患ったもの



 暗い階段を歩いていた。登っているのか、降りているのかもわからないで、シャルルはただ足を動かし続けていた。足元はおぼつかない。そもそも踏みしめている感覚すらもない。
「シャルル」
 彼を呼ぶ、柔らかな声が暗闇から彼を抱きしめる。父のような、母のような、優しい声だった。
「僕はどこへ行けばいいの」
 つぶやいた彼に応えるように、足元を照らす星々が暗闇に現れた。歩きづつけていると、丸い月がシャルルの目の前に見えた。次第に大きく、近づいていく。


「やっと目が覚めた。二日ぶりだね、シャルル」
 カーテンを開けて窓辺から振り向いたヴィンスがほっとしたようにつぶやいた。シャルルは自分が寮の自室、ベッドの上に横たわっていることに気がついた。体にかけられたブランケットを退けて起き上がる。手に巻かれていたはずの包帯は無くなっていて、すっかり元通りの様子のヴィンスが椅子を引いて、シャルルのベッドサイドへ寄る。
「ファン先生が連れてきてくれたんだ。体、大丈夫かい?」
「なんともないけど……僕、倒れてたの? 二日も寝てた?」
「そうだね。厳密にいうと、途中までは先生に支えられて歩いていた。一昨日の昼にあったあの騒ぎの後、君だけ随分具合悪そうだったけど、本当に今も大丈夫なのか? その前も変な匂いがするとか言ってたけど」
「そうだ! あの子、あの子はどうなったの」
 シャルルが蒼白な顔でヴィンスに向き直る。落ち着かせるようにヴィンスがシャルルの肩を撫でてゆっくりと冷静にこたえる。
「被害に遭ってた生徒か? 先生たちは病院に連れて行ったと言っていたよ。その後どうなったかはわからないが、きっと回復しているんじゃないかな」
「そんな、そんなはずない……だって、あの子、もう息が」
「え?」
 人より耳がいい。人より目がいい。人より鼻がきく。誰にも言わず隠してきたシャルルの厄介な特技だった。あの事件があった現場に漂っていたのは、これまで嗅いだことのない異様な臭いで、羽音に混じっていた人の声ともつかない呻き声だった。監督生たちが斬り倒した化け物の黒い残骸を被って倒れていたのは、指一つ、胸部も動かない生徒の体だったと、彼は理解したくなくとも、わかってしまったのだった。
「シャルル、深呼吸して。大丈夫だ」
 ヴィンスがシャルルの隣に腰掛け、背中を撫でる。浅い呼吸を繰り返していたシャルルは促されるまま、息をゆっくりと吸って、震えながら吐き出した。
「そうだ、もう一回。……ディケンズ先生を呼んでくる。水、飲んでおきなよ。そこに入れてあるから」
 シャルルの肩を優しく、安心させるように叩いて、ヴィンスが部屋を出ていった。足音は高く、速く遠ざかった。
 寮監がシャルルたちの自室に来た時、配慮からかヴィンスは「ウィルに呼ばれた」と言って同席せずに、校舎の方へと向かった。ディケンズ先生はシャルルの話を聞いて、頷いて唸ったかと思えば、深く考え込むように黙った。口を開いたかと思えば、躊躇いながら「これを君に話して酷だとは思うが」と前置きをした。シャルルはその続きを覚悟をしつつそれに頷く。ディケンズ先生の深刻そうな声が低く続けた。
「あの生徒は、息を引き取ったので間違いない。虚国で作られた魔法道具を謝って所持していたのが原因だそうだ。このことは学生たちにはまだ公表していないから、リーヴス、君もすまないが少しの間、黙っていてくれるか? 公安の調査が済んでからになる」
 シャルルはまた頷いた。虚国で作られたものがどうしてこちらに流入するのだろうか。あの黒い蝶の化け物はなんだったのだろうかと考えたが、これ以上は教えてくれないような気がして、シャルルは聞くのを止した。
「それから一度、君も検査を受けたほうがいいかもしれない」
「……検査?」
「ああ、いやそんなに心配するほどのものではなくてな。あの事件現場で倒れたのは君だけだった。もしかしたら、君はある種類の魔術に対して所謂アレルギーのようなものがあるかもしれないと思ってね。強力な魔術や、魔法道具によっては体質に合わないような人間もたまにいるんだ」
「アレルギー、ですか」
