「お兄ちゃんを殺さなきゃ」

 暗い目をしたあの日の決意は、いまも二〇〇三年四月当時のわたしの姿をして、常にマイキーとわたしを見張り続けている。


第三章
Over The Rainbow;6




 止めないと。
 両手で、全身全霊、あらん限りの感情、魂、こころ全部で。どんな手段を取ってもいい。とにかく止めないと。

「──わたしがマイキーを殺すから!!」

 わたしの絶叫に、マイキーはぱちりと瞬いた。

「‥‥‥あき」
「マイキーたちの好きなのはお祭り騒ぎのケンカでしょ!? 殺すとか殺さないとかそんなのじゃなくて! ナイフも武器もいらない、誰も死なないお祭りなんでしょ!?」
「‥‥‥‥」
「勘違いしないで! おじいちゃんも真一郎くんもマイキーに人を殺させるために闘い方を教えたんじゃないんだから!! 大体わたしの話ちゃんと聞いてるっ!? もういいから帰ろうよって言ってるじゃんばか!!」

 ずっと我慢していた涙がぽろぽろ零れてマイキーの頬に落っこちる。
 怖かった。怖かったのだ。知らない高校生に拉致されたことも、こんなところで囲まれたことも怖かった。怒鳴られたことも、人質として扱われたことも、マイキーが一人でここに来てしまったことも、本当に本当に怖かった。東京卍會はこういう規模になってしまったのだと痛感した。わたしの存在は明らかに足手まといになる。一緒にいたいと思うなら覚悟しなければならない。
 そして、この大切な人が、途方もない闇を抱えていることも。

「ねえマイキー、わたし」

 でも何よりも、マイキーに恐怖を感じた自分が一番、許せなかった。

「わたし、やるよ。殺す相手がお兄ちゃんからマイキーになっただけだもん!!」
「あき」
「マイキーが離れていこうとするなら──殺してでも止めるから!!」

 喉が裂けるほどの叫びを遮るように、強い力で頭を引き寄せられた。

 特攻服の胸元。天上天下、唯我独尊、と書かれた間に額をぶつける。
 指先から力が抜けて、全身がふわりと浮くような恐怖に、わたしは声を上げて泣いた。兄に対する殺意をマイキーと圭ちゃんが掬い上げてくれた、あの日のように。

 最初、片腕だけでわたしの声を抑え込んでいたマイキーは、やがてもう片方の腕も回した。後頭部と肩に掌を当てて、ゆっくりと息を吐きながら、わたしの首筋に顔を寄せる。

「ゴメン」

 マイキーの腕は震えていた。
 わたしの心も体もすべて。
 この日ふたりで、世界が瓦解していく恐怖に怯えていた。

「ごめんな」マイキーはもう一度繰り返した。


▲ ▽ ▲



 最初に言い出したのはパーちんだったと思う。

「なんかさ、『死にたくなけりゃマイキーの女に手ェ出すな』って話になってるらしーよ」

 わたしが拉致され、マイキーが一人でひとつの暴走族を潰したあの事件から二週間。
 アジトにしている廃ビルの二階でなぜかシャボン玉を吹きながら。

 ゲームボーイアドバンスで圭ちゃんとケーブル対戦していたわたしが「マイキーの女って誰?」と大ボケをかますと、パーちんは呆れ顔になって「あきちゃんに決まってんじゃん」と言い返す。飛んできたシャボン玉が顔面に当たってぱちぱち弾けた。シャボン玉、不味い。

「あっ、負けた!」
「あき弱すぎて面白くねぇ。チェンジ」
「これでも上手くなったほうだと思うんだけどなぁ。三ツ谷くんパス」

 後ろから覗き込んできていた三ツ谷くんにひょいっとゲーム機を渡す。
 次の対戦の準備をしながら、改めて「あきがマイキーの女ぁ?」と訝しい表情になったのは、わたしとマイキーを長年近くで見てきた圭ちゃんだ。

「何でそんなことになってんだよ」
「なんかこの間あきちゃんのこと拉致してマイキーにボコボコにされたやつらが言ってんだって。あれ結局半分以上病院送りだったらしいよ」
「ええっ‥‥‥」

 びょ、病院送りって、ほとんど一発でノシていたように見えたのに、そんなに手酷くやったのか。マイキーをばっと振り向くとヒューヒューと音の出ない口笛を吹いていた。吹けてないからそれ!
 びっくり仰天しているわたしをよそに、ドラケンくんは感心したように目を丸くして、圭ちゃんはうんうんとうなずいている。

「はー、成る程なぁ。それいいかもな!」
「ま、そういうことにしといたほうが楽かもしんねーな」

 さっぱりわからない。わたしは隣で圭ちゃんとの対戦を開始した三ツ谷くんの肩を叩いた。

「そうなの?」
「『死にたくなけりゃ手ェ出すな』ってほどの話になってるなら、まともな判断力があって死にたくないやつは手ェ出さねーよ。それでも出してくるやつは本物の大バカだから大したことない、ってこと」
「はぁ、なるほど」
「マイキーの名前が売れれば売れるほどあきちゃんに手出せなくなるってこった」
「ほぉ、なるほど」

