花の島


 八月の晴天を映し出す海の波の音が遠くで響き、花の神を讃える声が白の石畳に反射して島中に響いていた。歌いながら通りをかけていく子供達は麦わら帽子をかぶり、それは今朝咲いたばかりの色とりどりの花で飾られている。どの子も皆、爪ほどの小さな花びらを散らす不思議な風車を持っていた。
 この日は、アルカンナ島を護っているという花の神様の祝祭日。そして、ベンチに一人で、帽子を膝に乗せ、俯きがちに風車を吹いている少年が島を出る日でもあった。
「シャルル、こんなところにいた」
 少女の声に少年、シャルルは顔を上げた。彼の蜂蜜色の髪が風を受けてふわりと揺れた。
「リリ」
「……今日、出るんだよね」
 また下を向いて頷いたシャルルは、帽子につけていた黄色い花を引き抜いた。リリが隣に腰を下ろすと、手にした花を彼女の帽子にさした。
「父さんの母校なんだって。僕に行くようにって、父さんが」
 シャルルが泣きそうになりながらいうと、余計に悲しい気分になった。この幼馴染ともしばらく会えなくなるし、学校の友達にも、大好きなこの島にも長い間のさよならを言わなければいけない。
「お母さんは?」
 控えめに聞いてきたリリに情けない顔を向けないようにと、風車から勝手に出てくる花びらを見つめた。
「もう本土にいるんだ」
「じゃあ、会えるようになるね。……お母さん、きっとすぐ元気になるよ。中央病院はすごいんだって、お兄ちゃんが言ってた」
「うん。そうだね」
 相槌を打つだけで一向に動く気配のないシャルルを見て、リリは立ち上がって手を差し伸べる。もう風車ばかり見ているなというように。
 ここでずっと座っていてはいけないことを、シャルルは本当は知っている。リリが来たのも、先生に言われて自分を探しに来ているのだということを、彼は感じていた。
「わかってるんでしょ」
 ベンチに風車をさして、シャルルはリリの手を取った。幼馴染のように強ければよかったと思ったが、強かったところで自分の思うようにできるわけではないのだと、シャルルは泣きそうな顔をもう隠さずに、苦しげに笑った。
「リリも一緒ならいいのに」
「……そうだったらよかったな」

 この地球上には、広く普及している地図には載らない、魔法文化圏と呼ばれる地域が隠れている。この中央に存在するニウェスアールという大陸にはミラトア王国がある。王国領の南の海に浮かぶアルカンナ島。
 島の中心部とも言える場所には、マルガリア教会学校が建てられている。シャルルとリリはそこに通っていた。十二歳の誕生日までにどこの学校へ行くかということが決まるが、島にいる子供たちはほとんど全員と言っていいほど教会学校に通っている。小さな島から王国の本土の学校へ行く子供は毎年片手に収まるほどの数しかいないし、全くいない年も珍しくない。彼らは特別な理由で王国本土の学校へ行っているらしい、と噂だけが流れている。十四歳のシャルルは三年生に上がったところだった。
 シャルルがリリと一緒に帰ってくると、教会学校の門に立っていた先生が安心したように笑顔を見せた。
「あちらの先生がもうお見えになるから、それまでに荷物を確認しておきなさい。リリ、連れてきてくれてありがとう」
 それを伝えると、慌ただしく先生は校舎へと走っていった。きっと転校に必要な資料などがあるんだろう。そう考えながら、シャルルはリリと一緒に教室へと向かった。祝祭日だから生徒は誰もいない静かな学校に、二人の足音だけが大きく鳴る。
「嵩張りそうな荷物は先に送ってるんだ。だからスーツケースとリュックだけ、今朝ここに持ってきたの」
 置かれた少ない荷物に向けられたリリの不思議そうな顔を見て、シャルルは尋ねられる前に説明した。もう昨晩何度も持ち物確認をしたから、きちんと閉まっていることだけを見て、近くにあった椅子を引いて座った。リリもそれにならって隣の席に座る。
「おうちは?」