「今後の授業では、特にシエロはたくさんの道具を使うことになる。もし不耐性のない魔術があると、リーヴス自身の勉強に支障が出ることになるから、先生たちで君が困らないように調整することができるんだ」
 何もなければ、それはそれで安心して学園で過ごせるだろうし、ディケンズ先生の言うように病院で検査をしてもらうべきなんだろう、とシャルルは頷いた。


 週末、王立病院へ母の見舞いに行くつもりであったので、そのついでにシャルルは自分自身の検査もすることにした。三年生以下の生徒は学園の外に一人で行くことはできないので、学園の先生がついていくことになった。ちょうど病院に行く予定のある、文学言語科教授のサミュエル先生がシャルルの引率担当となった。
 ディケンズ先生から言伝られて、朝早くに北の図書館塔の一階へ向かった。結局まだ一度も図書館の中には入ってないため、シャルルは残念な気持ちになりながら、図書館を利用する熱心な生徒たちが行き来する様子を眺めていた。言われた時間の十分前に来たために手持ち無沙汰で、ただぼんやりと立っていた。
 黒いコートを着た先生が青いクラシセントのネクタイをした上級生と何か話しながら二階から降りてきた。上級生の手には紙束があり、先生が何か分厚い本を手渡していた。
「今回は本当に読みにくかったので助かりました。歌の理解が深まります」
「あの劇場もなかなか変な台本を使うよね。俺の持っている本が君の仕事に役立ちそうでよかった……おっと、君がリーヴスかな?」
 話していた黒いコートの先生はシャルルを見て立ち止まった。突然声をかけられて驚いていたシャルルが頷くと、「今日は病院」と先生は上級生に苦笑で伝える。
「じゃあ、私は失礼しますね。ありがとうございました」
 上級生は桜色の髪を揺らして先生に軽くお辞儀をすると、シャルルにも軽く微笑んでから図書館の扉を押して入っていった。彼女を見送ると、先生がシャルルに片手を出して握手をする。ひんやりとした手のひらが、知らず知らずに固まっていたシャルルの緊張をほぐす。
「待たせてすまないね。サミュエルです。ディケンズ先生から聞いていると思うけれど、私が引率して一緒に病院へ行きます」
「今日はお願いします」
 シャルルはサミュエル先生について図書館塔から出た。リブラール寮の横を通り過ぎて学園の北西の門へ向かっていると、先生がふと思い出したようにシャルルに尋ねる。
「君は今年来た転入生でしたね?」
「はい。アルカンナ島から来ました」
「なら中央病院も初めてでしょう。そこまで遠くない場所にあるから行き方を覚えておくといい。来年からは一人でも行けるようになるからね」
 学園の広大な敷地をぐるりと取り囲む石垣を初めてみる。大人でさえ乗り越えることはできないだろうと言う高さで、灰色の石は頑丈そうであった。大きな門のところには大きな刀を腰に差した門番が立っていて、シャルルたちに敬礼をした。サミュエル先生が言うには、学園の敷地の出入りには許可証が必要で、生徒だけで外出する場合には教員のサインの入った許可証を門番に見せなければいけないそうだ。今回は先生が引率者なのでシャルルは許可証が必要なかった。先生たちは教職員の証明書を持っているらしく、それを掲示するだけで良いようだ。
 学園の外に出ると進行方向に大きな建物がいくつか見えた。石畳の道が続いていき、三叉路で標識に気がつく。サミュエル先生が大きな建物を指差してシャルルに説明してくれた。
「ここを道なりにずっとまっすぐ行くとラナクス研究院です。私やディケンズ先生はあそこでも働いている。それから、右に曲がって行くと司法庁と駅がある。駅にはロゼア行きの列車が来るから、上の学年の生徒たちは週末によく遊びに行っているね。私たちが今から行く中央王立病院は左に曲がった道の先にあります」
 白い花と針葉樹が道の両側を几帳面に並んで、病院へと彼らを導く。


