第二章
強く優しく美しく、03

 

 目を丸くする千冬くんの横で、圭ちゃんはカズトラくんを睨みつけた。

「あきちゃん!? なんでココに」
「‥‥‥カズトラぁ。テメエか」

 どうしてここに、マイキーやドラケンくんではなく、圭ちゃんと千冬くんが。
 しかも着ているのは東卍の特攻服だ。こんな昼間から集会や抗争があるわけでもないのに。

 カズトラくんはニコリと笑った。底冷えしそうなほど空っぽな眸に、険しい表情の圭ちゃんが映る。

「だって、あきちゃんなら確実にマイキーに伝わるでしょ。場地は心から東卍を脱退して芭流覇羅に入りました──ってさ!」

「‥‥‥え?」



 圭ちゃんが、東卍を脱退して、芭流覇羅に、入る?



「そういうコト。大丈夫だいじょうぶ、大人しく眺めてりゃ痛いことしねーから。なっ」

 半間はわたしに向かってひらひらと手を振った。本気なのかバカにしているのかよくわからない、薄い笑みをずっと浮かべている。
 茫然と圭ちゃんに視線を移すと、鬱陶しそうな顔で舌打ちを零した。余計なことしやがって、と悪態をついたのが聞こえる。

 否定しない。
 嘘じゃないんだ。
 カズトラくんや半間が「何も知らない」と言っていたのはこのことだったのか。

 圭ちゃんはわたしのことなど一顧だにせず、半間やカズトラくんと言葉を交わしている。「入る前に条件がある」「マイキーという神」「踏み絵」──わたしには理解できないフレーズが飛び交って、半間が最後に千冬くんを指さした。
 近づいてきたカズトラくんが両手でわたしの頬をぺちりと挟み、吐息もかかるほどの至近距離で両目を弓なりにする。

「あきちゃん大人しくしてないと殺しちゃうよ?」

 ぞ、と腰から下の感覚が引いていくのがわかった。
 カズトラくんの言葉はいつだって本気と狂気をはらんでいることを、わたしは痛いほど知っている。
 口答えがないことに満足したらしい彼は、楽しそうな足取りでメンバーを二人引き連れて、踊るようにアジトをあとにした。

 それを見届けた圭ちゃんが髪ゴムを取り出して、長く伸ばした髪の毛を後頭部でまとめる。

 戦闘モードだ。


「そいつ殴れ。オレらがいいって言うまでな」


 顔色は一切変わらなかった。
 ぐるん、と獣じみた仕草で千冬くんを振り返る。「え」と状況についていけない、でもどこか覚悟を決めたような表情の彼につかつかと歩み寄っていく。

「場地さ───」

 最後まで口にするより先に、圭ちゃんは千冬くんの顔面を殴りつけた。
 ぐしゃ、と聞くに堪えない音がする。圭ちゃん、と叫ぼうとした喉の奥から声にならない空気が洩れた。
 うそだ、そんな、あんな本気で殴るなんて。

「っ──‥‥‥!」
「おお、容赦ねぇなー。ずっと片腕だったんだろ?」

 圭ちゃんは止まらなかった。千冬くんも抵抗しない。顔面をなんとかガードしながらも、殴り返そうとはしなかった。当たり前だ。場地圭介は松野千冬のすべてなのだ。
 初めて千冬くんが”ついていこう”って思ったひと。
 初めて千冬くんが”格好いい”って思ったひと。
 彼が圭ちゃんを攻撃できるはずがない。
 千冬くんは圭ちゃんが気に入って直々に東卍に引き込んだ男の子で、カズトラくんに出す手紙もよく誤字チェックしてくれて、壱番隊の副隊長に任命して、今までずっと息ぴったり背中合わせの二人だった。


 今までずっと一対だった、ふたり、なのに。


「やめて‥‥‥圭ちゃんっ!!」

 喉の奥から絶叫が迸った。
 どんな不良に絡まれても、マイキーを呼べと脅されても殺すと凄まれてもこんな悲鳴を上げたことはない。これで彼が止まってくれるなら喉が裂けたって構わないと思った。げんにひっくり返った声で軋むように叫ぶたび、鋭い痛みが奔った。

「なにやってんの!? 東卍やめて芭流覇羅に入るって本気なの、ねえ、こっち向いてよ圭ちゃん!!」
「黙って見てろって」

 虚ろな声で笑った半間が片手を伸ばしてきた。首に腕を回され、叫ぶ口元を手で覆われる。知らない男の人の体温が気持ち悪い。マイキーでさえこんなふうに無遠慮に触れたりしないのに。でたらめに藻掻いても余計に抑え込まれるだけだった。悔しい。せめてこの後ろ手に拘束する縄さえ千切れたら!

