あとから考えてみれば、この日は朝から、なにかが変だった。


 マイキーに電話をかけたら珍しくはっきりした声で『起きたよ』なんて応答があった。眠れなかったのかな、それとも夜更かしかしら。そんなことを思いながら受話器を置いた。
 圭ちゃんからは《学校先行ってろ》なんてメールがきた。登校中にも千冬くんの姿は見えなかった。不良が学校をサボるのは至極ふつうのことに思えるかもしれないけど、圭ちゃんに限って言えばちょっとおかしい。


 そんなふうに少しずつの「変だな」を積み重ねても、平和ボケしたわたしは、東卍全体の異変だなんて考えもしなかったのだ。


第二章
強く優しく美しく、02




 お昼休みのこと。
 教室で友だちとお喋りをしていると、廊下できゃあっと浮ついた声が上がった。

「なんだろうね?」「さあ」クラスメイトと顔を見合わせ、首を傾げる。
 また不良グループがケンカでもしたのかなと思ったけど、うちの学校は、もう留年できないから大人しくガリ勉をしている圭ちゃんに代わって千冬くんが治めているかたちになっている。表のアタマの千冬くん、裏のアタマの圭ちゃん、この二人のおかげでうちの不良たちは大きな顔をできないはずだ。

 一体なんだろうなぁと廊下に視線を向けると、教室の入り口に学ランの男の子が現れたところだった。
 どうやら彼に対して湧き上がった歓声だったようだ。

「‥‥‥誰?」
「他校の子だよね」

 うちの制服はブレザーだ。学ランということは他校になる。
 少し長めの髪に金のメッシュを入れていて、大きな双眸に泣きぼくろ。可愛らしく整った甘い顔立ち。首筋には大きな刺青が入っている。


 ──虎の、タトゥー。


 わたしが席を立つと、彼もこちらに気づいてぱっと笑顔になった。

「カズ、トラくん」
「あきちゃーん!」

 羽宮一虎。
 東京卍會創設メンバーの一人にして、チーム結成後の八月十四日に窃盗事件を起こし、現場に居合わせたマイキーのお兄ちゃんを殺害した少年。

 二十四ヶ月を少年院で過ごし、先日出所してきたはずだった。
 けれど彼が東卍に戻ってくることはなかったし、マイキーも圭ちゃんも、彼に会おうとは言い出さなかった。
 マイキーの胸の内にある、殺意が洩れないように。

「久しぶりだねー! 元気だった? 変わってないねぇ」
「うん、久しぶり‥‥‥。カズトラくん髪伸ばしたんだね、似合ってる。元気してた?」
「元気だよ」

 ニコっと笑うその甘いマスクに、クラスメイトがほうっと顔を赤らめる。
 その微笑みの奥に隠れた空虚な絶望に、わたしは口を閉ざした。

 昔からカズトラくんが怖かった。
 こころの不安定さがマイキーの比ではなかった。
 マイキーやドラケンくんなら相手にもしないような挑発を、彼はいちいち拾い上げて相手を傷めつけてしまう。わたしの知らない家庭環境も影響しているのだろう、あの事件を起こす前から、ずっとそういう物騒さを持ち合わせた子だった。

「どうしたの? 圭ちゃんなら二年生の教室だよ。来てるかはわからないけど」
「場地? 違うよ、あきちゃんに会いたくて。ねーちょっと外に出よ、校内じゃザコいのがうるさくてさ!」

 ザコいの、って、まさか。

「‥‥‥ケンカ、したの?」
「してないよー。学校に入ったら絡んできたから睨んだら大人しくなった! あきちゃんの周りじゃケンカしちゃダメって決まりだったでしょ、忘れてないよ」
「ありがと‥‥‥。カズトラくん他校だし、ちょっと目立ったかもね」

