あたしが目を覚ましたのは藍染の反乱から二日後、戦いの傷跡もまだ生々しく残る、夕焼けの頃のことだった。
「あとり」と呼ぶ声にいらえて瞼を開けると、ちょっと目元の赤い檜佐木が憮然とした表情で「よう」と頬を抓ってきたのだ。起き抜けのぼんやりとした頭で、こいつ泣いたのかな、いやそれとも寝不足かな、と考えていると、彼は大きな溜め息をつく。

「二十七回目だ」
「……?」
「名前を呼ぶこと二十七回目。もうちょっと早く起きてくんねーかなお前」
「……はは、ごめん」

 掠れた声で笑う。
 卯ノ花隊長を始めとする四番隊の面々のおかげで傷はほとんど癒えているらしく、一連の戦いによる負傷者のうち、目を覚ましたのはあたしが最後だということだった。
 不安定になっていた霊圧も元通りになり、確かにつけていたはずの耳環は外されて枕元に置かれている。



終 あたしたちはそれを




 卯ノ花隊長の診察を受けて、身体と霊圧の回復具合には問題がないお墨つきを頂き、ただし前回「無茶するな」と荻堂に云われた直後のこの瀕死の重傷だったのであと数日の入院が義務づけられた。
 あたしの目が覚めたことを聞いた銀爾くんが泣きながら突撃しにきて荻堂と一戦交えたり、一角と弓親が冷やかしに来たり、副隊長が金平糖を差し入れに来たりと、賑やかな入院生活を送っている。あたしが双極の丘に駆けつけた時血塗れになっていた恋次くんや旅禍の少年も無事退院、藍染に斬られて重態だった日番谷隊長も動ける程度には回復したという。

 雛森さんの意識はまだ戻っていない。
 それでも時間をかけて少しずつ、瀞霊廷は日常を取り戻していった。

 藍染の鬼道を受けた顔の右半分は、腹部を優先したため治療が遅れ、もともと視力が底を尽きかけていた右眼は失明の診断を受けている。
 聞きつけた阿近さんが呆れ顔でお見舞いに来て、「バッチリ義眼作ってやんよ」と寸法やら何やら測って帰っていった。まともな義眼が作られることを祈るばかりである。


 そんなある日、病室をおずおずと訪れたのはルキアだった。

「失礼致します、あとりさん」

 死神と虚の境界を超越する超物質〈崩玉〉。
 作り手である浦原喜助によってルキアの魂魄に隠されたそれを、双極解放を利用して取り出すことが藍染の目的であったらしい。ルキアの現世での虚退治から始まる一連の流れは、目を覚ましたあとに病室を見舞ってくれた一番隊の雀部副隊長から聞かされていたが、済んでみるとなかなか実感の湧かない話だった。

「ルキア、もう調子はいいの?」
「はい。〈崩玉〉を取り出された……ということもあって暫らくは検査があるようですが、私自身には特に異変はありません」

 当事者のルキアにも何が何だかわからないところがあるようで、首を傾げながら苦笑いをしている。
 持参してくれたお見舞いの花を花瓶に活けながら、ルキアが窓を開けた。

「これ、兄様からです」
「………………なんて?」
「兄様からです。朽木家の庭に咲いていたお花で、緋真様が生前大切に育てておられたそうですよ」

 見覚えのある花だった。
 あたしがまだ真央霊術院六回生だった頃、現世の実習で眞城を失い、紅鳳の夢を見なくなり、四番隊にお世話になっていた日々、当時の朽木白哉三席が届けてくれていたという花だ。気を抜けば眞城を目の前で死なせた記憶が蘇っていたあの時、唯一気を紛らわせてくれたものだった。

 だから、朽木白哉という人が困ることがあろうものなら、いつか全力で助けに行こうと――心に誓っていた。

「そうか、……緋真様が」

 計算してみれば、確かにあの頃まだふたりは結婚生活を送っていた時宜だ。
 朽木隊長というよりも、奥方様の気遣いだったのかもしれない。

「あとりさん。……緋真様は、私の、姉だったそうなのです」
「…………」
「兄様は、緋真様の遺言のため私を捜し、見つけて、朽木家に迎え入れてくださった」
「……そう」
「気づいていらっしゃったのですか?」

 首を振る。

「確信はなかったよ。でも、さすがに朽木隊長が緋真様を深く愛していらっしゃったとしても、ただ顔が似ているというだけでルキアを迎え入れたというのは、むしろ彼自身が傷つくだけのような気がしていたから――なにか事情があるのだろうとは思っていた」

 鉄面皮の奥で、色々なことを考えていたのだろう。
 席官入りを遠ざけたり身を挺してルキアを守ったり、何だかんだと過保護なところもあるように見えたから、これから少しずつ時間をかけて兄妹の仲を修復していってくれたらいい。
「また来ますね」と微笑んだルキアの表情は、どこかすっきりしていた。


 藍染の反乱から一週間が経ち、旅禍の少年少女が現世へと出立する準備が整った。
 退院したその日に黒崎と言葉を交わしたし、入院中に井上さんは何度かお見舞いに来てくれたので、見送りに行かない更木隊長の代わりに双極の丘へ向かうことにする。