 中央病院は噂に聞くだけあり、アルカンナ島の病院とは比較にならないほどの規模だ。学園と同程度の敷地に、幾つもの病棟が立っている。敷地の門を入ったところに案内表示が立っており、いくつかの区画に分かれているようだ。どれが何を示しているのかはシャルルにはよくわからなかったが、今回シャルルの用がある「診部」と「特部」だけはわかった。シャルルの母親は「特部・第三棟」に入院している。おそらくは病状が「特殊」だからではないか、と彼は推測している。シャルルは迷子にならないようにサミュエル先生についていき、自身の検査のために「診部・第一棟」と看板の立っている建物へ向かった。
 診部は外来の検診を受け付けている建物なのだろう。人の出入りが他の病棟よりも多いような気がしたし、処方箋らしきものを持って、別の病棟へと向かっていく人の姿も見受けられる。流石に建物内で迷うことはないだろうと言うことで、自身の定期検診があるというサミュエル先生に終わったらこの病棟の入り口で待ち合わせることになった。
「リーヴス、推薦状はもってきたかな?」
 サミュエル先生に言われて、シャルルは封筒を取り出す。医務室の先生が検査のためにと書いてくれたもので、これを受付に渡せばいいそうだ。
「はい、これです」
「よろしい。ではこれをあそこの受付に渡してきて、それから番号札をもらうと思うので、呼ばれるまで待っていなさい。あとは病院の方の指示に従うといい」
「わかりました。……ええと、先生は?」
「私は五階で受付が違う。あとは大丈夫だね? 少し……私の方の時間が迫っている」
「大丈夫、だと思います」
「では、後で」
 黒いコートを翻して、サミュエル先生は足早に立ち去る。あの先生も定期検診をしなければいけないような不調があるのだろうか。そうは見えない若々しさなのに、と思いながらシャルルは待合ロビーに立ち尽くしていたが、松葉杖をついた人が目の前を通っていき我にかえる。途端に一人になって緊張感がまた出てきた。握りしめていた封筒を持って、シャルルは受付に足を向けた。
 検査は緊張するものでも心配するものでもなかったのが結論だ。採血しなければならなかったことだけが唯一緊張したことだが、それ以外に関しては非常に簡単で呆気ないものだった。
「全くもって異常なし。推薦状に書いてあったような魔術に対するアレルギーもなし。リーヴスくんは至って健康そのものですね」
 検査を担当してくれた医師が診断簿を見ながら微笑んでいったので、シャルルは大きく安堵のため息をついた。何もなくてよかった、と安堵して診断書を貰い、シャルルは診断室を出た。しかし、それであればどうして自分はあの事件の後倒れてしまったのだろう。詳細を伏せて医師に聞いてもみたが、環境が変わった疲労だろうと言われて片付けられてしまった。シャルルにはそうは思えなかったが、これ以上自分が考えてもどうしようもないと、なるべくこのことを考えないようにしようと決めた。
 週末ではあるが、来た時よりも外来の患者も少し増えている。中央病院ともあれば、休日など無いに等しいものなのだろうな、とシャルルはさまざまな患者や、職員が出入りするのを見て、両親のことを考えた。父レイモンドは医療に携わっていて研究院に所属していたが、中央病院で働くこともあったのだろうか。聞いたのかもしれないが、自分が小さかったから何も覚えていない。軍医として働くようになってもきっと病院とは密接に関わっていたに違いない。母は一人でこの大きな病院にいて淋しくはないだろうか。通話をすることもできないから、島を出てからのことが、担当医から送られてくる手紙以外何もわからない。病状は悪くはなっていないらしく、緩やかな回復傾向にあるそうだが、顔を見なければ母の様子などシャルルには何もわからないと同然だ。自分のことはもう終わったし、早く母の見舞いへ行きたい。
 シャルルが病棟を出て数分後サミュエル先生も検診を終えて出てきた。手にはシャルルがもらったような診断書と別の封筒をコートのポケットに入れて声をかける。
「どうだったかな?」
「何もなかったみたいです」
「それは何より。心配事がなくなってよかったね」
 サミュエル先生はシャルルの肩を軽く叩き、それから腕時計をチラリと確認した。
「特部は面会時間が決まっているが、何か言われていないか?」
「えっと、昼の三時まで、とだけ言われています」
「おや、かなりゆとりがあるな。ご家族に早く会いたいだろうし、急ぎましょうか」