「おじいちゃんが居るから大丈夫だよ。祭りの準備のあとこっちに来てくれるって」
「そっか」
 話す言葉をなくしたリリは、帽子を脱いで、シャルルがくれた黄色の花に触れた。シャルルは次の休暇までは帰ってくることができない。今まで一緒に遊び、学んできた幼馴染が、遠くへ行ってしまう。
「絶対に連絡するからね」
 シャルルがそう言ってリリは笑顔になった。本当に会えなくなるわけではないのだ。
「たくさん向こうのことおしえて。そしたらシャルルのこと、みんなに自慢するから」
「もちろん」
 本土はどんな所だろうかと、噂話や想像を互いに話していると、先程と同じように忙しそうに先生が走ってくる音が聞こえる。
「行かなくちゃね」
「わたしもお見送りする」
「ありがとう、リリ」
 立ち上がった二人が扉の前に行くと、勢いよく来た先生が目を丸くして、子供たちは声を出して笑った。シャルルがはじめてこの日笑った。

 先生に連れられ、学校の裏にある噴水広場に来た。いつもはたくさんの子供たちが遊んでいるここも、お祭りのある教会の方に人が吸い取られている。シャルルはてっきり港から船で出るものだと思っていたので、広場で何をするのかと不安でならない。
 ガランとして水だけが溜まっているその前に、一人の大人が立っていた。今朝学校の花壇に咲いていた朝顔のような、薄青がかった灰色の髪を、きっちりと後ろに流してまとめている。顔のしわは多いが、背はしゃんと伸びていて、ボタンをきちっと留めた黒いジャケットの胸元には、いくらかのバッヂが付けられていた。装飾の控えめなステッキを腕にひっかけている。シャルルはいつかの父と同じようなその人の出で立ちに、少し興味が湧いた。父のことを知っている人かもしれない。
 シャルルたちに気づくと、その人は手にした小さな箱のようなものから目を上げた。
「お待たせしました。連れて参りました。ラナクスの先生ですよ、ほら」
 先生がそう言ってシャルルの背中を押した。
「こ、こんにちは」
 つんのめりそうになりながら、シャルルが挨拶をすると、厳格そうな見た目と裏腹に優しそうな声が返ってきた。
「こんにちは。君がシャルル・リーヴスだね」
「はい」
 恐る恐る顔を上げると、微笑みを返されて握手を求められる。
「アルフレッド・ディケンズです。私のことはディケンズ先生と呼んでください。ラナクス研究院と学園で教授をしています」
 手を離すと、シャルルは気になっていた事を尋ねるでもなく呟いた。
「研究院……じゃあ、父さんのこと」
 小さな言葉を聞き取ったディケンズ先生は、ああ、と目尻を下げて答える。
「もちろん、レイモンドのことは良く知っているよ。だがその話は後で。今は、おじいさまに挨拶をしてきなさい」
 そう言われてはっと振り向くと、教会の方から走ってくる祖父が居た。祭りの手伝いを途中で抜けてきたようで、花びらを頭に付けたままだった。
「いやぁ、すまんな、思いのほか、長引いてな。ふう」
 シャルルは祖父が一息つくのを待って口を開いた。
「おじいちゃん。ありがとう」
 何を言えばいいものかと、昨晩から悩んでいたが、あまりに多くのことが溢れ出てくるので、ありふれたことしか言えなかった。学費のことや書類の手配、何から何まで、母が病院を移り、シャルルの転校が決まってから、祖父が自分の代わりにしてくれたことがたくさんある。言葉の代わりに出てきそうになる涙を堪えるために、シャルルは拳を握りしめた。
「シャルルはええ子だ、どこへ行っても大丈夫。家のことは心配するな。な?」
 祖父はいつも「シャルルはいい子。大丈夫だ」と伝えてくれる、とても優しくて頼りになる家族だった。シャルルが一人になっても頑張ろうとしている姿を見守ってくれているのだ。頷いた孫の頭を花の色が移った手のひらで、一つ、ぽんと撫でた。
「ミニョンも、お前の母さんも、わしのように思うはずだ。母さんの様子、じいちゃんに教えてくれな?」
「うん。電話するし、手紙も送るよ」
