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「……出たな! 将来の夢」

 唇を尖らせて腕組みをしたわたしを、後ろから二・三年生が覗きこんできた。

「なんや、ぶすっとして。この間の宿題やないか」
「あー将来の夢とそれに見合った進路ってやつな。俺、甲子園って書いて溜め息つかれたわ。そのまま提出したけど」
「おうお前もか山口。俺もや」
「三年生になるとこんなのがあるんですね……」
「進路かぁ」
「マネさんは推薦とかないっすもんね」

 夕飯を食べ終えてわたしの周りでわちゃわちゃしている二・三年生を、進路なんてまだまだ先の話の一年生は遠目から観察してきている。
 わたしは憮然とした表情を作ったままシャーペンを取り出して、とりあえず名前を書いた。

「いい加減、将来の夢から進路を決めさせるのはやめた方がいいと思うのよ。法学部に行った子が全員弁護士や検事になるわけじゃないし、勉強したいことと適職は違う場合もあるんだから」
「なんだお前、またそれ悩んでんのか」

 人だかりの中からひょこりと顔を出した一也は、わたしが何に悩んでいるか悟ると関心を失ったようで、テレビの前を陣取って先日の練習試合のDVDを流し始めた。

「ねぇ『御幸スチールの事務職』って書いていい?」

 食堂が静まり返る。
 急に訪れた沈黙にぱちくり瞬いていると、それに気付いていない一也はこちらを見もせずに答えた。

「勝手にすれば。お前が親父の面倒見てくれるなら安心だわ」
「……おじさんの食生活も確かに心配よねぇ」
「最早『御幸家の家政婦』だな」
「それは先生ビックリしちゃうね」

「――そっちか。相変わらずギリギリの会話してんなお前ら」
「マジでややこしいな! ふざけろ!」
「あービビった! 歴史的瞬間に立ち会ったかと思った!」

 どっと大騒ぎになったところで一也がびっくりして振り返る。
 翻訳を求めて倉持に視線を向けると、呆れきって反応もない彼が「お前らが」と全く興味なさそうに通訳を始めた。

「ついに公開プロポーズしたかと思ってびっくりしたってよ」

 ――御幸スチールの事務職
 ――親父の面倒
 成る程確かにややこしい会話だったかもしれないけれど、そろそろ慣れてほしいものだ。

「ないない。俺まだ十七だし」
「ええ、学生結婚はないわね」

「…………つまり御幸先輩が結婚できる年齢になって、英先輩が卒業したら結婚するということで……」

「降谷余計なこと言うんじゃねぇ!!」
「こいつらはそっとしとかねーといけねぇんだよ!!」

 ぼそりと呟いた降谷くんに三年連中が飛びかかった。
 やりたいようにやらせておくのが一番平和なので、降谷くんの発言もスルーしておくことにする。ひとまず最後の設問である志望大学と学部の欄から埋めながら、「御幸はもうやったの?」と声をかけてみた。

「ああ、もうした」
「なんて書いたの。御幸スチールの工場長?」
「いや。『甲子園に行く』って」

 ペンを握る手が、止まった。

 ――かつて迷いなく、甲子園もプロも現実味がないと、目の前の相手を倒していれば勝手についてくるものだと、言い切ったこの人が。
 あの時と同じ迷いのない声で、甲子園に行くと答えた。

 テレビに視線を注いでいる横顔をじぃっと見つめる。
 いい加減嫌になるほど見慣れているけれど、わたしは何年経ってもこの横顔が好きだった。

 そうだね。
 あの日ふたりきりで将来の夢を悩んだ時とは違う。
 大事にするものが変わったね、お互い。

「――じゃあわたしも甲子園にしよう」
「待て待て待て。学年主席が将来の夢『甲子園』は担任が泣くぞ!」
「そうだそうだ! まだ『御幸の嫁』の方が――間違えた、『御幸スチールの事務職』の方がマシだぞ!」
「ちょっと邪魔しないで」

 一喝したわたしの後ろで三年生たちが「英が冷たい」「お母さんが素っ気ない」「御幸! 英がひどい!」とショックを受けているが無視。もう扱いも慣れたものだ。

「誰が『甲子園』そのまま書くって言ったのよ。『全国制覇』に決まってるでしょ」

「……ヤベェ英が格好いい」
「惚れる」
「おいやめとけセコムの眼が光ってんぞ」
「もううるさい、散った散った。みんなもちゃんと宿題しなさいよ」

 少しだけ滲んだ涙を、みんなにばれないように拭った。

 目の前の野球に夢中だった一也が、誰かと一緒に甲子園を目指したいと思うようになった。
 このチームで甲子園に行きたいという夢を抱けるようになった。
 そういう想いをあの人に抱かせてくれたのはみんなだ。

