■ ■ ■

(1/4)

 妹が生まれたのは、俺が九歳の誕生日を一週間後に控えた、桜も満開の三月末のことだった。

 だけどその誕生よりも先に、俺に兄としての自覚を芽生えさせたやつがいる。十一月に生まれたはす向かいの御幸さんちの長男坊だ。
「この子のお兄ちゃんにもなってあげてね」と微笑んだ御幸家のおばさんの腕に抱かれた、小さな小さな命。すべすべもちもちのほっぺたに、大きな黒目の双眸、柔らかな髪の毛、俺の指を握りしめてきた小さな手。
 俺の弟。

「一也、っていいます。よろしくね、完吾お兄ちゃん」
「かずや……」

 俺が一也に初めて会ったのは、あいつが生まれて三週間ほど経った頃のことだった。
 そういうわけでそれより四か月あと、生まれたてほやほやの妹を病院で見た俺は、「サルみたい」とまことに正直な感想を漏らして母さんにすっ叩かれる羽目になる。

世界が君に
優しくありますように



 誰にも言っていない正直な話、俺は英のことが嫌いだった。



 妹の異常さに気付いたのは、英が三歳くらいの頃だったと思う。
 物心もついていないような赤子のうちから一緒にいた英と一也は、徐々に自我が芽生え始めるその頃も大抵一緒にいた。親同士、子どもがひとところに集まっていたほうが面倒も見やすかったんだろう。一也がうちに来たり、英が御幸家に行ったり、頻繁にそうやって交流していた。

 一也が天乃家に預けられるとき、二人の監視役は決まって俺だった。
 庭で素振りをしながら、何をするかわかったもんじゃない三歳児がうろちょろしないように見張りつつ、適度に相手をしてやる。ボールを投げてやれば一也は喜んだし、表情豊かな弟が俺も好きだったから、こいつの相手は苦じゃなかった。
 よくわからないのは英だ。
 一応、お絵かきと絵本が好きらしい。俺と一也がボール遊びを始めたら、大体ひとりで絵本を広げたり、画用紙にクレヨンで絵を描いたりしていた。一也に比べると笑顔も口数も少ない妹のことを、俺は一歩引いた目で見ながら、子ども心に違和感を抱いていたのだ。

「英もボール遊びするかー?」

 たまにそう声をかければ、三回に一回くらいは「うん」とうなずく。
 残りの二回は「ううん、わたしはお絵かきする」と「ううん、絵本読む」だ。
 その返事がまた流暢で、これまた一也と比べると、言葉の発達がおかしいくらい早かった。まるで子どもの体をした大人みたいな表情や喋り方の英は、当時の俺にとって、妹というよりは得体の知れない生き物のように思えていたのだろう。

「完吾って、かずくん好きよね。英とはあんまり遊ばないし」
「……だってあいつ気味悪い。変だよ」
「そう?」

 てっきりあんたシスコンになると思ってたのに、と不思議そうな母さんを見て、あんなにおかしいのになぜ気付かないのだろうともどかしい思いを抱いた。
 でもこの年になってみればわかる。
 一番近くにいた母さんが気付かないわけがないんだ。
 それでも、英が笑わないことやあんまり喋らないこと、それなのに言葉や自我の発達は一也よりもずっと早いこと、その一つ一つを柔らかく受け止めていた。そのことに気が付いたとき、自分の母親の偉大さに溜め息さえついたくらいだ。



 英が不審者に体を触られる事件が起きたのは、俺が十四歳のとき。

 父さんも母さんも、どんなことが起きたのか詳らかにはしなかったけど、「英が辛い思いをしているかもしれないから、完吾もよく見てやって」と言われた。

 よく見てやって、と言われても。
 普段からあんまり笑ったり泣いたりしない妹のことなので、どうせけろっとしているんだろう。
 何が起きたのか知らなかったので、俺はそんな風に考えていた。実際、俺の見る限り本当に英はけろっとしていた。いつも通り一也と手をつないで幼稚園に行って、いつも通り帰ってきて、大人しく絵本を読んだりテレビを見たりしている。

 ――その日の朝、俺と母さんはシニアの練習に行く準備をしていた。

 インターホンが鳴って、弁当を作っている母さんに「ちょっと完吾出て!」と言いつけられたので、こんな朝っぱらから一体誰だと心の中でごちながらドアを開ける。
 そこにいたのは御幸家のおばさんと、一也だった。

「おはよう、完吾くん、朝からごめんね。英ちゃん、もう起きてるかな?」

 申し訳なさそうに眉を下げて訊いてくるおばさんと手をつないだ一也は、その大きな双眸からぼろぼろ涙を零している。それなのに声を上げて泣いたりしている様子はなくて、その異様な泣き方に俺はびっくりしてしまった。
 一也も、どうして自分が泣いているのかよくわかっていないようだった。

「一也が……英ちゃんが泣いてる、助けてって言ってる、って聞かなくて」
「英ならまだ起きてないけど……ちょっと見てくるから待ってて」
「ごめんね。忙しいのに」

 玄関先に二人を招き入れて、俺は英が寝ている寝室へ向かった。
 今は父さんと母さんと英が三人で、一階の和室で川の字に寝ている。寝ている父さんを起こさないように襖を開けると、真ん中の英が寝ている布団がこんもりと丸くなっているのが見えた。
 枕元に腰を下ろして、恐る恐るぽんぽんと叩く。
 中学生になった俺は相も変わらず英が苦手だった。幼児のくせに聡明な妹もそのことを悟っていて、多分俺にあまり近付かないようにしていたのだと思う。

「英。一也が来てるぞ、起きろ」
「……かずくん……?」

 ぺろんと布団を捲ってぎょっとした。
 柔らかな髪の毛が顔にかかっているその隙間から、英の目に涙が浮かんでいるのがわかったからだ。
 するとぱたぱたと足音が聞こえてきて、ひょこっと一也が和室に顔を覗かせる。後ろから「こら、一也!」「あれ、どうしたの、いらっしゃーい」といまいち噛み合っていない母同士のやりとりが追いかけてきた。
 一也は勢いよく、布団にくるまった英に突進した。

「英ちゃん!」
「かずくん。なんでいるの?」
「英ちゃんが泣いてたから」

 その騒ぎに寝ていた父さんが起き出す。
 一也はぱちんと両手で英の頬を挟んで、その存在を確かめるみたいに額をぶつけ合わせた。それから短い腕をいっぱいに伸ばすと、呆然とした様子ではらはらと涙を流している英を、ぎゅうっと音がしそうなくらい強く抱き寄せる。

「どうしてわかったの」
「英ちゃんが、呼んだから。来たよ」

 その言葉に、英が躊躇うように両手を一也の背中に回した。
「う」と呻いたその声が最初、誰のものだかわからなかった。
 今まで堪えていたもの全部吐き出すように声を上げて泣き始めたのは、恐ろしいほど早熟で聡明だったはずの、俺の妹だった。
 英が声を上げて泣くところを見たのは何年ぶりだろう。
 指先から力が抜けていくような苦しい嗚咽だった。

 俺はもちろん、寝惚け眼の父さんも、エプロンで手を拭く母さんも、一也を叱ろうとしていたおばさんも、呆然としてその様を見ていた。

 半分と半分が寄り添って一つになったその瞬間を、見ていた。