余分に残してあったマフィンを袋に入れて、今度は圭ちゃんの家がある団地へと向かう。すっかり陽も暮れて、辺りは真っ暗になっていた。
インターホンを鳴らすと、圭ちゃんママが出てきてくれた。
子どもの頃から場地家には出入りしていたけれど、中学が同じになってからは、今度こそ留年させないという強い気持ちでテスト勉強につきあうことも増えている。勝手知ったる佐野家、の次に知ったる場地家、である。
「あらあきちゃん! どしたのこんな時間に」
「圭ちゃんに用事があって。帰ってきてますか?」
「それがねぇ、最近やたらと遅いのよ。もうすぐ帰ってくる時間だと思うけど。あきちゃんからガツンと言ってやって!」
「任せて! 部屋に隠れてビビらせていい?」
圭ちゃんママと顔を見合わせ、ニヤリと笑いあうと、わたしは圭ちゃんのお部屋に(勝手に)足を踏み入れた。
「ないとは思うけど圭介に襲われたら大声出してね。助けに行くから」
「ないと思うけどオッケー!」
圭ちゃんの部屋は意外ときれいだ。
電気をつけず手探りでカーテンを開けると、団地のなかの街灯のおかげで室内の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
勉強机の椅子を引いて腰掛け、頬杖をつく。
待ち続けること十分ほどで玄関のドアが開く気配がした。
わたしの履いてきた靴はばっちりシューズボックスに隠してあるので抜かりはない。「最近遅くない?」「‥‥‥ウッセ」というやりとりとともに、足音が近づいてくる。
スパンと襖が開き、部屋の電気がついた。
途端に圭ちゃんが悲鳴を上げる。
「ッだあああぁぁ!! ビビらせてんじゃねえよ殺すぞオイ!!」
「圭ちゃんめちゃくちゃビビるじゃん」
「当たり前だろうが何で電気もつけてねぇんだよ!! 殺すゾ!!」
二回目の殺すぞ。よっぽど驚いたらしく、圭ちゃんは胸の辺りを押さえたままハーハーいっている。
圭ちゃんママの笑い声が居間に響いていた。
「オフクロォ! 勝手に入れてんじゃねーよ!」
「うるさいわねー、野良猫はよくてあきちゃんがダメなんて意味わかんない」
「ダメに決まってんだろ!! ジョーシキ考えろ!!」
常識のほうも、圭ちゃんには語られたくないに違いない。
第二章
強く優しく美しく、07
ひとしきりビビり騒ぎ終えた圭ちゃんは、海より深そうな溜め息をついて、ピシャァァンと乱暴に襖を閉めた。
居間の圭ちゃんママが「ケンカしないのよー」と声をかけてくるが、忌々しそうに背後を振り返っただけで悪態はつかない。椅子の上で膝を抱えたまま見上げると、勢いよく胸倉を掴まれた。
壁に叩きつけるように押しつけられて、後頭部に鈍い痛みがはしる。
もう、誰も彼もわたしの後頭部を一体なんだと思っているのか。
いや行動が似るのも当然か。カズトラくんに不良の道を示したのは圭ちゃんなのだから。
「──何しに来た」
「マイキーを殺すためにカズトラくんの出所を待ってたってどういうこと」
躊躇なく本題を切り出したとき、ああ、と気がついた。
カズトラくんに昼間凄まれたときより全然、苦しくも怖くもない。東卍の特攻服を脱ぎ捨て、芭流覇羅のジャケットを着ていても、場地圭介はどこまでも場地圭介だった。
わたしの体を抑え込む腕に両手で触れると、圭ちゃんは自分の甘さと失敗を悟ったように舌打ちを零して、改めて胸倉を締め上げる。
「なんでオマエがンなこと知ってんだよ」
「‥‥‥内緒」
「千冬か。余計なこと言いやがって」
「怒っちゃだめだよ。わたしが教えてって言ったんだから」
圭ちゃんの左拳が顔のすぐ横の壁を殴りつけた。
さすがに反射的にびくりと肩が跳ねる。すると胸倉を掴んでいた右手は、わたしの頸を絞めるような恰好になった。
「帰れよ。オレらの周りうろちょろしてっと今度こそ殴るぞ」
「──やれるもんならやってみればいい」
すぐそばの居間には圭ちゃんママがいる。低く呻くように声を潜めた圭ちゃんに、こちらも喉の奥で唸るように応えた。
「殴ればいいよ。本当に東卍のこともわたしのこともどうでもいいなら、それで圭ちゃんの気が済むなら、痛いことも怖いこともひどいことも全部わたしにすればいいじゃん。マイキーを殺したいならまずわたしをどうにかすれば? きっとマイキーは、とても傷つくよ」
芭流覇羅のジャケットを身につけた、見慣れない姿。長く伸ばした髪の毛が垂れ下がってわたしの頬や額をくすぐる。
その隙間から、冷たい目が真っ直ぐにわたしを睨みつけていた。
