バブー、と哭いているように聞こえるから通称バブ。わたしもすっかり鳴き声を憶えてしまったマイキーの愛機だ。真一郎くんが乗っていた、カズトラくんと圭ちゃんがマイキーのために盗もうとした、そして真一郎くんが亡くなりマイキーの手に渡ったバイク。
ぴんぽーん、とインターホンが鳴った。
お母さんはわたしと入れ違いにお風呂に行ったし、お父さんは出張中。どうせマイキーだけどまあ一応、と受話器を上げる。
「はーい」
『オレだけど』
「はいはーい」
玄関のドアを開けると、肩に東卍の黒い特攻服をかけたマイキーが立っていた。
とりあえず中に入ってもらってドアを閉める。「部屋あがる?」と訊ねると首を横に振った。そういえば以前にもこうやって、玄関先でマイキーと二人きり向かい合ったことがあったなぁ。
あのときは珍しくマイキーが神妙な顔をして、わたしのことを心配して「別れよっか」なんて言いにきたのだった。
「どうしたの、こんな時間に。また別れ話?」
そんな顔じゃないのは解っていたけれど、なんとなく茶化してしまう。
「んー、なんとなく」
「またそれ?」
「あきの顔見たくなるのに理由いる?」
ぐ、と言葉に詰まる。マイキーってば、どうしてそういう少女マンガのヒーローみたいなことを真顔で言えちゃうんだろう。
昔からこうだから、らしいと言えばらしいんだけどね。
マイキーはおもむろにわたしの両手を握った。
くるりと手のひらを上に向けさせ、じっと手首のあたりを見つめている。
一体なんの儀式かしら。首を傾げてすぐに、芭流覇羅のアジトに拉致された際の縄の痕が消えたかどうかチェックされたんだな、と思い当たった。あんな怪我ともいえないような怪我、翌日にはきれいさっぱりなくなっていたのに。
「‥‥‥あき、手ちっちゃ」
「そうかなぁ。フツーだよ」
すると、マイキーはふわっと笑った。
その表情に油断した隙をついて、ぎゅ、と両腕につかまる。案外強い力で引き寄せられた。
シャツ一枚隔てたすぐそばに体温を感じて思わず硬直する。
び───びっくりした。
「あき」
「は、ハイなんでしょう」
「‥‥‥がんばれって言って」
‥‥‥がんばりたい何かが、あるんだ。
このタイミングでは圭ちゃんのこと以外あり得ない。今まで何も言ってこなかったくせに、相談してこなかったくせに、きっと隠し通すつもりでいたくせに、それでもほんのちょっと弱音を吐かずにはいられないくらい、不安なんだ。
胸の奥がきゅうっとなった。
体の横に垂れ下がっていた両腕をマイキーの背中に回す。
東京卍會、の刺繍に指先が触れた。金糸の凹凸をなぞるように背中を撫でる。
「がんばれ。マイキー」
「うん」
「大丈夫だよ。きっと何もかもうまくいく‥‥‥」
なんて白々しい言葉。
真一郎くんさえ頭部への一撃で死んでしまったこの世界で、あの人なら大丈夫この人なら大丈夫なんて薄っぺらい励まし、なんの意味も持たないのに。
──そう、解っているのに。
ああ、わたし、どうして。
どうして今すぐマイキーと一緒に戦ってあげられないんだろう。
第二章
強く優しく美しく、08
放課後の教室で、ぼんやりと暮れゆく空を眺めながら、鳴らない携帯電話を開いた。画像フォルダには東卍の写真ばかりだ。わたしが撮ったみんなの写真とか、ドラケンくんが撮ってくれたわたしの写真とか。
七月の喧嘩賭博事件以降は集会に顔を出していないけれど、それ以前に遡ると、特攻服のみんなのなかで呑気に笑う場違いなわたしが映っている。
バブに跨るマイキーと顔を寄せ合うわたし。
ドラケンくんと圭ちゃんと三ツ谷くんが格好つけている後ろ姿。
パーちんとぺーやんのツーショット。
圭ちゃんと千冬くんとわたしの同中三人組。
エマちゃんと腕を組むわたし。