 特部棟は少し奥まったところにあった。先ほどまでいた病棟区画とは違い、患者よりも職員の方が多いように見えたし、そもそも人の出入りが他のところと比べると極端に少なく、シャルルはなぜか不安になった。サミュエル先生がいうには少々注意しなければいけない病棟だそうだ。
「第三棟は酷いとは聞かないが、特部に来る患者の中には少し他の人に対して攻撃的な人もいるそうですよ。入院患者に面会ができる病棟はそういった人はいないそうだから、それほど心配するものではないけれど、一応ね」
 病棟の重たいガラスの扉を押して入ると非常に静かだった。待合ロビーには人がおらず、受付の職員が仕事をしている物音だけがしていた。それにしても病院について先生はやけに詳しいんだな、と思っているのがシャルルの顔に出ていたようで、サミュエル先生は苦笑して後付ける。
「実はね、特部ではないが、学生の頃に私もここに入院してたことがある。有る事無い事、噂話を色々と聞いたんですよ。……さて、私は待合ロビーで待っていますよ。気にせず、ゆっくりご家族に会って来るといい」
 ひらりと手を振ってロビーの椅子に腰掛けるサミュエル先生と別れて、シャルルは再び一人で受付の職員に声をかける。二度目であっても緊張する。
「す、すみません。入院している母の見舞いに来たんですが」
 受付の職員はシャルルの声に帳簿から顔を上げ、ペンと別の帳簿を取り出し、業務的な淡々とした声で尋ねる。
「入院されているご家族のお名前は?」
「ミニョン・リーヴスです」
 名前を聞いてから職員はペラペラと帳簿をめくり、何かをペンで書き込んでから、シャルルにまた向き直る。
「五階、十四号室です。こちらをお持ちください。面会は十五時までです。お帰りの際はお声がけいただかなくて構いません」
 無表情な職員に渡されたのは、母の名前と病室の番号、今日の日付、面会時間の書かれた紙だった。
「ありがとうございます」
 シャルルは軽くお辞儀してから、エレベーターを探し、壁の案内表示に従って廊下を進んでいく。外光に照らされた白く明るい屋内にはシャルルの足音だけが反響している。一階にはどうやら病室はないらしく、診察室を出入りする人も見られないため不気味さすら感じられた。エレベーターで五階まで上がるとようやく人が見えた。看護師らしき職員が数人、作業をしており話声が聞こえて少し安心した。シャルルに気がついた職員が作業の手を止めて、にこやかに声をかける。
「どちらの方にお見舞いですか?」
「リーヴスです」
 先ほどシャルルが受付でもらった紙を見せると、頷いて十四号室のある方向を指差した。軽く頭を下げてから早足に向かう。十四、番号の下に「ミニョン・リーヴス」と小さく印字された母の名前があることを確認して、シャルルは控えめに扉を叩いて、開ける。
 十四号室は南側の日当たりの良い向きの個室だった。ベッドに座って本を捲る母の耳にはイヤーマフがされていて、シャルルが扉を開けたことに気づいていないようだった。
「ママ?」
 少し大きな声を出して呼ぶと、ゆっくりと顔をあげてシャルルの方を向いた。息子の姿に目を見開いてから、すぐに耳を覆っていたものを頭から退け、開いたままの本の上に載せた。
「シャルル、来てくれたのね」
「うん。具合はどう?」
「ずいぶん良くなってると思う。こちらにいらっしゃい」
 手招いてベッドサイドに置かれたスツールを指し示す。シャルルがそこへ座ると、幾分か痩せた手でシャルルの頬を撫でる。
「シャルルは元気そうね。学園はどう? ここまで一人できたの?」
「先生が一緒に来てくれたよ。アルカンナとは全然違うし、たくさん勉強することがあって大変だけど、面白いよ」
「そう。あまり無理しすぎないようにね。あなたはパパによく似てがんばりやさんだから」
「……僕のことはいいよ」
「息子のことは気になるのよ。突然入院して心配かけてごめんね」
「僕は大丈夫。おじいちゃんもいたし、こっちでも友達できたから」
 息子の声を聞いて頷く母は、満足そうにシャルルの頭を撫でる。シャルルと同じ鮮やかな緑色の瞳の下には、眠れていないのだろうか、疲れが見えていた。
「入院している間、退屈?」