 “昼間、あきと一緒にいるときは無駄なケンカしちゃダメだから”。
 飴を舐めながらいつもの無表情でマイキーがそう決めたのは、東卍を結成してすぐのこと。
 あの頃の約束をカズトラくんが憶えてくれていたことに油断したわたしは、東卍の誰にも連絡しないまま、友達に「ちょっと行ってくる」とだけ言いおいて教室を出てしまった。



 校門の外でちょっと昔話するだけ。
 そう信じ込んでいた間抜けなわたしは、そこに待機していた見知らぬ不良たちに囲まれて足を止める。



 揃いのジャケット。左腕についたポケットのファスナーには『WALHALLA』と書かれた赤いタグがついている。東卍ほど露骨じゃないけれど、特攻服だ。
 しかも東卍よりも数倍はたちが悪そうだった。
 刺青とか黒マスクとかそういう外見の問題ではなくて、目つき、表情、立ち姿のすべて。

「‥‥‥カズトラくん、この人たち、誰?」
「いやーオレ、あきちゃんに手荒なことはできないからさ」
「わたしやっぱり戻る‥‥‥っ」

 手首を掴まれた。
 ぎりぎりと音が出るほど握りしめられて、痛みに体が竦む。カズトラくんは「なんにも知らないんだねぇ」と笑った。

「オレ、いま、芭流覇羅バルハラのメンバーなんだよ」
「‥‥‥バルハラ?」
「のこのこついてきちゃって。相変わらずなーんも考えてないんだよね。のーてんきで、平和ボケしてて、バカで‥‥‥カワイイなぁ!」




 それから連れて行かれたのは、とっくの昔に閉店になったゲーセンの跡地だった。
 正面の入口には首のない天使のラクガキがあった。ちらりと見えた芭流覇羅の特攻服の背中にも、同じような絵が描かれている。立入禁止と書かれたプレートが下がっていたけれど、カズトラくんたちはもちろん無視してドアを開けた。

 ──バルハラなんてグループ、聞いたことない。
 一時期より減ったとはいえ、東京二十三区には数多の暴走族や不良がそれぞれ縄張りを持っている。全くの無知でいられるわけがないので、有名どころは押さえているつもりだったけれど、カズトラくんが所属しているというチームは完全に初耳だ。
 それにしても本当に間抜けだった。
 クラスメイトたちはカズトラくんが何者かを知らない。誰にも連絡せずに出てきたから、わたしがここにいることもわからない。圭ちゃんと千冬くんも今日は学校で見ていない。どういう目的か不明だけれど、わりとピンチだ。

 薄暗いアジトのなかには、昏い目つきをした芭流覇羅のメンバーが何人も屯している。
 埃っぽくて落書きだらけの屋内で煙草を吸う人までいるから空気が悪くて仕方ない。「マイキーの女」とわたしを指す言葉に加え「見せしめ」なんて物騒な単語が飛び交っているのも聞こえてきた。
 後ろ手に麻縄で縛られ、座らされた椅子の脚に両足首を固定された。
 携帯電話はスカートのポッケに入っているけどこれじゃ取り出せない。

 わたしを見下ろして不気味な笑みを浮かべているのは、 『芭流覇羅』ナンバーツーの半間修二という人だ。
 聞けば元愛美愛主の総長代理だという。

「そんなに怯えんなよ。別に取って食いやしねーよ、ちょっと用があるだけだって」
「用事って‥‥‥なんなんですか。まだ午後の授業があったのに、困るんですけど」
「あン? なんも知らねぇのな。この地味子ホントにマイキーの女?」

 少し離れたところに立っているカズトラくんは肩を竦めた。
 わたしが“マイキーの女”ということになったのは、彼が少年院に入ったあとの出来事だ。

「それは知らないけど。昔っからマイキーもドラケンも場地も、この子には過保護だったよ?」
「過保護ねぇ」

 そのとき、入り口のドアが開いて誰かが入ってきた。
 集まっていた不良たちが途端に道を開ける。

 そのど真ん中を臆さず歩いてやってきたのは、圭ちゃんと千冬くんだった。


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