「あっ、あとりさん」
「井上さんこんにちは。お見舞いに来てくれて有難うね」
「いえ! あたしこそ色々お世話になりました!」

 勢いよく頭を下げた彼女の顔を上げさせて、短い別れの挨拶を交わした。
 旅禍の中にいた黒猫姿の夜一さんにも「丘では有難うございました」とお礼を告げると、「早く白哉坊に瞬歩で勝てるようになれよ」と返された。あたしの特技が瞬歩と鬼道であることを誰かから聞いたらしい。
 褐色の肌をした巨躯の少年が無言でじっと見下ろしてくる。
 侵入したばかりの頃に一戦交えた旅禍の少年だ。

「強かったねぇ、きみは」
「……怪我は……」
「もうとっくの昔に治ったよ。きみにやられた十一番隊の隊士も全員死んでいない」
「……茶渡泰虎」

 さどやすとら。
 日本人離れした容姿だが、不思議と彼にしっくりくる、優しい響きの名前であった。

「あたしは澤村あとり。……茶渡くん。さようなら」


 ルキアを救出するために遥々世界の境界まで越えてやってきた彼らは、尸魂界に残るルキアの見送りを受けて、穿界門をくぐっていった。

 ルキアは彼らの後ろ姿をいつまでも見送っている。
 やがて見送りに来た隊長たちが少しずつ解散していき、浮竹隊長しかいなくなって、黒崎たち全員の姿が見えなくなって随分と時間が経った後もまだ――


 浮竹隊長と視線を交わして、ルキアの背中に近づき細い肩を抱く。

「いい友人をたくさん得たね」
「……あとりさん」

 そういえば、彼女が現世の駐在任務から帰ってきた時は、重罪がどうの拘禁がどうのとあたしも混乱していたから、まだ云っていなかった。

「おかえりなさい。ルキア」
「……はい」

 ほんの少し寂しげな表情を浮かべていたルキアは目元を細めて、口角を緩める。

「ただいま戻りました。あとりさん」



 四番隊に入院していた隊士も大半が退院し、十一番隊は旅禍侵入にまつわる建造物損壊状況の調査書や始末書や報告書など諸々の問題を山積みにしたまま、侵入前の賑やかさを取り戻している。
 隊長はいつも通り道場で隊士をしごき、副隊長は金平糖を頬いっぱいに突っ込み、一角たちは相変わらずやかましい。

「隊長」
「ア?」

 定時間際、あたしや銀爾くんのまとめた調査書をしち面倒くさそうに眺めていた隊長が生返事を寄越す。

「あたしがよその隊に行ったら寂しいですか?」
「口ウルセェのがいなくなって清々すらぁ」
「そうですか」

 ややあって動きを止めた隊長が、自分の文机の中身を整理しているあたしに視線を向けてきた。
 その視線を受けてゆっくりと口を開く。

「総隊長命令で」
「は?」
「籍は十一番隊第三席に置いたままではありますが、隊長不在の三番隊の業務補佐のため、一時的に三番隊副隊長補佐官として臨時に配属を受けました」
「…………どうすんだよ」

 十一番隊の仕事は、という意味かな。

「引き継ぎは銀爾くんにしてあります。調査は大体済みましたから、あとは隊士それぞれ始末書や報告書を仕上げるだけ。解らないことがあれば三番隊に来てくれたらあたしいますから」

 東仙要の抜けた九番隊は、比較的経験豊かな檜佐木がしっかりと隊長代理を務めている。時間を見つけてはあたしの見舞いに来てくれていた彼だが、本当は隊長がいなくなって相当大変なはずだった。七・八番隊の助けもあってどうにかなっているらしい。

 問題は三番隊と五番隊。
 雛森さんは藍染に斬られたあと意識が戻っていない。五番隊の業務は日番谷隊長が全面的に引き継ぎ、十三番隊が少しずつサポートすることとなっている。
 三番隊のイヅルくんは怪我こそしていないものの牢から脱走したり精神的に落ち込んでいたりする身、隠密機動を抱える二番隊と救護詰所の管理を預かる四番隊では補佐をするにも難しい。そこで臨時配属としてあたしに白羽の矢が立ったのだった。

 そんなようなことを説明すると、「ほー」と隊長はまた生返事に戻る。

「……帰ってくんだろ」
「まあ、正式に三番隊々長が決まれば」
「ならいい。勝手にしろ」

 飽きたのか、書類をばさーっと投げ出した隊長に「もう」と文句を零しつつ、暫らくは世話を焼くこともできない彼の後始末をしていく。投げられた書類を拾って整えて机に置くと、荷物を抱えて歩き出した。

 次期三番隊々長に、あたしが就任する可能性も十分にあって、そうなると十一番隊には戻ってこられないのだが――それは云わないでおいた。
 治ったはずの右手首がちりちりと痛む。
 あの時、卍解しようとしたあたしを止めた彼の人の斬魄刀。放っておけば確実に危ない領域まで首を突っ込むところまできていたあたしの推察を、介入を止めるように、始末ではなく拘束した彼の人の笑顔。
 意識を失うあたしを抱き留めた不器用な手つき。


「あかんよ。あとりちゃん」

「――お大事にしや」


 解らないことだらけだ。


 それでもあたしたちは歩みを止めることは赦されない。
 その道が血に塗れていても。地面が見えないほどの死体に覆い尽くされていても。いずれ別たれるとしても、鎖されるとしても。


 この痛みを運命と呼び、いつか刃を向け合う日が来ても。



「それでは、行って参ります」

 仮にも暫らくの別れだというのに、隊長は無言でしっしと手を振る。
 全く、……あたしは犬か。

 いつも通りのふてぶてしい態度にちょっと笑いながら、十一番隊を出た。



<了>


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