「そうねえ、退屈。横になっているか、本を読むか、お医者さんと看護師さんが見にくるかだから」
「何か欲しいものがあれば、僕が次お見舞いに来る時に持ってくるよ」
「ありがとう。通信機が使えればいいけれど、シャルルも持っていないし、私も持ち込みできないから連絡もろくに取れないし」
「じゃあ、手紙は? 魔力を使わなければ大丈夫かな」
「今度お医者さんに聞いてみるね」
 母と話していると扉を叩く音が聞こえて振り向く。扉を開けたのは先ほどの職員で、銀色のトレーを持っていた。
「リーヴスさん、お薬の時間ですよ」
 はいはい、と母は渡される薬を慣れた様子で口に放り込む。形の違う錠剤を三つ一気に水で流し込むのを心配げに見ていたシャルルに気づいて、母は微笑んだ。
「あなたが薬を飲むわけじゃないのにそんな顔しないの。これが効くってお医者さんが言ってるから大丈夫」
「……わかってるよ」
 シャルルは薬を飲むのが苦手で、小さい頃に風邪をひいた時母に飲みたくないと泣きながら訴えていたことを思い出して苦笑いする。母からコップを受け取った看護師はやり取りを聞いて「リーヴスさんのお子さんですか?」と尋ねる。
「ええ、息子のシャルルよ」
 母が自慢げに言うので、看護師に対してシャルルは軽く会釈する。
「じゃあ、お子さんのためにも早く元気になりたいですね。今日はちゃんと寝ましょうね」
「努力するわ」
 溜め息まじりの母の返答に頷いて、看護師は「では失礼します」と病室を出ていった。やはり母の不眠は治っていないのだろうな、とシャルルは母の手を握る。
「ママ、僕のこと心配しないで大丈夫だから、自分のこと一番にしてね。ちゃんとお医者さんの言うこと聞いてね」
「本当に優しい子ね……早く治してシャルルとおじいちゃんを安心させてあげないといけない」
 それから、しばらく母と話していたが、先生をあまり長く待たせてはいけないから、と言った母に半ば追い出される形でシャルルは病室を後にすることになった。近いうちにまた来る、と告げて病室の扉を閉める時まで母はシャルルの顔を見て手を振っていた。
 学園に帰ってから、祖父に母の様子を連絡しようと思いながら廊下を歩いていく途中で、談話室から聞こえてくる患者たちの話し声に足を止めた。
「……南の部屋ってこたぁ、兄さん、あれかい、魔物にやられた口か」
「ああ、本当に最悪だよ。戦争が終わって十年以上経ってるが、この通り、まだ入院してる」
「質のわりぃ魔法しか使わねぇからなぁ、あいつらは。俺の同級生もそれで大変だったって聞いたな」
「最近また虚国からの侵入が増えてきてるって噂だからな。公安や軍なんかで働くもんじゃない」
「沿岸部は特にひどいそうじゃないか。この間も公安の警備範囲で女の子が行方不明って……」
 南の部屋は母と同じ。鼓動が早くなるのを感じて、エレベーターの方へと逃げるようにその場を離れた。魔物の被害者がそこに当てがわれるのか? 母の病状は虚国から来た奴らのせいということなのか? まだ魔物はこちらへやってくるのか? あの日死んでしまった生徒のように母がなってしまうのか? 父は沿岸の警備について行ったのか? サミュエル先生と合流して、学園に帰る道すがらも、入院患者たちが話していたことに対して、シャルルは悩まずにはいられなかった。



 外出後の疲れに日曜日もほとんどを寝て過ごしたシャルルだが、月曜日にはすっかり倒れる前の状態に戻っていた。気がかりなことはあれど、授業を休む口実にすらならない。先週の事件や病院でのことに悩む暇もなく、勉強は山積みであった。午前の自習の時間で休んでいた分の内容をヴィンスから教えてもらい、なんとか出されていた宿題も終え、一息ついたのもつかの間、初めての天文学の授業に向かう前に、シャルルは未知の名前が並ぶリストを前に困惑していた。シエロの能力を持つ学生の必修授業のうちの一つであるが、どうやら占星術で扱う道具も必要だそうだ。

天文学(三年生) 持ち物
全生徒必携:『天文学入門』(一・二年で使っているものと同様)、筆記具
シエロの生徒:ペンデュラム。ステッキ・リング等も申請があれば可とする。形状は問わないが鉱物が少なくとも一種類使われたもの。(占星術でも使うため常に携帯するのが望ましい)
