ルビーのしもべ・前篇



 小さい頃、不審者に絡まれたことがある。
 はす向かいのおうちに住むかずくんと公園でキャッチボールをしていて、遠くに転がったボールを取りに行った拍子に体を触られたらしい。
 そのときの詳細はもう忘れてしまった。頭の中身はもういい歳した大人なので、「マジかこんな不審者がご近所にいるなんて大問題じゃないか!」と考えながらギャアギャア叫んだような気がする。
 男は後日捕まったそうだ。

 それ以降、母はわたしの髪を男の子みたいに短く切るようになってしまった。
 呑気なわたしは月日とともに事件のことを忘れこけ、空手を始めた理由は記憶の彼方、母が短髪を強いる理由もサッパリ理解できていなかった。中学に上がって過保護が加速したかずくんからその話を持ち出さなければ、多分忘れたままだったと思う。


 鏡のなかの『天乃英』を見つめた。
 瞬きをすると長い睫毛が音をたてる。父親と母親のいいとこばっかりもらって生まれてきたような容姿だ。

 ヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばした髪に指を通す。
 ショートヘアにしたがる母を、「かずくんも長いの好きだって!」なんて恥ずかしい理由で説得した結果勝ち取ったロングヘア。

 品のよいグレーのジャケットと、同色に赤いラインが入ったタータンチェックのスカート。膝上ミニにするのはちょっと抵抗があったので膝頭が少し見える程度にしておいた。
 薄いピンクのシャツにえんじのネクタイ。
 靴下は紺色。膝と足首のちょうど真ん中くらいの丈。
 玄関にはダークモカのローファーが待っている。

「うーん、可愛い」
「え……なに自分に見惚れてんの、あんた」
「おや、お母さん」

 和室の姿見で制服姿をまじまじ眺めていたわたしを、母が呆れた様子で眺めている。

「制服、可愛いなぁって思って。やっぱここにして正解だったね」
「……ま、あんたが満足してるならいいわよ。みんなしてちょっと口出しすぎたかなって思ったけど」
「お母さんなんて全然でしょ。かずくんだよ、一番うるさかったの」
「そんな言い方したらかずくん泣くわよ。……ほら早く出ないと電車くるんじゃない」
「あらほんと。行ってきます!」

 これから向かうのは、家から自転車で十五分のところにある女子高──ではなく。

 自宅の最寄り駅からJRと地下鉄を乗り継いで一時間半で到着する西国分寺駅、そこから徒歩十分ほどのところにある青道高校──を越えてさらに十分のところにある、青道野球部専用グラウンドだ。

 今日は土曜日。
 青道高校の野球部グラウンドで練習試合が行われるのだ。





 ──追いかけてくるなよ
 ──英はここにいてくれ


 大切な宝物を閉じ込めておくかのようにお願いされたのは、もう二年半も前のことになる。
 約束通り、わたしは家から一番近い女子高に進学した。
 同じ中学の友人も多くそこに進学すること、偏差値も通学時間も丁度良かったことが主な理由だが、かずくんと兄から「電車通学は絶対ダメ」「バス通学もできたら避けて」などと滅茶苦茶な条件を出されたから、というのも大きい。

 家を出て、最寄り駅に着いて、電車を乗り継ぎ、駅からまた歩く。
 片道二時間近くかかるのだ。青道高校は、三年間を通学するにはあまりにも遠い。
 かずくんに内緒で青道のオープンスクールに参加した際にも感じたことだった。改めて彼との距離を痛感しながら、グラウンドへの道を辿る。

 練習試合はすでに始まっていた。
 対戦校の攻撃の最中で、かずくんはキャッチャースボックスに悠然と構えている。

 投手は背格好からして多分三年生の川上くんだ。内外野は春の選抜のときとあまり変わらない面子。けれどベンチには見覚えのない顔もあるから、一年生が入っているのだろう。そういえば春大はあとから追加登録していたっけ。
 見学席にはたくさんのOBさんが陣取っている。
 その中にちらほらと青道の女子制服も見えて、彼女たちの口々に「降谷くん」「御幸くん」といった名が挙がっているのが聞こえた。