東卍メンバーの彼女たちと撮った写真もある。
パーちんのお腹を枕にしてお昼寝するマイキーも。
二年前まで遡ると、まだ東卍が六人だった頃の写真も出てきた。
特攻服を手ずから仕立てる三ツ谷くんや、採寸されるマイキー、旗を持って遊ぶ圭ちゃんとカズトラくん、出来上がった圭ちゃんの特攻服の上を着て遊ぶわたしと、その隣でピースしているマイキー。
楽しかったな。
ケンカばっかりの毎日で、いつもみんなの怪我を心配していたけど、彼らは楽しそうに笑っていて、キラキラしていて、それがわたしも幸せだった。
「‥‥‥帰ろ」
もしかしたら誰かから何か報告がくるかもしれないと思って携帯を持っていた。
でもいつまでも学校にいるよりは、家で待機していたほうがいいかもしれない。今日何かがあると聞いたわけではないけれど、昨晩のマイキーの様子が気になったから。
一応、周囲に警戒しながら帰路を辿る。
帰る時間が少しずれたからか、いつもの住宅街がいやに静まり返っているような気がした。
何事もなく自宅が見えはじめた頃、門の前に、黒い影を見つけた。
「‥‥‥マイキー?」
うちの前に膝を抱えて座り込み、顔を伏せている。黒いと思ったのは特攻服の上下を着ているからだった。慌てて駆け寄りしゃがみこむと、マイキーは静かに顔を上げる。
ぎょっとした。
額から流れる血を拭ってもいない。
お腹に巻いたサラシ──土埃に汚れた胸──肩にかけた特攻服。明らかに大きな抗争があったとわかる格好だった。
石のように固く握りしめられた拳には、誰かを殴った痕が、返り血も生々しく残っている。
「ゴメン。あき」
「やだ頭、血が出てる‥‥‥とにかく入って、傷口洗おう? 一人だけなの、ドラケンくんたちも怪我してるんじゃないの。圭ちゃんや三ツ谷くんは?」
「ゴメン」
「なに謝って──」
音もなく両腕を伸ばしてきたマイキーは、力加減を忘れたようにわたしの貧弱な体を強く抱きすくめた。
ぱさりとマイキーの特攻服が地面に落ちる。
ケンカばっかりの毎日で鍛えられた腕は震えていた。
何かあったのだ。マイキー自身ではない。彼の怪我は見たところそこまでひどくない。なのにこんなにも打ちのめされている。きっと仲間に何かあった。
ドラケンくんか、圭ちゃんか、三ツ谷くんか、千冬くんか、誰か───
「あき」
つっぱねたような冷たい声が脳裡で踊った。
「オマエはマイキーの傍にいろよ」
「圭ちゃん‥‥‥?」
マイキーの体がびくりと強張る。
「ねぇ、圭ちゃんに何があったの」
圭ちゃんが、なに考えてるのかなんて、昔っからよくわかんなかった。
マイキーと圭ちゃんのどちらと先に知り合ったのかももう憶えていない。気づけば圭ちゃんはマイキーに挑んでいて、そのたびにボコボコにされて、懲りずに絡んでまた返り討ちにされて。何度もケンカしては仲直りして、なんだかんだでずっと一緒に大きくなってきた。
チームを創ろうと最初に言いだしたのも圭ちゃんだった。あきは“法”だと、あきは仲間だと笑ってくれた。真一郎くんの事件があってからはどう接すればいいのか迷った時期もあったけど、同じ中学に通うようになってからはわたしのことをいつも気にかけてくれた。
カツアゲしていたヤンキーには眠いと怒鳴りながらケンカを売り、愛機にちょっかいかけようとした連中の車に火をつけ、頭のネジ何個もぶっ飛んじゃったような凶暴なところも確かにあったけど、おばさんには優しくて、仲間に優しくて、千冬くんにも、わたしにも。
‥‥‥やさしくて。
「答えてマイキー。圭ちゃんに何があったの」
彼は答えなかった。
それが何よりの答えだった。
骨が軋むほど強い力で抱き潰されながら、わたしは必死に、圭ちゃんの笑顔を思い出そうとしていた。