第三章
Over The Rainbow;5
連行されたのは渋谷の外れにある廃工場だった。揃いの特攻服を着た暴走族がざっと見ても二十人以上。細かく数える暇もなく、廃材の上に踏ん反り返る総長らしき人の前に連れ出される。
手足を拘束されることはなかったが、逃げだす隙があるとも思えない。
そもそも中学が知られているなら逃げたところでまた来るだけだ。
「マイキーの幼なじみなんだってな?」
「あの‥‥‥誰がそんなこと?」
震える手を見られないように体の後ろに隠して、ぎゅっと握った。
いいかあきちゃん、女は度胸だ。啖呵切るときは殺す気で切れ。中途半端が一番いけねぇ。怯えた姿を見せるな───昔、竜ちゃんに教わったことを脳裡に反芻する。
この人たちは、あのときわたしに構ってくれた真一郎くんたちと同じ高校生。
なのにこんなにも怖いのはどうしてだろう。
マイキー。圭ちゃん。ドラケンくん。三ツ谷くん。パーちん。真一郎くん‥‥‥。
「最近大活躍じゃねーの、中坊連中の『東京卍會』。そろそろ叩き潰しとくかってときにな、ウチの者が昔世話になったみたいでよ、幼なじみの女を人質にとればマイキーは絶対逆らえねぇってさ」
昔、世話に‥‥‥。
工場の中に各々立ったり座ったりバイクに跨ったりしている高校生たちを見渡した。一人ずつ数をかぞえながら顔を見る。武器を持っている人がいる。体の大きな人も、指にナックルを嵌めた人も。そうして順番に見つめていったなか、記憶の端に引っかかった男が一人いた。
いた、けど、思い出せない。
多分大した関わりはなかったのだろう。同級生のお兄ちゃんとか、そういう程度だ。
とりあえずその人のことを睨みつけておいた。
女は度胸。中途半端が一番いけない。怯えた姿を見せてはいけない。
「‥‥‥確かにマイキーと幼なじみだし、仲はいいですけど。わたしのために逆らわないかどうかまではわかんない」
「試してみようじゃねぇか」
「マイキーは自由な獣なの」
断言したわたしは同時に、そうあってほしい、と願っていた。
時代錯誤かもしれない夢。それでも真っ直ぐに、もう二度と振り返ってくれない憧れの背中を追いかけるマイキー。
誰も、何者も、彼の道を邪魔しないで。
「だから、誰の命令にもきっと従わない」
「携帯出せよ。結果が楽しみだな?」
総長はにやっと笑った。煙草のやにで黄色くなった歯が覗く。
違う、何もかも。大好きだった真一郎くんとは、彼の大切な仲間とは違うんだ。この人たちはマイキーを潰すために汚いことも平気でできる。中学生一人のために武器を持った高校生を三十八人も集めて、人質までとって逆らえないようにしてしまえる。
その気になればわたしを傷めつけることだって平気でできる。
───来ちゃダメ。
そう思った瞬間、はじめて視界が歪んだ。
誰の命令にもきっと従わない、だけど、こんな弱っちいわたしのためならマイキーは何でもしてくれるかもしれない。そういう人だ。勝手で気まぐれで理不尽で我が儘だけど、そういう人なんだ。
わたしが一番、知っている。
「もしもーし佐野くんの携帯電話ですかぁ? こちら“成瀬あき”の携帯ですけど」
『‥‥‥誰?』
「可愛い幼なじみちゃんは預かりましたー。返してほしければこれから言う住所に一人で来てくださーい」
『あきを出せよ』
総長はニヤニヤ笑ったまま携帯をこちらに向ける。
涙が零れそうなのを必死で堪えるわたしの耳に、あき、とマイキーの声が届いた。
『あき。そこにいる?』
──女は度胸。啖呵を切るなら死ぬ気で。
中途半端が一番いけない。
怯えた姿を見せるな!!