「御幸くん最近、表情柔らかくなったよねー」
「わかる! ちょっと話しかけやすくなった」

 ……クラスメイトなのかな。
 いいな、同い年。
 わたしもかずくんと同い年だったら、無謀な勇気を出して、一緒に青道行きたいって言えたかもしれない。「追いかけてくるな」じゃなくて、「甲子園、一緒に行こう」って言ってくれたかもしれない。

 心の隅っこに燻ぶったそんな思いを慌ててぱたぱたと振り払う。
 ありもしないたらればを考えたって仕方がないのだから。

 すると丁度そのとき、攻守交代でベンチへ戻っていくかずくんに見つかった。

 マスクを上げてこちらを凝視している。クラスメイトの女の子たちはざわっと色めき立って、「あれ誰見てるんだと思う?」「知り合いでもいたのかな」と辺りを見回した。
 かずくんは盛大に顔を顰めている。
 ……あれは多分怒ってる顔だな。



 第一試合が終わってお昼休憩に入ると、かずくんは真っ直ぐこっちに向かってやってきた。
 昼はお弁当を外で食べるらしい。神宮で会った夏川さんや吉川さんが、お弁当の入った段ボールを台車で運んでいるのが見えた。
 ちなみに試合は快勝、かずくんは三打点の活躍。

「──なんでいんだよ!!」

 で、開口一番これである。
 かずくんのツンはたまに訪れるものなので、あんまり気にせずにこっと笑った。

「制服のお披露目にきました。パンフレットで見てたより可愛いよね。気に入っちゃった」
「あのなぁ……」

 スカートの裾を摘まんでぴらっと広げて見せると、かずくんは口の端を引き攣らせながらわたしの頭を掴んでぐわんぐわんと揺らす。
 あれ、ちょっと想像と違う反応だなぁ。
 大体かずくんが「制服可愛いし家から近いし、いんじゃね」とか言ったから決定したようなものなのに。

「……一人で来たのかよ」
「当たり前でしょ。電車くらい一人で乗れます」
「そうじゃなくて……もうお前早く帰れ」
「なんで。午後の試合も観たい」
「いーから!」

 すると、先程まで試合をしていた部員たちがわらわらと近寄ってきた。
 そういえば前回は神宮大会の試合を観戦したから、レギュラーの人たちとは面識がないのだ。選抜ももちろん現地に行ったけどさすがに声はかけられなかったし、春大もかずくんに内緒で観戦していたからお話はしていない。
 ただ、選抜中継の録画は見たから、顔と名前は一致する。一番嬉しそうに駆け寄ってきたのは、よくかずくんとの話題にも上る倉持くんと沢村くんだ。

 おお、主役級の登場人物たち、本物だ。
 わたしがそう考えているのと同じように、彼らも目を丸くして感心している。

「もしかして『御幸が故郷に残してきた女』か!? なんだよ可愛いじゃねぇかムカつくな」
「おー、これが噂の! 本物ですか!?」

 かずくん、まだそんな誤解を受けているのか。
 解いても解いてもきりがないんだろうな。この年頃の男の子って、そういうネタで友達をいじるのが好きなんだろうし。
 とりあえず、ぺこりと頭を下げてご挨拶しておくことにした。

「天乃英といいます。いつも一也くんがお世話になっております」

 ずずいと顔を覗かせたのは、坊主頭に関西弁の前園くんと、その後ろに必殺仕事人の白州くん。

「神宮も選抜も観戦に来てくれたんやろ? やっと顔が見れたなー!」
「夏川が実物見たぞってものすごい自慢してたしな」
「……地元の幼なじみだよ」

 何もかも面倒くさい、というような表情になったかずくんは斜め上空を仰ぎながらそれだけ訂正することにしたらしい。
 するとそわそわと様子を見守っていた川上くんが話しかけてくれた。