 千冬くんが倒れ込んだ。その髪を掴んでずるずると引きずってきた圭ちゃんは、高みの見物を決め込む半間を見上げて、その腕のなかで暴れるわたしを一瞥する。
 半間からのストップが出ないと見ると、千冬くんをその場に転がして馬乗りになった。
 意味がわからない。
 どういうことなの。
 どうして圭ちゃんが千冬くんを殴らないといけないの。

「やだっ、嫌だもうやめて、千冬くん死んじゃうよ!!」
「ウルセーなぁもー」
「なんでこんなことするの。圭ちゃん! おい、場地圭介っ!!」
「場地ー」

 ぴたりと動きを止めた圭ちゃんが顔を上げると、半間はわたしの顎を掴んだ。

「この女殴れるか」
「‥‥‥ハ?」
「きーきーうっせぇこの“マイキーの女”。ボコボコにできる?」

 圭ちゃんはゆらりと顔を傾ける。

 マイキーとケンカばっかりして、毎日毎日飽きもせず暴れ回っては仲直りして。たまに意地悪だけど大抵は優しかった。喧嘩っ早いし口は悪いし気まぐれだけど、仲間のことは大事にするし、東卍を大事にするし、わたしのこともなんだかんだで大事にしてくれた。
 同じ中学校に通うようになってからも、何度助けてもらったか数えきれない。
 傷つけるよりも守るための拳だった。
 少なくともそう信じていた。

「‥‥‥ソイツは、家が近所ってだけでマイキーのあとつけ回してただけの舎弟だろ。ケンカもバイクもいつまで経っても覚えねぇわ、優等生ぶってギャーギャー口出してくるわ、鬱陶しいったらありゃしねぇ」


 元愛美愛主の合流した参番隊に危機感を抱いていた。古参以外信用するなとわたしに言った。
 その張本人が東卍を出て、芭流覇羅なんて新興チームに入るなんて言う。
 今までずっと一緒だった千冬くんを血塗れにしてまで。


「あきは“法”」


 圭ちゃんに殴られるなんて今まで一度もなかったし、考えたこともなかった。
 ──なかったのに。


「オレこいつ昔から嫌いなんだよな。足手まといのくせにウロチョロしやがって。手ェ出したらマイキーがうるせぇから黙ってたけどよ」


「オレらのなかで一番頭よくてマトモだから、“法”だ。女だしケンカもしねーしバイクにも乗せねーけど」


 フゥ、と息を吐いた圭ちゃんが立ち上がる。
 わたしはその様子をじっと見つめていた。心のどこかで彼を信じていた。どんな事情があるにしたって、この人の拳がわたしに向くことなんてないと。
 確信どころじゃない。だって、事実だった。
 地球が回るのとおんなじくらい当たり前のこと。

「殴ってもヤってもいいけど、別になんの証明にもならねぇよ?」

 わたしを拘束する半間の手を払いのけて、八重歯を剥き出しにして笑う。
 伸びてきた左手の、ごつごつした指先が、顎を掴んで固定する。逃げないように、顔を背けないように。
 唇に触れた指から血の味がした。

 ちふゆくんの、ちだ。

「圭ちゃ‥‥‥」
「あき、歯ァ食いしばっとけ。二、三本折るぜ」



「何するときもあきに顔向けできねぇことはやっちゃいけねー」



「場地さん、アンタ、」

 千冬くんだった。床を這って、震える手で、圭ちゃんの足首を掴む。
 途端、彼は冷めた目になって足元を見下ろした。

「なに、やってんですか」
「‥‥‥‥」
「オレはまだしもっ、あきちゃん殴るなんて、何考えてんだよ!」
「おー、まだまだ元気だな千冬? 嬉しいぜ」

 圭ちゃんはわたしをイスごと半間に向かって投げ飛ばすと、千冬くんの体を蹴りつけて仰向けに起こした。
 もう動けもしない千冬くんに再び跨り、赤い拳を振り上げる。

「や‥‥‥」

 やめて圭ちゃん。
 千冬くんが死んじゃう。
 わたしのこと殴ってもいいからひどいことしてもいいからもう千冬くんのこと殴らないで。こんな圭ちゃん見たくない。大事にしていた仲間を殴る圭ちゃんなんて見たくない。いやだ。ねえ、圭ちゃんが言ったんだよ。


 一人一人がみんなのために命を張れるチームにしたいって、圭ちゃんがあの日、言ったんだよ。


 夢だ。
 これは悪い夢。


 マイキー。ドラケンくん。圭ちゃん。三ツ谷くん。パーちん。ナホくん、ソウくん。ぺーやん。八戒くん。千冬くん。ムーチョくん。エマちゃん。真一郎くん。カズトラくん。お願い誰でもいい助けて。誰か。


 ───誰か!!




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