そして世界は書き換えられた
二〇一五年、十月三十一日。
武骨で厳格な建物のなかの一室で待たされることしばらくして、刑務官の付き添いを受けた一人の死刑囚が入室してきた。
永訣;2015/10/31
「堅ちゃん、一週間ぶり。元気だった?」
にこ、と小首を傾げると、彼は静かにほほ笑んだ。三人殺して確定死刑囚として東京拘置所に収容された人だなんて、俄かには信じられないほど穏やかな眼差し。
「あきちゃん」
“血のハロウィン”から今日でちょうど十年になる。
あの日から東卍の世界はひっくり返ってしまった。
カズトラくんが圭ちゃんを殺し、マイキーがカズトラくんを殺した。東京卍會は芭流覇羅と合流し、やがて組織を拡大。その過程で夥しい数の犠牲者が出た。ドラケンくんは人を殺した。逮捕されたのち事件から三年で死刑が確定。確定死刑囚になれば面会にも厳しい制限があると知ったわたしは、裁判中、方々にかなりの我が儘を言ってドラケンくんと結婚してやった。
つまり今のわたしは龍宮寺あき。
エマちゃんに知られたら絶交されそうだ。心の底からエマちゃんごめん。許して‥‥‥。ううん、許してくれなくたっていい。
「いつも言ってるけど、無理して毎週来てくれなくていいぜ」
「いつも言ってるけど、堅ちゃんの面会くらいしか外出の予定がないの」
「‥‥‥アイツはどうしてる?」
「元気に過保護よ。嫌になっちゃうくらいね」
来るたびに思う。わたしたちの棲家と同じ東京都内のくせに、この場所はとても静かだ。
面会室と他の場所ではまた違うのかもしれないけれど、ドラケンくんはこんなところで毎日毎日、一体どんなことを考えて感じながら死刑の執行を待っているのだろう。行いに対する後悔はないと、死刑は当然の報いだと彼は言うけれど。
わたしは恐ろしくなる。
ある日唐突に訪れるであろう彼との永遠の別れを思うと、夜も眠れないくらい恐ろしくなる。
「今日でちょうど十年だね」
「そうだな。‥‥‥場地たちの墓参りは?」
「午前中に済ませてきたよ。三ツ谷くんと一緒に」
会話は途切れた。
大きな変化のない場所で毎日を過ごすドラケンくんと、許された外出といえば彼との面会か誰かの墓参りというわたし。顔を合わせたって、溢れるほどの話題があるわけでもない。
「最近、夢を見るんだよね」
「‥‥‥夢?」
「うん。二〇〇三年のあの夏に真一郎くんが死なない、幸せな世界の夢」
十二年前の、夏の日。
バイク屋さんに展示されていたバブを見て窃盗の計画を立てた圭ちゃんとカズトラくんは、やっぱり盗みなんてだめだよな、って思い直すの。
彼らは彼らのお小遣いで買えるプレゼントを用意して、いつもの面々でマイキーのお誕生日を祝う。
そしたら真一郎くんがやってきて、マイキーにバブをプレゼントする。
なんにも知らないわたしたちは、キラキラのバブを見て呑気に歓声を上げる。
「これがマイキーの欲しがってたバイクかー!」
「ん。かっこいーだろー?」
「うん! ね、運転慣れたら今度こそ後ろ乗せてよね。絶対だよ」
「やだよーだ」
そんなわたしとマイキーの横で、自分たちが盗みに入ろうとしていたバイク屋さんが真一郎くんのお店だと知った二人が顔を見合わせる。よかった、あのとき引き返して。取り返しのつかないこと、するところだったな、って。
そしたら何もかもうまくいくんじゃないのかな。
カズトラくんは逮捕されない。創設メンバーは六人のまま、わたしたちはケンカばかりの毎日を送る。やり場のない力をぶつけ合って、殴り合って、笑って泣いてわかり合う、そんなお綺麗なヤンキー漫画みたいなエンディングを迎えるの。
エマちゃんはドラケンくんと結婚して、子どもができて。
わたしとマイキーもまあ何事もなければ普通にくっついて、わたしはエマちゃんと姉妹になる。
そんなわたしたちのところに、圭ちゃんやカズトラくんや、三ツ谷くんやパーちんたちが遊びにくるんだ。
みんなで夜遅くまでお酒を飲んだりゲームしたりして、昔のことを思い出しながらわいわいするの。真一郎くんはきっと、エマちゃんの子どもにメロメロなんだろうなぁ。いい伯父さんになりそうだよね。
ねえ、マイキー。
ああでもそんな世界どこにもない。
ただの夢だ。
幸せな悪夢‥‥‥。
そっと睫毛を伏せたドラケンくんに、わたしは自嘲の笑みを浮かべた。東京卍會発足のあの日、せっかく圭ちゃんが与えてくれた役割さえ果たせず、ずるずるとここまで闇に引き摺られたわたしの願うことのなんと浅はかなことか。
やがて刑務官が静かに「時間です」と声をかけてきた。
ドラケンくんが立ち上がる。
「いつも悪りィな。気をつけて帰れよ」
「ううん。‥‥‥あのね、堅ちゃん」
刑務官に促されて退室しようと歩きだす彼の背中を呼び止める。普段は時間通りにお別れするから、ドラケンくんがちょっと目を丸くした。
「ごめんね。先に行って、待ってるね」
「‥‥‥、ああ」
言葉少なにうなずいた彼の眦に涙が浮かんだのが見える。
ねえ、堅ちゃん。
わたしたち、色んな間違いを犯したまま、大人になってしまったね。
あの日、あの瞬間、どこかで、誰か一人でも、全力でぶつかり合っていればこんな未来にはならなかったのかな。マイキーの心が粉々に砕け散ってしまうことを恐れるあまり傍を固めて安堵した。本当なら、粉々に砕け散ったマイキーの心を何年かかっても拾い集める覚悟で殴りかかればよかった?
