そして世界は書き換えられた




 二〇一五年、八月三日。
 蝉の大音声が、かつて大好きだったみんなのコールを髣髴とさせる嫌な夏だ。

 十年前のこの日はひどい雨だった。


朝蝉;2015/08/03




 昔よりずっと凶悪に感じる夏の陽射しの下、ワンピースの裾を揺らしながら、わたしは都内の霊園の坂を上っていた。片手に白い日傘を。もう片手にはお線香の入った小さなカバンを持って。
 かつかつとサンダルの踵を鳴らしながら歩くわたしの五歩後ろを、圭ちゃんがついてくる。
 この暑い中にも仕立てのいいスリーピース。さすがにジャケットは車に置いてきたけど、腕まくりをしても暑そうだ。彼は片手に水の入った桶を。もう片手には花束を抱えて。

「暑いねー!」
「ったく、誰だよこのクソ暑ちぃのに墓参りするとか言いだしたのは」
「毎年毎年アシに使われて圭ちゃんかわいそう」
「誰のせいだクソあき!!」

 文句を言いながらも毎年使われてくれるんだから、圭ちゃんってお人好しだ。
 目的の人のお墓が見えてきた。朝いちばんに来たつもりだったけれど、すでに周囲にはお線香の煙が漂っていた。
 多分、マイキーだろう。毎年そうだから。

「ドラケンくん、一か月ぶりだね‥‥‥」



 東京卍會副総長のドラケンくんが亡くなってから、今日でちょうど、十年。



 わたしたちは無言で働いた。足元に生えた草を抜いて、お墓を拭いて、花入れの水を入れ替える。香炉の灰を均し、茶湯器のお水もきれいにして、持ってきた花を供えた。最後にお線香を取り出すと、圭ちゃんがライターで火をつけてくれる。

「まだ禁煙しないの?」
「ウッセェ」
「早死にするよ」
「どうせ長生きはしねぇよ。ま、オマエにガキでもできたら考えてやるか」
「言ったね?」

 悪戯っぽく笑って圭ちゃんを見上げながらも、きっとそんな日は一生こないだろうなぁと思った。
 わたしは昔と変わらず“マイキーの女”だったけど、彼は恋愛にも結婚にも家庭にも興味がないらしい。ドラケンくんが亡くなったと同時に、自分が幸せになる全ての資格をも永遠に失ったと考えているみたいだったから。

 お墓の前に二人でしゃがみ込み、並んで手を合わせる。



 ドラケンくん。
 わたしたちも近々そちらに往くので、もうちょっとだけ待っていてください。



 短い祈りを済ませて瞼を上げると、さらに短かったらしい圭ちゃんはすでに立ち上がっていた。

「圭ちゃん。ゴメンね」
「何がだよ」
「東卍ができたとき、圭ちゃんとマイキーがせっかくわたしの手を放さないでいてくれたのに、わたしは“法”としての役目を果たすことができないままズルズル一緒にいる」
「‥‥‥バーカ」

 圭ちゃんの武骨な手がわたしの頭に伸びる。
 くしゃりと乱暴に髪を撫でると、彼は逆光を背に、痛みを堪えるような笑みを浮かべた。

「オマエの手を放さなかったんじゃない。オレらがあきを放してやれなかったんだ。オマエがいないとダメだったのはオレらのほうだ」
「‥‥‥‥」
「謝るのはこっちのほうだろ。こんな汚ねぇ世界に巻き込んだ。‥‥‥どこかの時点で、遠ざけるべきだった」

 ねえ、わたしたち、色んな後悔を胸に秘めてはすれ違ったまま大人になってしまったね。
 あの日、あの瞬間、どこかで、誰か一人でも、全力でぶつかり合っていればこんな未来にはならなかったのかな。マイキーの心が粉々に砕け散ってしまうことを恐れるあまり傍を固めて安堵した。本当なら、粉々に砕け散ったマイキーの心を何年かかっても拾い集める覚悟で殴りかかればよかった?

 ──ちがう。
 少なくともわたしだけは、

「殺してでも止めるべきだった」
「‥‥‥‥」
「そう決めていたのに。マイキーがわたしを止めてくれたように、わたしもマイキーを止めないとって」
「オマエにマイキーを殺せるわけがねーだろ」
「そうね。‥‥‥ほんと、バカよね」

 ドラケンくんに最後のあいさつは済ませた。もうやることは残っていない。生温い風に髪の毛を浚われながら立ち上がると、圭ちゃんに抱き寄せられた。
 その肩で目を伏せる。
 わたしたちは大人になってしまった。
 色んな罪を重ねながら。

「行くのか」
「うん。先に行って待ってるね」
「‥‥‥すぐ追う」
「圭ちゃんは長生きしていいよ」
「バカ言え」

 圭ちゃんはらしくもなく優しい声で悪態をついて、わたしの体を離すと、踵を鳴らしてもと来た道を戻りはじめる。わたしも小走りでそのあとを追い、ドラケンくんのもとをあとにした。
 桶と柄杓を返却して駐車場に戻ると、圭ちゃんの車の周辺には黒塗りの車が何台か停まっていた。わたしたちの姿を見て、スーツの男性が車から降りてくる。彼と昔から反りが合わない圭ちゃんの気配はやや尖った。

「‥‥‥稀咲。何の用だ」
「ボスがあきちゃんを心配してる」

 稀咲鉄太。
 十年前の今日の抗争をきっかけに東卍と合流した元愛美愛主のメンバーで、今や犯罪組織と成り果てた東京卍會のNo.2。

「毎年のことなんだから、ドラケンくんのお墓参りだってことは解っているでしょうに‥‥‥」
「状況が違います。今は東卍内部もきな臭い。あまり迂闊に外を出歩かないでください」
「圭ちゃんと一緒にいてもだめなの? 自分だって朝一番に来てたくせに」

