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21.5 噂のファーストキスについて


「本当にごめん。あの時は自分でも何が何だか……。絶対に許されないことをしたと思っている。顔も見るのも嫌かもしれないのに、こうして直接断りに来てくれてありがとう」

 事件があった翌日、教室を訪れて堂々と「昨日はお返事ができなくてごめんなさい。今は野球と勉強に集中したいので、誰かとお付き合いすることは考えられません」と頭を下げると、先輩はむしろ恐縮して男泣きしていた。

「殴って済む問題じゃないのはわかっているけど、少しでも気が晴れるなら殴ってもらって構わない」
「……今のわたしには」

 視界の端に、心配そうな顔をしてこっちを見ている東先輩が映る。
 隠れているつもりなんだろうけれど、ワイン樽みたいなお腹がばっちり教室のドアからはみ出ていた。

「野球部のマネージャーという肩書があって、自らの行動一つに青道野球部の伝統と格式がついて回ると自覚しています。一年生で、まだまだチームの一員には程遠いですが、それでも暴力事件なんて起こすわけにはいきません」
「……真剣なんだね。男と付き合っている暇なんてないわけだ」
「ええですが、決して暴力事件として騒ぎ立てないと言うのなら、是非に」

 表情を変えずに右手をピンと伸ばして掲げてみせると、先輩はうなずいた。
 目だけ動かして周りを見る。昨日あんなにも恐ろしかった第三者の視線の集合体が、今日はこんなにも頼もしい味方に思えた。

「下手に避けようとすると耳に当たって鼓膜が破れます。舌や口の中を切らないように歯も食い縛って。決してそこから動かないように」
「思ったよりガチだね!? どんと来い!!」
「では遠慮なく」



「……ものすごく失礼なことを訊くけど、初めてだったんじゃないだろうか」

 小気味いい音が三年の廊下に響き渡ってしばらく、先輩は頬を押さえて悶絶していた。
 自衛のために空手道場に通うこと十年弱。そんじょそこらのか弱い女の子と同じにしてもらっては困る。
 涙目で立ち上がった先輩の質問に、わたしは小さく息を吐いた。

「幸いにと言うべきでしょうか、初めてではないのでご心配なく」

 この言葉に周囲がざわついた。
 聞き耳を立てるならもっとばれないようにすればいいのに。東先輩まで目を丸くしてこっちを凝視してくるものだから、なんだか笑えてしまった。

「……相手はやっぱり御幸?」
「さあ。どうでしょう」


 小学一年生の頃だっただろうか。
 わたしと一也と兄、それからお母さん二人の五人で映画を観に行ったことがある。ポケモンだったかドラえもんだったかは憶えていないけれど、泣かせに来たストーリーにドはまりしたわたしは、映画終盤から号泣しっぱなしだった。

 劇場を出てからもぴーぴー泣いていたわたしを見た一也は、ちょっと首を傾げてから、わたしの顔を両手でガッと掴んだ。
 近づく顔と顔、ぶつかる唇――というか歯。

 痛かった。
 驚くと同時に、へったくそ! と悶えた記憶がある。いや、小学生の時点でキスがうまくても大問題なんだけど。

 うちの母は「あら」と目を丸くして、一也のおかあさんは目を剥いて絶叫した。

「かずくん!? 何してるの!?」
「だって英ちゃんが泣いてたから」
「だからって勝手にチューしたらだめでしょ!」
「でも昨日みたテレビでやってたよ」

 ドラマの話だ。当時一世を風靡していた八時からの学園ドラマ。わたしも昨日、母と見た。
 確かに、涙を流すヒロインを強引に引き寄せたイケメンが、キスをして泣き止ませていた。御幸家も見ていたのかと思いながら、思いっきり歯が当たった唇が切れていやしないかと指で触ってみる。

 すると、隣でぷるぷる震えていた兄の拳骨が火を噴いた。

「いぃぃっっってぇ!」
「可愛い可愛い英のファーストキスを!! お前!! 責任とれこのバ一也!!」
「ちょっと完吾、やめなさい。あんたもう中学生なんだから」
「だって母さん! 英のファーストキスが!!」

 相当いい音をさせていた辺り、当時中学生だった兄がいかに大人げない拳骨を叩きこんだか推察できる。実際、一也はしばらくしゃがみ込んで呻いていた。泣かなかったのが奇跡である。

 というわけで、今世におけるわたしの初めてはわりと早めに済んでいた。



「おい」

 珍しくA組を訪れた一也が机を叩いたのは、わたしが先輩に断りを入れたその次の休み時間のことだった。

「お前のファーストキスの相手は誰だってめちゃくちゃ訊かれるんだけどどういうことだよ」
「え? なんでそんなことになってるの?」
「俺が知るか!」
「いたたたた痛い痛い」

 ギリギリギリと片手でわたしの頭を握りつぶす勢いの一也を振り払う。
 先輩に初めてではないと言ったのはさっきのことなのに、どうしてこうも噂が回るのは早いのだろう。これも高嶺の花たる宿命か。

「色々訊きたいけどつまりどういうことなんだよ」

 憮然とした表情の一也をちょいちょいと手招いて、顔を寄せてきた彼の耳元でこそこそと囁く。
 これこそ聞かれたらまた噂になって駆け巡りそうだ。

「わたしのファーストキスの相手は、小学一年生の御幸一也です」
「はあ!? そんなわけねーだろ」
「お兄ちゃんの拳骨のせいで記憶飛んじゃったのかな? でも本当だよ。映画の帰り。うちのお母さんなら憶えてると思うけど」
「完吾兄ちゃんのげんこ、……げんこつ、げんこつ……」

 一也の表情が見る見るうちに蒼褪めていく。
 やがて思い出したのか、彼は口元を手で覆って真っ赤になるとずるずるその場にへたり込んだ。昨日の保健室では照れもせずに二回もキスしてきたくせに、幼少期の一件は恥ずかしいらしい。よくわからない人だ。

「や……やっべー……」
「思い出した?」
「思い出した、めちゃくちゃ痛かった……俺、完吾兄ちゃんに殺される……」

 中学生の時点で小学生に対してあの容赦のない拳骨だからなぁ。
 大人になった今、高校生の一也に対して拳骨程度で済むかどうか……。遠い目になって微笑むと、どうもいい感じの笑みだったようで、周りのクラスメイトたちが頬を赤くしながら目を逸らしていく。ちょっと面白い。

 子どもの頃とは違って男女の違いが顕著になった今、わたしと一也の関係も僅かずつ変化してきている。きっとこれから先、成長していくにつれてもどんどん変わっていくのだろう。
 いつまでもこの二人のままでいられるとは、お互いに思ってはいない。
 だけど、それでも。
 一也がわたしにキスをする理由が、ここに至ってもなお「英が泣いていたから」であることに、ちょっとだけ安堵するのだった。

 願わくは少しでも長く、あなたとこの距離で生きていきたい。
 血のつながった家族じゃない、ただの幼なじみではない、だけど恋人同士なんかじゃない。わたしとあなただけに許されたこの距離で、生きていきたい。

21.5 噂のファーストキスについて