シエロ以外の生徒:携帯望遠鏡(撮影機能のない物)

 机の上に先日届いたばかりの新品の教科書と持参の筆記用具は準備できているが、シエロの生徒が用意すべき道具はまだない、というより、たった今必要だと知った。
「教科書は届いているんだけど、道具がなくって、どうしたらいいんだろう」
「君はこっちにきてから能力検査したから用意がないよな。僕のを一緒に使えばいいさ」
「ありがとう、ごめんね……」
「どうってことないさ。先生も理解しているだろうし、道具を貸してくれるかもしれない」
 申し訳なく思いながらヴィンスと一緒に学園の東塔へと向かった。この塔はほとんどシエロの学生しか来ないらしく静かだった。初めてシャルルが学園に来た時に荷物が置かれていた準備室はこの塔の一階にあった。その隣の階段を前に、ヴィンスが「覚悟したほうがいいよ」というのでシャルルは首を捻る。
「天文学は五階、最上階だ」
「五階……!」
 規模が大きいが古い建造物である学園には当然エレベーターなどはなく、階段を使って上階へと登っていく。二階は神話学の教室と資料室があり上級生が数名ドアの前で談笑していた。三階には再び準備室と特殊魔術の教室、四階が占星術、そしてようやく辿り着いた五階は開放的で、扉もなく階段を登ったらすぐ教室であった。教室というより、天体観測所といったほうが正しい。一番に目につくのは教室の中央に置かれた大きな望遠鏡。周囲にはさまざまな大きさと種類の天球儀や象限儀といった古い天体観測用の道具が置かれており、移動式の黒板や机は隅に追いやられている。
「す、すごい、ね」
 息を切らしながらシャルルが言うが、すでに息を整えていたヴィンスは持っていた教科書などを机に置いて肩をすくめる。
「これでも小規模なほうだよ。望遠鏡は寮にあるものと同じモデルの改良版だけど、二十年前のものらしいからあんまり綺麗には見えない」
「寮にもあるんだったね。ヴィンスはどうやって使うのかわかるの?」
「ああ。基本的な使い方なら」
 二人が話していると、階段を登る足音が聞こえて、シャルルは先生が来たのかと振り返ったが違っていた。黒い髪のネクタイを締めていない生徒。肩で息をしながら、気怠そうに目にかかる前髪を掻き上げたのは、ついこの前火事を起こしたあの生徒だった。確か、名前はロイ。見られていることに気がついたロイは、眉間に皺を寄せたが何も言わず、シャルルとヴィンスから離れた席に座る。なんとなく気まずさを感じて、シャルルはヴィンスと話すのをやめて教科書を見ておこうかと、『天文学入門』に手を伸ばしたところで、授業開始のチャイムが響く。それが鳴り止むと同時に、突如目の前に現れたディケンズ先生に驚いてシャルルが飛び跳ねる。ことん、と歯車が重なった何かが床に落ちる。
「少し遅れましたかね?」
 ディケンズ先生は杖を持っていない方の手で落ちた歯車の道具を拾って教卓に置いた。おそらく転移装置の類だろうが、先生がそれを使って教室に来るとはシャルルは思いもしなかった。
「時間ぴったりです」
 ヴィンスが淡々と答える。どうやら驚いているのはシャルルだけのようで、なんとなく恥ずかしい気がしつつ姿勢を正す。
「グレイ、リーヴス、ソンと全員揃っていますね。天文学は選択の人気がありませんねえ……」
 黒板を動かしながらディケンズ先生がぼやく。口ぶりから、必修のシエロの生徒はこの学年は三人ぽっちと言うことになる。つまり、ロイもシエロの能力を持っていることで、シャルルは他寮にも同じ能力を持つ学生がいることに驚いた。ほぼ確実にシエロはステルクス寮に入るという話を聞かされていたが、その特例が彼なのだろうか。ロイは能力が混合しているミデンだと別の授業で噂されていたのをシャルルは思い出した。
「選択者がいないと寂しいですが、望遠鏡を使う手間が省けるのでその点は嬉しいところです。さて、三人とも道具は持ってきていますね?」
 ヴィンスはチェーンの先に手のひらほどの大きさの青い石がついたものをポケットから取り出して机の上に置いた。先日の火事の際に見たものと同じだった。ちらりとロイの方を見てみると、彼は面倒臭そうに右手をひらひらと揺らす。赤紫に見える石が埋め込まれた指輪が親指に嵌められているのがわかった。
