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浅田くん視点のおはなし



 浅田浩文は困っていた。
 午前は少し汗ばむほどの陽気だったというのに、昼休みから急に陽が翳り、五限から雨がぱらつきはじめ、六限が終わった現在、本降りになってしまっている。
 天気予報を見なかったわけではないが、朝練直後は雨の気配もない晴天だったため、うっかり傘を持参するのを忘れてしまった。こんなときに限って日直で、こんなときに限って仲のいい部員は通りかからない。
 この雨では午後練はないだろうけれど、正式にそう通達があったわけではないから、いつまでも生徒玄関で雨宿りをしているわけにもいかなかった。
 多少濡れても仕方がないかなぁ、と視線を曇天から前方に戻したところで、玄関の脇にぽつんと立ち尽くす女子生徒がいることに気がついた。

「高嶺せんぱい……」

 彼女は紺色に白い花柄の大人びた傘を差したまま、何をするでもなくぼうっとしている。
 浅田の洩らした声が聞こえたのか、静かな動作でこちらに視線を向けた。大きな双眸に見つめられて、一瞬どきりとする。

 三年女子マネージャー三人組のうち、『高嶺の花子さん』という、ひょうきんなんだか真面目なんだかよく解らない通り名を持つその人。
 入学したばかりの一年生からは、畏怖と憧れを込めて「高嶺先輩」と呼ばれている。浅田は先輩をそんなあだ名で呼んでいいのかと震えたものだけれど、三年生も二年生も「高嶺」「高嶺先輩」と呼んでいるし彼女も返事をしてくれるので構わないらしい。

「浅田くん。お疲れさま」
「あっ、お、お疲れさまです……」
「傘は?」

 両手が空いている浅田に気づいて、彼女はこてりと首を傾げた。

「忘れてしまいました……。朝は晴れていたものですから」
「ふふ、そうだね。お天気だったもんねぇ」

 練習中の張り詰めた横顔の印象ばかりが強い浅田は、まだ校内で彼女に出会ったときの、この柔らかく穏和な表情にどぎまぎしてしまう。
 まだ中学生らしさの残るクラスメイトとは違った、大人な雰囲気が、どちらかというと人見知りな浅田にはちょっとこわい。

「入っていく?」

 彼女はなんともないような声音で傘を傾けた。
 とんでもない申し出にビャッと肩を跳ねさせる。

「そ、そそそそんな畏れ多いことできません」
「マネージャーとしてはねぇ、部員が雨に濡れるのを黙って見ていられないんですけどね」
「だだだだ大丈夫です! だって、高嶺先輩こそ、誰かを待っていたとかではないんですか?」
「そういうわけではないよ。なんとなく、雨の音を聴いてただけだよ」

 あ、雨の音?
 黙っていれば勝手に地面を叩く音が聞こえてくるはずだけれど、わざわざそれに聴き入っていたというのだろうか。頭の上にはてなを浮かべる浅田に構わず、彼女はにこりと笑った。

「何やってんだ、浅田……」

 そのとき、生徒玄関に倉持が姿を現した。
 寮で同室の倉持はどこか怠そうな表情で浅田と彼女を見やり、お前か、とつぶやいた。傘立てから透明のビニール傘を取り出し、柄の部分で彼女の背中を小突く。
 この二人の仲のよさは、入学してまだ二ヶ月の浅田もよくよく知っている。二人揃うと安心感があるほどだ。

「ちょうどよかった、倉持。わたしと相合傘したいでしょ?」
「したくねーよいきなり何だ」
「したいよね?」
「ハア?」

 突然押しが強くなった彼女に思いっきり顔を歪めて、倉持はこちらを向いた。「コイツ何言ってんだ」と訊かれたが、浅田に訊かれても困る。
 困りきって「僕に訊かないでください」と勢いよく首を左右に振る浅田を見て、頭のてっぺんから爪先までもう一度じっくり見て、倉持は「あー」と溜め息をついた。「そういうことか」ど、どういうことですか。

「相合傘したくなったような気がしないでもねぇな」
「だよね。さ、行こ」
「つーことで浅田は荷物持ちな。差してこいよ」
「え、えっ!?」
「じゃあな」

 流れるように倉持からビニール傘を押しつけられる。
 彼は迷いなく彼女の紺色の傘の下に入り、せめぇ、と悪態をつきながら持ち手を預かった。当然のようにやや傾いていた傘は、彼女が「こら」と柄の角度を直したことで真っ直ぐになる。

 な、なんだったんだ……。
 高校三年生ともなれば、異性と相合傘するのも、あんなに肩が近いのも、全然気にならなくなるものなんだろうか?
 いや何年経っても自分には無理だ。
 倉持先輩ってやっぱりすごい。
 高嶺先輩は、意外と言動に突拍子がなくて、やっぱりなんとなくこわい。顔立ちが整っているゆえに、何を考えているのか読めないのが余計に。浅田の人生で最も謎多き人物といっても過言ではないかもしれない。


「……ハッ、ていうかもしかして僕、傘を貸された!?」


 一人困惑する浅田が、先輩二人の謎の茶番の真相に辿り着いた頃には、紺の傘は校門をとっくに通り過ぎていた。


***


過去拍手御礼文でした。三年生6月のお話です。
リクエスト企画で奥村世代関係をいくつか頂いたことがあり、そのときは書けなかったので、浅田くんにしてみました。浅田くん好きです。奥村くんたちも書いてみたいです。