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  執務を終えた荀ケが足早に向かう先は、郭嘉の私室だった。陳羣から、「郭嘉殿の最近の酒癖といったら先日はついに宿酔で軍議に遅れてくる始末。軍議に支障が出ては、周りに示しがつかぬのみならず主公の今後にも関わりましょう。私が何度酒を控えるように申し上げましても全く改める気はないようで。ですが荀ケ殿のお言葉ならば彼も聞く耳を持つかと。」と切なげに訴えられれば、見過ごせはしなかった。郭嘉の近頃の素行については荀ケも大いに良しとしているわけではなかったが、主君である曹操があまり気に留めていなかったことや、郭嘉がまだあの若さで激務をこなしていることを考慮し、大目に見ていた。しかしながら、たしかに陳羣の言う通り、郭嘉の業務が疎かになることは、軍の命運に関わる事態かもしれない。曹操の臣下として捨て置けることではない。
 そして、荀ケにとってはそれだけのことではなかった。曹操の身に何かあれば、郭嘉はきっとひどく気に病むことだろう。あの男は人一倍繊細なのだから。彼の苦しむ姿は、なるべく見たくないものだった。
 目的の室の前に着き、一呼吸置く。これから人を叱りつけに行くというのに、どうしても頬が緩んでしまいそうになる。郭嘉とは旧知の仲だ。先達としてこのように叱責せねばならないこともあるが、荀ケにとって郭嘉はやはり他の仲間達よりも何か違う存在であった。近頃は互いに忙しく、二人で語らうことも少なくなっていたため、語り合いたいことなど山ほどある。しかし、まずは伝えるべきことを伝えなくてはなるまい。荀ケはようやく唇を引き結び、奉孝、と呼びかける。返事は無い。もう一度呼びかけようと息を吸ったとき、室の扉が開く。
「文若殿。どうしました。」
 部屋の主は言いながら顔を覗かせる。彼からは案の定酒の匂いがした。
「あなたに話があって来ました。」
「たのしい話ならお通ししましょう。」
「残念ながらそうではないです。通さなくても良いですが、ここで話は聞いてもらいますよ。」
「文若殿、後ろ!」
 郭嘉が驚愕しながら廊の暗がりを指差すと、荀ケも何事かと後ろを振り向く。その隙に、郭嘉は大きな音を立てて室の扉を閉めた。
「奉孝…!」
 錠をされたか、と思い、力一杯扉を押すが、その予想に反する扉の軽さに、よろめきながら室に入った。郭嘉はその様子を見て、可笑しそうに口もとをおさえていた。この男は、はじめから自分を室に通す気がないわけではなかったのだ。
「あのような計略にかかるとは、文若殿もまだまだですな。」
「何が計略だ…。」
 まったく、と呆れながらもその悪戯を叱りはしない荀ケに、郭嘉は嬉しそうに犬歯をちらつかせて笑う。箪笥の傍から客人用の座布団を出すと、荀ケに座るよう促し、自分もその隣に座り、杯にトボトボと酒を注ぐ。吃逆を一つした後、一口でそれを飲み干した。
「奉孝、酒はほどほどになさい。軍議に支障が出ては、主公の今後にも関わるのですよ。」
「そんなお小言なら毎日聞いておりますよ。さては文若殿、長文殿に言われて来たのか。あのお方、俺には鬼みたいな顔して怒るくせに、文若殿の前ではいい子ぶって。」
 郭嘉にとっては、酒癖を注意されたことより、荀ケに告げ口されたことの方が問題であるらしい。
「長文も、あなたが気に入らなくて言っているわけではないのです。」
「いや、あのお方は俺を嫌っておいでですよ。それで、話はそれだけです?」
 棘のある言い方をする。どうあっても聞く気はないらしい。こうなってはもう仕方ない。彼は飄々としているようでなかなか頑固な男であることはよく知っていた。どうしたものかと困り果ている荀ケを見て、郭嘉もさすがに、わかりました、とゆっくり頷く。
「そうですね、ほどほどに…仕事に差し障りがないようにはしますよ。こうして来てくださったんだ。文若殿の顔も立てねばなりませんからね。それに、主公にご迷惑をかけるわけにはいきませんし。」
 不服そうではあるものの、話を聞き入れたようだ。
「しかし今日くらいは許してくださいよ。明日は軍議もないことですし。ね、まだ帰る気はないのでしょう?どうです、一杯…。」
 郭嘉は濡れた目を輝かせる。頬が紅い。もうだいぶ酔っているようだ。
「私が酒を飲まないことは知っているでしょう。それに、あなたもそれ以上はやめた方が良さそうです。」
「残念ですなあ。」
 そう言いながらも、彼の顔は残念がってはいなかった。なぜか変に楽しそうな顔で杯に酒を注ぐと、それを口いっぱいに含んだ。
 言ったそばからまた、とたしなめようと開いた荀ケの唇に郭嘉の唇が重なる。