 それがどれだけ凄いことか、この子たちはわかっていないんだ。



「泣いたろ」
「ばれた?」

 指先で目元を擽られて、つい肩を竦めてしまう。
 騒がしい食堂を抜け出した帰り道、いつものように徒歩十分の道のりをゆっくりと歩きながら、隣の幼なじみの腕を取った。嫌がりもせずに腕を絡められてくれる一也にぴたりとくっついて寄り添う。

「中学生の頃は『御幸スチールの工場長』って書いたのにね」
「お前なんて『お母さん』だろ。再提出くらったのを口で丸め込んだんだったっけ?」
「人聞きの悪い。ご理解頂いたのよ」

 もう四年も前のことになるのか。
 時の流れの早さにしみじみしてしまう。

「……いいお母さんになって、幸せなおばあちゃんになって、大勢のひ孫に囲まれながら精々笑って死んでくれよ」
「一也こそ、いい奥さんつかまえて、素敵なおじいちゃんおばあちゃんになって、奥さんを残して先に逝かないとだめだからね」
「いい奥さんつかまえられっかな。なんだかんだ野球ばっかりな気がするなー」
「大丈夫、顔はいいからどうにかなる」
「てめぇ」
「きゃー」

 後ろからがばーっと抱きついて頭をぐしゃぐしゃに撫で回してきた一也と、程々にじゃれ合いながら笑みを零す。
 あの時と同じような言葉を、あの時よりも明るい気持ちで言うことができる。
 心も体も逞しくなった幼なじみの腕の中から抜け出すと、彼の頭上に真ん丸いお月さまが浮かんでいるのに気が付いた。

「ねぇ見て。お月さまがきれい」
「は?……ああ、丸いな。満月か」
「あーダメ、全然ダメ。そこはせめて『きれいだな』くらい同意しないと女の子つかまえらんない」
「人の感想を添削すんな」

 ぱしんと頭を叩かれる。
 散々ぐちゃぐちゃにされた髪の毛を「もう」と拗ねながら整えていると、一也はふと優しげな表情になって、指先で跳ねた毛先を梳いてくれた。

「ただの月に『お』をつけて、『さま』までつけるお前が可愛いなって思ってたから、満月に感動する暇もなかったんだよ」

「……、…………!?」
「お、照れてる照れてる」
「も……もうバカ、バーカ、ばかずや!」
「お前、余裕なくなると語彙が鳴と同レベルになるよな。普段はお姉さんぶってるくせに」
「っ……」

 どうしようもなくなって両手で顔を覆ったわたしを置いて、一也はお腹を抱えて笑いながら歩き出す。
 いい奥さんをつかまえるどころか、天然タラシすぎていつか刺されやしないか心配だ……。

「ねぇもうバカ、わかってる? 月がきれいだねっていうのはね!」
「ハイハイ聞いたことあるよ、夏目漱石の『I love you』だろ?」
「そうだけどそうじゃないの! 一緒に月を見ることができる幸せと、同じものを見て美しいという気持ちを共有できる幸せと、共有したいと思える相手がいること、その相手がいま隣にいること、あらゆる幸福を詰め込んだ言葉なの。きっとね」
「そりゃ深い」
「だからいつか……」

 いつか一也が、一緒に美しい月を見ることができることさえ幸福だと思えるような相手に出会えたらいいのに。
 みんなと一緒に甲子園に行くという夢を掲げた、その夢のさらに先で。
 どうか寂しい思いを胸のうちに仕舞ったまま笑っている彼が、誰よりも幸せになればいい。

 そして、いい奥さんをつかまえて、素敵なおじいちゃんおばあちゃんになって、奥さんを残して先に逝ってほしい。一也の奥さんには、一也より先に逝かないでほしい。この人を一人、残さないでほしい……。

 言葉にならなかった続きを汲んだ彼は、少し呆れたように笑った。

「残念ながら今のところ空に浮かんでるだけの月より、俺の幸せばっかり願ってる健気な幼なじみの方が可愛いんだよな」

「――そういうところ! もう! バカ!」
「はっはっは、照れてる照れてる」
「ねぇちょっとちゃんと聞いてた!?」
「聞いてる聞いてる」


愛 変わらず幸せを願ってる



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5万打御礼文でした。2018/01/17〜01/31掲載