだろうか。リンがこの場に居れば「もうやっちゃったことは仕方ないんじゃない?」と介錯してくれただろう。
 ぎゅっと胃が締め上げられる。それでもなまえの手は止まらない。もうこんな機会はないんだから。どうせやってしまったんだから。手を止める理由よりも止めない理由の方が湧いて出てくる。
「なまえお嬢様」
 名前を呼ばれ、なまえの手はようやく止まった。あれほどまでにライカンに触れる理由を挙げていた身勝手な思考は完全に停止した。フーッと深く息を吐き出したライカンになまえは静々と手を引っ込める。
「あ、あはは……すみません。どうしても、その、撫でてみたくて……」
「いえ。ご主人様に求められることは至極光栄に存じます。ですが、このような体勢はなまえお嬢様の負担になりますゆえ」
 道の端とはいえ、人が行き交う場所であることには変わりはない。いつまでもそこにとどまるのは通行の妨げであり、迷惑行為に該当する。仲睦まじいやりとりをする二人を横目に見て去っていく人たち──つまりはグサグサと突き刺さる視線──の存在に気づいたなまえは居た堪れなさを覚えた。早くこの場を去らなくてはならないがサンダルは留め具を失ったため、足に引っ掛けるしかない。そんな足元が無防備な主人を執事が許すはずもなく、履物を失ったなまえはライカンに運搬されたのである。
 当然のようにベンチへハンカチを布いたライカンはその上になまえは下ろした。そのままあれよあれよとサンダルを脱がされ、飲み物を与えられ、冒頭へと至る。

 ライカンに「少々お待ちください」と言われたなまえはこの場所で景色を眺めることしかできない。そうでなくても、今のなまえは裸足である。移動したくても移動できない。空になったカップの中で氷を転がしながら、なまえは自身が行った蛮行を思い出す。手に残る感触はなまえが待ち望んだもので、後悔はない。後悔はないはずだが、自責の念にかられる。
 戻ってきたライカンにどんな顔をして接したらいいのだろうか。ゆらゆらと足を揺らしながら考える。頭の中でリンが「なまえ姉はやらない後悔よりもやる後悔だもんね」と呆れた顔をしていた。自身の猪突猛進さを理解しているイマジナリーリンに大きく頷く。いつホロウに放り込まれてもおかしくない新エリー都で暮らしている以上、悔いがないように生きなければならない。
「ま、いっか」
 どうせライカンとの関係は今日限りの単発的なものだ。明日には依頼をしてきた人間のカテゴリーに放り込まれるだけ。今日を楽しく過ごして、これ以上迷惑をかけなければ問題ないだろう。ライカンは六分街にも、Random Playにも出入りしているが、それはそれ。なまえが街中でライカンとすれ違ったのは一度だけだ。頻繁に遭遇するはずがないのだから、気にするほどのことでもない。ただ、リンとアキラにはライカンに迷惑をかけたことを伝えておいた方がいいだろう。
 ビデオ屋の兄妹はなまえにとって大切な──リンとアキラはどう思っているかは知らないが──家族のような存在だ。しっかり者の兄と活発な妹。ホロウ災害なんて存在しなければ二人とも親の保護下ですくすくと育っていてもおかしくない年齢だ。だが、この死が隣接する世界で二人は懸命に生きている。腐ることなく、なまえからみれば眩しいくらいに真直ぐに。だから、なまえは二人に情を注いだ。同情なのか、愛情なのか定かでないものをただ注いだ。綺麗なものを綺麗なまま保存するように。自分に足りなかった何かを埋めるように。
 そんな大切なリンとアキラに迷惑をかけることはあってはならない。ライカンに二人との関係を知られていない現状なら、うまく立ち回れるはずだ。万が一にも自身の行いによって、リンとアキラの評判を下がってしまったら、なまえは自分を許せないだろう。
 とりあえず、普通にしておこう。何か言われたら世間知らずということで押し通せばいいか。そう結論付け、ぼうっと遠くを眺めているなまえの手から空カップが消える。それと同時に、結露した水滴によって濡れた手が優しく拭われた。今日だけで随分とされること≠ノ慣れたなまえは自分の横に現れた人物へ視線をやった。
「お待たせいたしました」
 戻ってきたライカンの手には紙袋が握られている。紙袋に書かれているブランド名を読み終える前にライカンはなまえの前に跪いた。
「そんなに待ってないですよ。丁度、飲み終わったところですし」
「そうでございましたか」
「あの、それは?」
 何かを買いに行っていただろうライカンへなまえは問いかける。するとライカンは「急ごしらえで申し訳ありませんが、こちらを」と紙袋から長方形の箱を取り出した。
「さん、だる……」
「本来でしたらご主人様にこのようなものをお送りするのは憚られるのですが、急を要しましたのでお許しいただきたく。サイズ、履き心地に関しては販売員さまに相談させていただきました」
 箱の中身は白いサンダルだった。このままでは移動もままならないとライカンはすぐに行動したらしい。目の前に差し出されたものを見て、なまえはすぐさまカバンを漁った。いつもよりも小さいカバンの中には携帯や財布など必要最低限のものしか入っていない。すぐに目当てのものをみつけたなまえはカバンからそれを引っぱり出す。
「いくらですか!?」
 財布を両手で握りしめ、お礼よりも先に出た言葉。執事の業務として金銭の管理もすべて行う場合があるが、なまえはすべてをすべて管理してもらうつもりで依頼をしていなかった。つまり、ライカンに財布を預けていないのである。考えれば、渡されたミルクティーだってなまえはお金を出していない。
「そうだ、飲み物も、待って……ほかには? ライカンさん、他にお金払ったりしてませんよね?」
「なまえお嬢様……このライカン、ご主人様のために最善を尽くすことこそが至福」
「答えになってないんですけど……」
 曖昧な笑みを浮かべて答えを濁すライカンは押し切るように「恐れながら、お手を触れてもよろしいでしょうか」とサンダルを片手に問う。動揺もなく、当たり前のように行われる行為になまえは考えるのをやめた。どうやったって、ライカンはなまえからお金を受け取る気はないようだ。これは必要経費になるのだろうか。経費として落ちるなら、お金を渡すことによって余計に事務処理がややこしくなるかもしれない。ライカン自身が望んでいないなら、押し付けるのは違う気がする。財布を握りしめながら、なまえは恨めし気にライカンを見た。

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