「それでこそ、わしの孫だ。お、そうだそうだ。お前に渡そうと思ってたもんがあってな……」
 祖父は羽織ったベストのポケットに手を突っ込んで、デイジーを象った銀の小さなピンバッジを取り出した。シャルルの手のひらに乗せると、銀色が白に色を変え始めた。
「マルガリア様のお守りだ。むかーし、おばあちゃんがくれたんだがな、わしにはちっと可愛すぎる」
「ありがとう。大事にするよ」
 ピンバッジをシャツの襟に付けると、どこか温かくなるような気がした。何らかの魔力が宿っているのだろう、懐かしいおばあちゃんの手を思い出した。
 シャルルはお別れに祖父にハグをした。そうして、同じようにリリにも向き直る。
「元気でね。シャルル」
「リリも、元気で」
 これまで気丈に振る舞っていたリリの頬にも、幼馴染との別れに涙が流れていく。シャルルはそれを拭って優しくハグをすると、静かに待っていたディケンズ先生へと振り返った。先生同士で話し合っている様子は背後に感じていたが、それはすでに終わっていたようだった。
「もう、大丈夫かな?」
 ディケンズ先生の手元には、小箱の代わりに教会学校の先生が渡したらしきファイルがあった。自分の成績なんかが書かれているに違いない、とどこか冷静にシャルルは考えていた。
「はい。大丈夫です」
 しっかりとした返事を聞いて頷くと、ディケンズ先生は姿勢を正す。
「それでは行きましょうか。トランクをきちんと握っていなさい。流されるかもしれないからね」
 シャルルは言われたように持ち手をしっかりと掴んだ。流されるかも、とはどういうことだろうか、とまた不安になりディケンズ先生を見た。
 彼はトランクとシャルルの肩をステッキで軽く触れると、最後に噴水の下に溜まっている水面にステッキを掲げる。その一番上は鳥の羽のような装飾がされていることに気がついた。シャルルがそう思ったところで、水面から雫がいくらも跳ね上がってくる。小さな球だったものがいくつも連なって、まるで波のようになるとシャルルの頭上へ覆い被さるように大きくなった。怖くなって振り向くと、祖父もリリも心配そうな顔をしていた。
 ディケンズ先生は残されるアルカンナの人々に深くお辞儀をすると、ステッキで彼自身の胸元にひかるエメラルドのバッジに触れた。
「アルカンナ島に天の加護がありますよう」
 その言葉とともに、さらに大きくなった波がシャルルを飲み込んだ。思わず目を瞑って息を止めた。シャルルの耳には鈴のような音色が聞こえてくる。アルカンナを囲う海の波とは違う音だった。
 煌びやかな音が急に消えて静かになり、シャルルはそうっと瞼を開いた。教会学校の噴水広場ではない。背の高い木々が、ひんやりとした風に緑の葉を揺らしている。濡れたと思ったけれど、波に飲み込まれる前と何ら変わりがなかった。半袖の腕を撫でていく風が少し寒い。
「ふむ。転移は久しぶりだったが、大成功だな。半分は君の魔力のおかげかな」
 声に驚くとディケンズ先生が満足げな顔でシャルルの隣に立っている。その向こうに、大きな建物が見えた。見たこともない光景にシャルルは震えた。この景色だけではない。この土地自体が持っている空気に、四方八方から見つめられているような気がしたのだ。
「ここは……?」
「ラナクス学園。これから君が通う学校だ」
 つまり今の一瞬で、アルカンナ島から本土の学校まで移動してきたということなのか。シャルルは目を丸くして再度辺りを見回した。写真で見たような林が広がっていて、アルカンナよりも数度低いだろう気温。教科書で学んだミラトア王国本土の北部の気候だ。空は澄んでいて、まだ八月なのに秋のようだ。
「先日送ってきた荷物は一旦、仮の部屋に入れてある。トランクもそこへ持っていこう。それから少しやらなければいけないことがある」

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