 稀咲くんに言ったってどうしようもないことは解っていたけれど、ぼやかずにはいられない。彼も眼鏡の奥の双眸に困ったような色を浮かべて肩を竦めた。
 彼は後部座席のドアを開けて「乗ってください」と頭を下げる。

「‥‥‥圭ちゃん、連れてきてくれてありがと」
「ああ」

 マイキーのこと、よろしくね。
 声に出すことはできなかったし、唇を動かすこともしなかった。欠片でも痕跡を残せば疑われて危険な目に遭うのは圭ちゃんだ。彼にはまだ生きてやるべきことがある。東卍内部に巣食った不浄を洗い出してもらわなければ。


 マイキーの夢を、圭ちゃんの志を穢したもの全部、消し去って。
 どいつもこいつも逮捕されて刑務所にぶち込まれて組織は解体されて跡形もなくなって、東京卍會なんて暴走族、誰も憶えていない世界にして───


「稀咲ィ」
「‥‥‥ん?」
「あきに傷一つでもつけたら殺す」
「言われなくとも」

 扉が閉まった。稀咲くんがわたしの隣に乗り込むと、車は音もなく滑りだす。
 圭ちゃんはずっとこちらを見ていた。
 黒いスモークガラス越しに、わたしたちは最後のお別れをした。さよなら圭ちゃん、大好きだよ。




 稀咲くんとともに、与えられたマンションの一室に戻ると、マイキーはソファに寝転んでいた体を起こした。

「ただいま。マイキー」
「‥‥‥どこ行ってた」
「堅ちゃんとこ。ちゃんと圭ちゃんと一緒にお出かけしたよ? 毎年のことでしょ」

 ひとまず顔を見せて安心させてから自室に入る。鞄を置いてアクセサリーを外し、何かあったときのためにと持たされている拳銃を、ワンピースの裾に隠れる位置にリボンで結びつけた。

 ──例えばコレでマイキーを撃ったらどうなるだろう?

 わたしはその場で稀咲くんに撃たれるだろう。総長を喪った東卍は今度こそ堕落する。マイキーを欠き、ドラケンくんのいない、ただの骸と化した東京卍會になる。でもだめだ。東卍にはまだ、マイキーのために一緒に来てくれた圭ちゃんや千冬くんやパーちんやぺーやんや三ツ谷くん、わたしの大切な人たちが今も在籍している。

 ──例えばコレで稀咲くんを撃ったらどうなるだろう?

 ‥‥‥どうなるんだろう。
 でももう、そうするには全てが遅すぎる。

 リビングに戻ると、キッチンで適当にお茶を淹れた稀咲くんがテーブルについて寛いでいるところだった。

「稀咲くん」
「はい?」
「二人にしてもらっていいかな。マイキーに話したいことがあるの」
「わかりました。じゃ、オレはこれで」

 グラスのお茶を飲みほした彼に「あとで洗うから置いといていいよ」と声をかけると、「お言葉に甘えて」なんて謙虚な言葉が返ってくる。
 ドラケンくんを喪った東京卍會をよくよく支えてくれた人。
 でも圭ちゃんは彼を嫌いだった。害悪だとさえ断じた。だから圭ちゃんはこれから、稀咲くんを排除するための戦いを始める。
 彼を玄関まで見送ってから、しっかりと鍵を閉めた。さよなら。

 リビングに戻り、稀咲くんの置いていったグラスを洗ってから、マイキーの隣に座る。
 とっても不機嫌そうな顔だった。

「黙って出かけてごめんね」
「‥‥‥確かに毎年のことだけど。今年は状況が違うって何度も言った」
「うん。ごめんなさい」

 マイキーの金髪に指を差し込み、後ろへ撫でつける。左の首筋に入れられた龍の刺青。彼を喪ったあと、その存在を、死なせてしまった事実を自分に刻みつけるように住まわせた龍だ。
 わたしにはこれが罪人の証のように見える。
 じっと刺青を見つめるわたしを、マイキーはぞんざいに抱き寄せた。

 なぜか、十年前のことを思い出した。
 わたしを喪うことを恐れるマイキーに抱きしめられるのなんて初めてじゃないのに、今日だけは、中学最後の夏休みの記憶が脳裡で踊りだす。


「“無敵のマイキー”にも、怖いものってあるんだね‥‥‥」

「わたしは、離れたくないんだけどなぁ」

「痛い思いするのが怖くないわけじゃないけど、怖い思いなんてしたくないけど」




「マイキーともう会えなくなるほうが、ずっと辛いよ」



 マイキーごめんね。
 でも、わたしが恋したあの日のあなたにはもう二度と会えないから。
 痛い思いするのが怖くないわけじゃないけど、怖い思いなんてしたくないけど。これからも修羅の道を歩んでいくであろうマイキーを見ているしかできないことは、どんな死よりも辛い。
 それだけだ。

「約束やぶって、ごめんね。マイキー」
「いいよもう、無事なら‥‥‥」

 内腿に隠してあった拳銃を取り出し、蟀谷に当てた。
 マイキーは何が起きているのか解っていないみたいだった。

「‥‥‥あき?」


 あなたがわたしを喪うことを恐れるのなら、理不尽な喪失のトラウマや恐怖があなたに道を誤らせ続けるのならば、わたしがわたしを殺すしかない。
 マイキーを殺せない、でもこれからのマイキーのそばにいるのが辛い。臆病なわたしにはそれしか道がない。

 情けない“法”でごめんね、マイキー、



「愛してる」



 全部ぜんぶ最初からやり直していけるなら、わたしはきっと、世界のはじまりのあの日に戻って東京卍會なんて創らせない。


 強烈なその想いとともに、引き金を引いた。




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