「マイキー? ゴメン、ドジっちゃった」
ぷるぷる震えながら「マイキー助けて」って言うわたしを想像していたんだろう。総長や周りの不良たちは一瞬ぽかんとした。
暴走族に囲まれた女の子としての対応としては、異質だったかもしれない。
へらっと笑いながらマイキーの返事を待った。
『なんもされてない?』
「平気へーき、全然だいじょうぶ! こんな人たちの命令聞くことないからね! 三十八人もいて武器持ってるんだよ、来たらマイキー怪我しちゃうよ」
「余計なこと言ってんじゃねぇぞクソガキ!!」
総長の横で聞いていた男に胸倉を掴まれる。怖くない。怖くない、こんなやつら。
真一郎くんがカズトラくんに殺されたと聞いたあの瞬間ほど恐ろしいことなんて、もう、何もない。
『わかった、あき。大人しくしてな』
「迷惑かけちゃってゴメンね。どうにかして逃げるからさー、気にしないでね!」
『ちゃんと聞こえたから』
やさしい声。
マイキーが電話の向こうで穏やかにほほ笑むのが見えるようだった。
『すぐ助けに行く』
‥‥‥ねえ。
どうしていつも、聞こえちゃうの。
今から行くよ、ってコールに最初に気づいたのは当然わたし。
真一郎くんカスタム、マイキー専用のバブ。この場にいる誰よりもその嘶きを知るのはわたしだ。顔を上げたわたしに、総長は「来たな」と口角を上げる。
排気音はひとつだけ。
マイキーは本当に一人で来たのだ。
立ち上がった総長の合図で連中は武器を構え、工場の入口を見た。
マイキーの金髪頭がひょこっと現れる。
三ツ谷くんが仕立てたこの世で一枚の黒い特攻服。金糸の刺繡に、赤い襷。『東京卍會』総長の顔をした、わたしの無敵のヒーロー。
「‥‥‥マイキー」
彼は無言のまま工場の中に足を踏み入れて、すたすたと真っ直ぐにこちらに向かってくる。「来たか佐野ぉ」とか「最近デカい面してよぉ」とか色々総長が話しかけているのを無視、全部無視。清々しいほど、無視。
最後の三歩をたたたっと駆けたと思った瞬間、マイキーは近くにいた最初の一人の顔面に飛び蹴りを食らわせた。
赤い襷がリボンみたいに翻る。
それからはあっという間だった。
怒号を上げながら木材を振り上げる連中も、ナックルをつけた凶悪な拳も、自分より一回りも大きな体も、マイキーは全部ひらひらと避けながら沈めていく。わたしの存在を総長に教えたはずの人もまた、有象無象と同じように蟀谷に一発で地を舐めた。もう他のやつと見分けがつかない。
気づけば残るは総長ひとり。
こんな小さな体のどこにそんな強さがあるのか、これだけは本当に本当の、謎だ。
総長の顔はみるみる蒼褪めていった。
わたしの髪を引っ張って自分の前に突き出すと、「くるな」と喚く。
「な‥‥‥なんなんだよオマ」
「オレのモンに触んじゃねぇ!!」
マイキーは容赦しなかった。
ぎゅっと目を瞑って体を固くすると、すぐそばで顔面の潰れる嫌な音がした。マイキーの回し蹴りをもろに食らったのだろう、地面に叩きつけられた総長は起き上がらなかった。
わたしの頭上すれすれを通った脚が着地する。
ふわりと揺れた赤い襷が、やがて何事もなかったかのように重力に従って垂れた。
武器を持った三十八人を、たった一人で。
頼もしいような、末恐ろしいような。さすがに無傷とはいかなかったようで、口の端には血が滲み、特攻服には砂埃がついている。でも大した負傷はない。マイキー一人の圧勝だ。
「いいな。今度こいつに手出したら殺す」
マイキーは総長の頭をブーツの底で踏みつけた。
その冷酷無比な横顔にぞっとした。
これは誰?
「こいつの視界に入っても殺す」
わたしはこの瞬間、生まれて初めて、マイキーに恐怖を覚えた。
理不尽に真一郎くんを奪われたマイキーが抱える心の闇。二年前のわたしが兄に対して抱いた感情と限りなく似通った、それでいてより深く、暗澹とした本物の殺意。これは、いけない。ダメだ。このままじゃダメだ。
──本当に殺してしまう、と感じた。
「マイキー、あの、もういいよ、帰ろう。返事もできないみたいだし」
「いいわけないねぇだろ。こいつら放っておいたらまたあきを狙うかも」
「ねえっ、マイキーってば!」
総長の頭を踏み躙るブーツから嫌な音がしていた。
「やっぱりここで殺しとくか」
ここで止めなければ、マイキーは本当にこの人を殺してしまう。
そんなことさせるものか。
マイキーに人を殺させない。理不尽な暴力も卑怯な手も使わせてはいけない。そのための“法”。そのためのわたし。マイキーが間違おうとするならば、わたしは、殺してでも彼を止めなければ。
「──それ以上やるんならっ」
渾身の力でマイキーの肩を突き飛ばし、地面に押し倒した。馬乗りになって彼の胸倉を掴み、首を絞める勢いで力を籠める。
「わたしがマイキーを殺すから!!」