 わたしにもわかるように三ツ谷くんが翻訳してくれて、それでようやく納得した。
 ドラケンくんと圭ちゃんがそう言うなら、まあそうなんだろう。
 わたしの反応があまりに薄いからか、ドラケンくんが慌てて首を振る。

「いや、もちろんあきちゃんが嫌なら訂正して回ったほうがいいかもしんねーけど。好きなヤツいるとかさ」
「うーん‥‥‥マイキーは?」
「まーいんじゃね」

「軽っ」と四人のツッコミがきれいに揃った。
 廃材の上に寝転がって天井を見上げたマイキーに視線を向ける。ややあってわたしを見つめ返した双眸には、言葉以上の感情は含まれていなかった。

 あのとき感じたマイキーの闇に、みんなもう気づいているのだろうか。
 震えていた彼の腕や掌の感触は、まだ生々しくわたしの体に残っている。

「‥‥‥もしかして、あれかな。『オレのモンに触んな』みたいなこと言ったから?」
「マイキーオマエそんなこと言ったの!?」
「言ったような言ってないような」
「言ったよ。めちゃくちゃ怖かった。まあ確かにややこしいセリフかもね、舎弟的な意味にも彼女的な意味にもとれるから」
「「「‥‥‥舎弟?」」」

 なんともいえない表情でマイキーを見たのは、ドラケンくんと三ツ谷くんとパーちん。
 ふふんと薄っぺらい胸を張ってみる。

「あれ、みんな知らないの。マイキーの舎弟第一号はこのわたしなのですよ?」
「はあっ!?」
「小学二年生のときからだよ。真一郎くんたちにも、舎弟って何するのって教えてもらったんだから。舎弟のなかの舎弟なのですよ?」
「あきちゃんてたまにバカだよね」
「パーちん突然の罵倒」
「いつもバカだろ」
「圭ちゃぁん!?」

 聞き捨てならない悪口が堂々と叩かれている。そのバカにいつも宿題教えてもらってたのは誰でしたかね場地圭介くん。
 ホントかよ? と顔を覗き込んだドラケンくんに、ホント。とマイキーがうなずいた。

「舎弟のものはオレのもの。オレのものもオレのもの、オレのものは舎弟のもの。だから舎弟はオレのもの」
「なんか頭良さそうに言ってるけどムチャクチャだからなそれ」
「いーじゃんあきが納得してんだから。つまりあきはオレのもの。何も間違ってねーし」
「あきちゃんはそれでいいのかよ?」

 それでいいも何も、昔からそうだしなぁ。
 これでもしマイキーが本物の暴君で、わたしのものを奪っては所有するような人ならとっとと絶縁しているけれど、そうじゃないから一緒にいる。
 心配そうなドラケンくんに肩を竦めた。

「‥‥‥みんながもしも、超絶卑怯な手でケンカ相手を貶めたいとしたら、人質にとるのは彼女と妹どっち?」

 みんなは「ハアアア?」とたいへん心外そうに顔を顰めた。もしも、って言ったじゃん。別に本気でみんながそんなことするとは思ってないよ。
 そんななか一人冷静なマイキーは天井に向かって答えた。

「女」

 みんなが一斉に口を閉ざす。
 わたしとマイキーの真意に、いち早く気づいたのはドラケンくんだった。物言いたげな視線をわたしに寄越す。首を振って、彼の優しさを振り払った。
 マイキーは淡々と続ける。

「妹のことは嫌いな奴もいるかもしれねーけど、嫌いな女を彼女にするやつは普通いねーから。確実に呼び出すなら女だろ」
「うん。じゃ、“そういうこと”にしておこっか」

 エマちゃん。
 小学生の頃は、その変わった名前の響きや“マイキーの妹”ということを理由に、クラスの男の子に絡まれることがあった。
 本人は強がりさんだから全然気にしていないって言ってるし、実際自分でもいくらか言い返しているようだけど、東卍結成以後の影響はまだわかっていない。前回わたしが被害にあったように、これから先何があってもおかしくない。

 大好きなエマちゃんには笑っていてほしい。
 我ながらいい考えだ。わたしはエマちゃんが巻き込まれないためのスケープゴート。真一郎くんを喪ったマイキーの闇をこれ以上拡げないために、万が一にも彼女だけは守らなければ。

 ころん、と寝返りを打ったマイキーは、わたしに薄く微笑んだ。

「佐野家に嫁に来ても、もうシンイチローの妹にはなれねーけど?」
「エマちゃんを妹にする夢はまだ諦めてないよ!」
「相変わらず兄妹目当てかよ」



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