 あまりのことに荀ケは目を見開き、郭嘉の胸元を手で押すが、片手で後頭を、もう片手で顎をしっかりと押さえられ、逃れることは出来なかった。頭を後屈させられると、唇に舌がねじ込まれる。そうしてこじ開けられた荀ケの口内には、郭嘉が口に含んだ酒が注ぎ込まれる。荀ケは、反射的に数回飲み込んだが、当然そのすべてを受け止められはせず、口の端からそれは漏れ出し、首を伝って衿を濡らした。
 郭嘉から解放され、息を吸って吐いてを繰り返すうちに、酒のせいか、喉から額にかけてじんわりと熱くなるのがわかる。鼓動が、嫌に早い。
「ほら、一杯くらい飲めるじゃないですか。」
「奉孝、悪酔いするにも程があるっ…!」
「おや、顔が真っ赤だ。接吻が効きましたかな。」
 接吻まがいのことをした自覚はあるのか。たちが悪い。荀ケは濡れた唇を拳で拭う。
「…私でなかったらこんなこと、許されませんよ。」
 火照った額を手のひらで抑えながら荀ケは言う。相当酒が弱いと見えるが、その熱い息は酒のせいだけではないだろう。郭嘉と唇を重ね合わせたことばかりが脳裏に強く焼きついていた。この男は、酒を飲むと誰彼構わずこのようなことをするのだろうか。荀ケはそれを恐れた。自分のように郭嘉をよく理解している人間ばかりではないのだ。並の人間ならば当然郭嘉に対して嫌悪感を持つだろう。いや、荀ケが本当に恐れているのは、もしその誰かが郭嘉に嫌悪感を抱かなかった場合のことなのかもしれない。
「どうです。今日はここで泊まって行っては。その様子じゃあ一人で歩けないでしょう。」
「…いえ、結構。私も久しぶりにあなたと二人で語らいたいと思っていましたが…それはあなたが素面の時に。」
「なぜです?接吻以上のことをされそうで恐ろしいですか?いやそれとも、それ以上を期待している自分を認めたくないとか。」
「…前者です。」
 荀ケは立ち上がり、早々に立ち去ろうとするが、郭嘉の言う通り、一歩踏み出したところで体はふらつき、郭嘉が後ろから抱き支える。郭嘉の舌が耳の裏を這い、荀ケは総毛立つ。
「ああ、相変わらずいい香りだ。」
 郭嘉は荀ケの肩に腕を回し、首元に顔を埋める。
「奉孝…いい加減に…。」
 のしかかる体がさらにずしりと重くなり、ぴくりとも動かなくなる。不思議に思い、荀ケが後ろを振り向くと、郭嘉は荀ケに腕を絡ませたまま眠っているようだった。
 やはり、だいぶ酔いが回っているようだ。近頃は働き詰めで、疲れも出たのだろう。郭嘉は昔から人より多くのことに気が回り、思い悩みやすく、そのせいか、疲れやすい子だった。荀ケはふらつく体で郭嘉を寝台に寝かせる。
 目を閉じて静かに息を立てる郭嘉を見て、その昔、眠りたくないと駄々をこねる郭嘉をなんとか寝かしつけていたことを思い出した。家が近かったこともあり、郭嘉が荀ケに勉学を教わりに来ることは珍しくなく、熱心に夜更までいることもあったのだ。
 寒くないよう、顎まで布団を掛け、幼い郭嘉にしていたように頭をふわりと撫でる。今ではその姿も態度も風格も、生意気に、いや、立派になったものだ。気を抜けば、圧倒されてしまいそうなほど。圧倒されても構わないと、思ってしまいそうなほど。
 (期待している自分を認めたくない、か。その眼で私の心まで見通すつもりなのか、奉孝。…私も少し頭を冷やさねばなるまい。)
「おやすみなさ…いっ!?」
 郭嘉の髪から離そうとする手を引かれ、荀ケの体は郭嘉に覆い被さる。慌てて上半身を起こし、郭嘉の顔を見下ろすと、先程まで閉じられていた上瞼がそろりと持ち上げられる。
「…懐かしいですね。そのようにされると、余計に離れがたくなる。」
「狸寝入りか。また、悪戯ばかり…。」
「ふふふ、そろそろ悪戯では済まなくなるかも?」
 郭嘉は布団を退け、手を伸ばし、荀ケの頬を撫でる。自分の頬が熱いのか、郭嘉の指が冷たいのか、その指先の冷感が荀ケにとっては妙に心地良かった。
「逃げないんですか。」
 その問いは、荀ケ自身も己に問いたかったものだった。先程のように郭嘉の腕に囚われているわけではないのに。体が動かないのは何故なのだろう。今逃げなければ、このまま、越えてはならない線を、越えることになるだろう。こんなことは、いけないのだ。しかし、荀ケの体は、それを拒んではいなかった。なぜかこんなときに、郭嘉の色素の薄い瞳に、ぼんやりと自分の影が映るのを見ていた。
「ああ、逃げないんですね。」
 郭嘉は、目尻を下げ、幸福を噛み締めるように笑う。
(なんだ、その顔は。まるで私が愛しいとでも言うようではないか。)
 初めて見る郭嘉の表情に、荀ケの胸は強く締め付けられた。
「そんな顔しないでくださいよ。あなたに愛されていると、勘違いしてしまう。」
 郭嘉は荀ケの帯をやさしい手つきで解いていく。