「こんにちはー、三年の川上です。その制服どうしたの、学校だったの?」
「いえ。かずくんに『制服可愛いからこの学校にしろ』って言われて受験したので、制服姿を見せにきました」
「おまっ、余計なこと言うな!!」
「むぐ」

 慌てたかずくんに後ろから口を塞がれたが時すでに遅し。
「御幸お前アカンで……」「束縛はよくないぞ……」「嫌われますよキャップ……」といじりモードに入った部員たちの楽しそうな顔が目に入る。下手なことを言えないかずくんはぐぬぬと悔しそうに黙りこんだ。……なんかごめん。

 口元を覆う手から土のにおいがする。
 そっと見上げると、薄っすら汗をかいた顎が目に入った。一人で突っ走っていないかな、仲間と衝突していないかななんて心配していたけど、とんだ杞憂だったみたいだ。

 かずくんは青道高校の野球部で、主将を務めて、みんなと一緒に一つの道を歩んでいる。


 ……いいな。


「制服は十分見た。つーか兄ちゃんから入学式の写真も回ってきてるよ。いいからお前もう帰れ!」
「やだよ、せっかく二時間かけて来たんだから午後も観るってば」
「気が散るから帰れって言ってんの!」

 びくりと肩が強張った。
 彼の声音に本気の拒絶を感じ取ったからだ。

 かずくん自身も語気が荒くなった自覚はあるのだろう、ばつが悪そうな顔になって目を逸らす。周りの部員たちが呆気に取られた様子で注目しているのに気づくと、さらに苛立たしげな仕草で頭を掻いた。


 なるほど、なるほど。
 わたしだって子どもじゃない(一応かずくんより年下だけど)。ちょっと虫の居所が悪かっただけで、滅多に会えない彼とけんかするなんて馬鹿げている。ここは年上(中身の話)らしく、ごめんねってニッコリ笑って、大人しく退散──

 できるかっ!!


「意味わかんない。なに急に怒ってんの」

「おおっ」「反撃に出た」と意外そうなどよめきが起きた。

「わたしが一人で出かけたのがそんなに気に入らないの? それとも試合を見にきたこと? 去年の秋大も神宮も全部一人で見に来たし、なんなら黙ってたけど春の都大会だって観戦したんだからね。それとも何、青道に来たのが駄目だったの? わたしが来た程度で気が散るようなメンタルなら鍛え直したほうがいいんじゃない!」
「かわいくねー! 心配してんだろーが、お前が目を離したらすぐフラフラして変な男引っかけてくっから! そもそもその制服からして超お嬢さま学校で有名なのに今日だって見学席でどんだけ注目集めてたかわかってねーのかよ!」
「この制服が可愛いって言ったのかずくんでしょぉ!?」
「だからだろうが!!」
「ますます意味が解らないんですけど! 帰れって言うならわたしにも納得できるような理由をきちんと述べてもらえます? 八つ当たりされて黙ってられるような可愛げのある性格じゃないもんで!!」

「あーっ、御幸ィ、ストップやストップ!」
「よーしお前らちょっと落ち着けー」

 かずくんの肩を前園くんが、わたしの肩を倉持くんがそれぞれ掴むと、べりっと音を立てて引き剥がす。
 物理的に距離を取ったことで口論は止んだが、わたしたちはお互い黙って睨み合ったままバチバチと火花を散らした。他の部員たちが遠巻きに眺めてくるのが視界に入る。

「ゾノそのまま御幸連れて行って昼飯食わせてこい、俺もすぐ行く」
「せやな、そうしようや御幸! いやー俺らも大騒ぎして悪かったな」
「そうですねキャップ、ホラ腹が減ってはなんとやらですよ……!」

 慌てた様子でかずくんの背中を押しながらレギュラー陣が遠ざかっていった。
 みんなのあの狼狽っぷり。もしかしたらかずくんは、学校や部活ではあんまり怒鳴ったりしないのかもしれない。

 わたしの顔を、気遣わしげな表情の倉持くんが覗きこんでくる。


ルビーのしもべ・後篇



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