視線を受けている辺りがピリピリしている。
いつもわたし以外の誰かに向けられていた、殺意交じりの怒気。
‥‥‥わたしに向かう日など永遠にこないと思っていたはずの感情。
「わたしはそんなことより、圭ちゃんが千冬くんを殴っているほうが辛かった」
圭ちゃんの顔色は変わらなかった。
“場地圭介”でも“東京卍會壱番隊隊長”でもない、酷薄でつめたい“芭流覇羅”の顔。
二年前、「もう二度と裏切らない」とわたしの腕のなかで泣いたあのときの面影は、どこにもないけど。
「‥‥‥、震えてんだよ。ガキ。怖えーなら安全地帯離れてんじゃねぇよ」
「怖いのは圭ちゃんが一人で無茶して苦しい思いをすることだけ」
「ほっとけ、‥‥‥オレのことは」
指先がゆっくりとわたしの頸を離れていく。
けほ、と小さく咳き込むと、圭ちゃんは壁に手をついて声もなく項垂れた。呼吸に合わせて僅かに上下する彼の肩を見つめながら、膝の上で両手を握りしめる。
「圭ちゃんのやりたいことの邪魔はしない。なにがあっても信じてる。だから、お願い」
「‥‥‥‥」
「ひとりで無茶しちゃダメ。約束だよ」
こと東卍やカズトラくんやマイキーのことに関して、圭ちゃんは意味のないことはしない。だから芭流覇羅に入るなんて突拍子もないことを仕出かしたのも理由があるはずだった。
圭ちゃんの、ぴんと張り詰めた心の緊張を、切ってはいけない。
彼はなにも言わなかった。
一人で無茶をしないということが、今この状況でどれほど難しいか。
きっとこんな約束は守られないし、圭ちゃんは守るつもりもないんだろう。守る気もない約束なんて、しない人だと思う。
それでも、信じているからねと言葉にしておきたかった。
圭ちゃんは東卍を愛してる。
カズトラくんを含めた創設メンバーみんなを愛してる。
太陽が東から昇って西に沈むのとおんなじくらい、当たり前の真理だ。
わたしの肩にほとんど顔を埋めるような体勢で、静かに呼吸を繰り返していた圭ちゃんは、やがてぽつりとつぶやいた。
「‥‥‥オマエ今日カズトラになんか言ったろ」
「え?」
ぽかんとして訊き返す。カズトラくん?
「クソほど機嫌悪くて何人かぶっ飛ばされてた」
「ウソ! いや、わたしは悪くないぞ」
「オマエ、ケンカできるわけでもねぇのに、殴ったら死にそうなくせに、なんで変なとこクソ度胸あんだよ。意味わかんねぇ。家で大人しくしてろよ。‥‥‥こっち見んなクソあき」
こっそり首を回して圭ちゃんの顔を覗き込もうとしたのがバレたらしい。彼は細く長く溜め息をついてから、そっと体を離した。長く伸びた黒髪が邪魔でどんな表情をしているのかはよく見えない。
でも声音からして、ちょっと笑っていたんだろうな。
そして突如、圭ちゃんはジャケットを脱ぎはじめた。
「ちょっと、なに急に」
「オレの部屋でオレが着替えて何が悪ィんだよ。出て行け痴女」
「痴女て。もう、悪口の語彙ばっかり豊富なんだから」
わたしの存在にも構わずシャツを脱いで着替え、果てはベルトにまで手をかけ始めたので、慌てて持ってきたバナナマフィンの袋を顔面に投げつけた。
圭ちゃんは東卍のなかでも女子(というかわたし)に対する気遣いが皆無な人だから、放っておいたら多分なんにも気にせずズボンも脱いだに違いない。
「イッテェななんだこれ」
「この間話したマフィン!」
「あ?‥‥‥あァ」
「あと最近帰りが遅いってママ心配してたよ。ただでさえ留年してるんだから、これ以上学校に目つけられそうなことするのやめなよ。中間テストの点数もホントにひどかったし。期末対策もまたすぐ始めるからね!」
へいへい、と生返事。本当にわかっているのかな。
圭ちゃんはバカだから、自分が留年した理由はバカだからだと思っているけど、さすがにバカだからという一点だけで義務教育中に留年はない。──と今まで思っていたのだが、本当に目を覆うレベルの成績なので、実は本当にただ単にバカだから留年したのかもしれないと最近考えるようになってきた。
そのくせ変なところで知恵ばっかり回って、困ったひとだ。
「とっととケンカ終わらせて、テスト勉強するよ!」
「ウッセェ早く帰れクソあき」
‥‥‥困ったひと、だけど。
その奥底にある優しさだけは、子どもの頃から知っているから、しょうがないなぁって思っちゃうの。
「あれ、あきちゃん帰るの? 圭介に襲われなかった?」
「誰が襲うかこんなあんぽんたん」
「あんぽんたんとか! 圭ちゃんにだけは言われたくないんですけど!」