「……先生、僕、まだありません」
 おずおずとシャルルが挙手をすると、ディケンズ先生は思い出したようにステッキをふる。何もないところから小さな木箱が現れて、それはシャルルの教科書の上に着地した。
「渡し忘れていましたね。能力測定の後で注文したので、リーヴスの魔力に適していると思います。代金は教材費でもらっているため心配しなくてもよろしい。それを開けながら説明を聞いてください」
「ありがとうございます」
 ディケンズ先生はチョークで黒板に文字を書きながら教科書の二十六ページを開くように言い、二年生までの授業のまとめを説明し出した。
「この地球が存在する太陽系の復習から。基本事項なので太陽系の惑星ついては王国領内であれば初等学校でも学んでいるはずですね。各惑星の衛星については、地球の衛星である月を代表に……」
 教科書のページをめくってから、渡された箱に手をつける。軽い木製の箱は金具で止められていて、それを外し蓋を開けると取扱説明書のようなものが一番上に乗せられていた。「ペンデュラム:エメラルド・プラチナフレームB」と一番上に書かれれている。細かく書かれた手入れの方法は後で読むことにして、黒いベルベットに包まれたペンデュラムを取り出す。細いチェーンの先には、深い緑に輝くエメラルドが菱形にカットされ、楕円状のプラチナのフレームがエメラルドの周りを囲っている。デザインはヴィンスが持っているものと非常に似ており、埋め込まれた石と周囲を囲っている金属細工が少し違っているくらいだ。初めて手にするペンデュラムはシャルルの魔力に呼応して、彼の瞳と同じ色の石の輝きが強まる。シャルルはそれを大事に握りしめて、ディケンズ先生が進めていく解説に耳を傾けた。
 
 


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リリ、元気にしてる?
 こっちはずいぶん寒くなってきたけど、アルカンナはまだ暖かいよね。僕はやっと学園に慣れてきたよ。おじいちゃんから何か聞いているかもしれないけど、母さんの病気は良くなっているみたいなんだ。
 学園での勉強は驚くことばかりだよ。教会学校で習ったことと同じものもあるけど、違うことの方が多くて大変だけど楽しいよ。学園と中央病院以外の場所にはまだ行ったことがないけど、どこもアルカンナとは全然違う。写真で見ただけの場所に自分がいるって変な感じだよ。たくさん書きたいけど書ききれないから、今度帰った時に話すね。
 魔力が道具を使うだけのものじゃないって初めて知った。リリは知ってた? 魔力には種類があって、僕は珍しい「シエロ」っていう能力なんだって。遠くの星とか月が綺麗に見えるのは楽しいよ。まだ慣れてないけど、同じ能力を持ってる友達が色々と教えてくれるし、上級生も先生もとてもいい人ばかりだ。この間も能力別の授業で筋がいいって言われたんだけど、やっぱりまだよくわからないよ。リリはどんな種類の魔力なんだろうって考えてみたけど、いつも僕のことを元気づけてくれるし、癒しの能力って言われてる「サナティオ」かもしれないなあ。
 楽しいこともいっぱいあるけど、時々アルカンナに帰りたくなる。こっちにきて一ヶ月くらいだけど、いろんなことが起きた。生徒の代表みたいな、評議員ってものに選ばれたんだけど、僕はそんなに頭がいいわけでもないし、リリみたいに他の子たちを引っ張っていける自信もないから、なんで僕が選ばれたのか不思議だよ。それに魔物の話もたまに噂で聞くんだ。アルカンナでは全然聞かなかったから、少し怖いよね。
 大変なこともあるけど、僕はなんとかこっちでも頑張るよ。色々書いたけど、あんまり僕のことは心配しないでね。学園の購買で見つけたリリが好きな色のきれいな栞を入れたから、使ってくれると嬉しいな。
 お返事待ってます。またね
シャルル














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