──ちがう。
少なくとも、わたしだけは、
「着いたよ、あきちゃん」
「ん‥‥‥」
そっと肩を叩かれて瞼を上げると、車のドアを開けてくれた三ツ谷くんが逆光を背にわたしの顔を覗き込んでいた。
寝惚けたまま差し出した手をそっと引いてエスコートしてくれる。
「よく寝てたな。朝から色々出かけて疲れたか。ゆっくり休めよ?」
「うん。三ツ谷くん、一日つきあってくれてありがとうね」
「あきちゃんのアシくらいいつでもやるって」
茶化すように笑った三ツ谷くんに笑顔を返した。大きく変貌した東京卍會の幹部になっても、痛々しいほど昔の面影を残してくれる三ツ谷くんに、もう何度救われたかわからない。
わたしも他のみんなも、いつも彼に頼って、甘えてばっかりだったな。
地下駐車場からエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。わたしなんかには不相応なほど豪華なマンションの部屋は、犯罪組織『東京卍會』総長の恋人であり、現在は元副総長の妻ということになっているわたしの身を守るための監獄だ。
エレベーターを降り、部屋のロックを解除してドアを開けると、黒い革靴が転がっていた。
「お、マイキー帰ってんだな」
「うん。明るいうちに帰ってくるなんて珍しい。上がってく?」
「いーよ、このあと用事あんだ。マイキーによろしくな」
さっぱりした様子で踵を返した三ツ谷くんの後ろ姿を見送った。
エレベーターに乗り込んだ彼が、ガラス越しに手を振ってくれる。それに振り返しながら、三ツ谷くんの姿が見えなくなるまで、見えなくなっても、わたしは立ち竦んでいた。
さよなら三ツ谷くん、大好きだよ。
玄関で靴を脱いで、「ただいま」と声をかける。
返事はなかった。
洗面室で手洗いと嗽をして、リビングの手前にある自室に入る。鞄を置いてアクセサリーを外し、何かあったときのためにと持たされている拳銃を、ワンピースの裾に隠れる位置にリボンで結びつけた。
リビングのドアを開けると、マイキーはソファに寝転んでいた体を起こした。
「ただいま。マイキー」
「‥‥‥おかえり」
「午前中は圭ちゃんとこ行ってきたよ。先にお供えしてたのマイキーでしょ?」
隣に座ると、彼は手を伸ばしてわたしの髪に指を差し込む。
こめかみを撫で、後ろへ撫でつけ、耳や首を擽り、やがてゆっくりと離れていった。
「お昼ごはんは久しぶりに道玄坂のハンバーグ屋さんで食べたの。相変わらず美味しかったよ。午後からは堅ちゃんの面会。元気そうだった」
「‥‥‥何もなかった?」
「何かあったらこうして無事に帰ってきてないよ」
こてりと首を傾げて微笑む。
マイキーは暗い闇を湛えた双眸でじっと見つめ返してきた。いつからだろう。わたしの呑気な笑みに対して、彼が笑ってくれなくなったのは。
あの日からかな。
十年前、圭ちゃんがわたしと千冬くんの腕の中で息を引き取り、マイキーが我を忘れてカズトラくんを殴殺した、あの日から‥‥‥。
「オマエはマイキーのそばにいろ」
わたしはまだ悪夢の続きを見ている。
一生終わらない、悪い夢。
急速に負の側面を強めていく東卍を守れなかった。女で、ケンカなんてできなくて、バイクにも乗せてもらえなくて、東卍の正式なメンバーですらないわたしに与えられた唯一の役割を全うすることさえできなかった。
圭ちゃんを喪い、過ちを犯して、ぼろぼろになってしまったマイキーが今にも壊れそうで。
玉砕覚悟で殴りかかることが、あのとき、誰にもできなかった。
それでも、少なくともわたしは、わたしだけは。ブン殴るとか目を覚まさせるとか甘っちょろいこと言ってないで、マイキーを殺してでも止めるべきだったのだ。そう誓ったのだから。他の誰でもない、マイキーに。
それが、“法”たるわたしのすべきこと。
「マイキー、ごめんね。いつも心配かけてばっかりで」
「いいよ。‥‥‥こういう世界に引きずり込んだのはオレたちだ」
「うん‥‥‥。でも、ごめん」
圭ちゃん。ごめんなさい。何度謝っても足りない。あのとき、みんなの善悪の基準をわたしに託してくれたのに。
でもやっぱり、わたしにマイキーを殺せるはずがなかった。だって大好きなんだもの。大切なの。圭ちゃんはそれがわかっていたから、いつだって「止めろ」じゃなくて「そばにいろ」って言ってくれたんだよね。
でももうそれも辛いの。これからも修羅の道を歩んでいくであろうマイキーを見ているしかできないことは、どんな死よりも辛い。
約束を守れないわたしを赦してね。
ううん、赦してくれなくていい。ゆるされるはずがない。
内腿に隠してあった拳銃を取り出し、蟀谷に当てた。
「情けない“法”でごめんね、マイキー、」
「‥‥‥あき?」
マイキーは何が起きているのか解っていないみたいだった。
「愛してる」
全部ぜんぶ最初からやり直していけるなら、わたしはきっと、世界のはじまりのあの日に戻って東京卍會なんて創らせない。