8

  郭嘉が亡くなってしばらくの間、曹操から荀ケへ、数日に一回の頻度で、郭嘉の死を惜しむ文が届いた。郭嘉は、あの曹操に、ここまで惜しまれるほどの、大義を成したのだ。荀ケは誇らしかった。
 郭嘉は自分に何も形見をのこしてくれなかった。これも彼なりの、最後まで格好をつけるということなのかもしれない。それでも、もちろん彼を忘れるはずはなかった。荀ケは誰にも顔を合わせることのない日には、自らの髪を三つ編みにして遊んだ。自分を手鏡で見れば、後ろに郭嘉の影が映るような気がした。自分の黒髪を綺麗だと言う声が聞こえるような気がした。どんな日にも、郭嘉が良い香りだと言った香を衣に付けて過ごした。あの郭軍祭酒が愛した香りだぞ、と、ひけらかすように歩いた。
 やがて荀ケは年を取り、病に臥せった。医者から鎮痛薬などはもらっていたが、治ることのない病だった。いつまでも体がだるく、ずっと熱があるようで、薬の効きが弱まると全身が痛んだ。骨が軋むような痛みを感じるたび、自分はもうすぐ死ぬのだろうと思った。年相応だ。それほど悲観はしなかった。曹操の治める世を見ることが叶わなかったことが悔やまれたが、自分にできることはすべてやったつもりだ。時には、曹操に対しても厳しく諌言することもあったが、すべて曹操の為だった。そのことは曹操もよくわかってくれていた。中には、曹操と荀ケは仲違いしたなどと噂を流す者もいたが、二人ともあまり気に留めなかった。
 ある日、曹操から荀ケへ贈り物があった。
「曹公からでございます。」
 使者は荀ケの目を見ずに、恐る恐る言う。贈り物は食盒だった。何か食べたいものはないか、という曹操からの手紙に、食べ物など口にできる状態ではないから気を遣わないで欲しい、という旨を書いて送ったはずだ。何も口にできないだけでなく、自分はもう間もなく死ぬのだから、そのような身に贈り物を用意させるなどして、主の手を煩わせなくなかった。とりあえず受け取ると、使者が気まずそうにしている理由がわかった。食盒にしては軽すぎる。中身は空かもしれなかった。荀ケは使者を下がらせ、一人で開けることにした。すると、中には文が入っていた。なるほど、これが曹操なりの見舞いの品というわけか。曹操らしい。荀ケは微笑んだ。早速紙を開くと、一枚の白い紙の中に、それよりも黄色みのある紙、いや、古くて黄ばんでいるような紙が一枚入っていた。
 白い紙には、曹操の字で、「具合はどうだ。皆心配している。」というようなことから始まり、やはり「料理の代わりに、文を贈ろうと思い立った。」と書いてあった。その後に続いた文字に、荀ケの心臓は跳ねた。「郭嘉からお前への文だ。」たしかにそう書いてあった。「郭嘉は亡くなるとき、『卓に紙が置いてあると思う。自分から荀ケ宛の文だが、渡さないでほしい』と言った。この紙とは別の、古しい方の紙が、それだ。」曹操からの文は、その後に、「捨てるわけにいかないから取っておいた。最近、書の整理をしたときに出てきて、つい読んでしまった。すまん。読んでみて、荀ケに渡すべきだと思った。郭嘉に怒られるだろうな。」などというようなことが続いたが、荀ケはそれらを斜め読みして、すぐに郭嘉からの文を広げた。病のせいか、文字の震えているところがあったが、たしかに郭嘉の字だった。

 文若殿。
 何も残さない方が格好つくんでしょうけど、これくらいなら良いかなと思いまして。文など滅多に書かないものですから、何を書いたら良いかいまいちわかりませんが。俺の話に少し付き合ってくださいね。
 あなたは気付いていなかったかもしれませんが、俺は、まだ誰にも仕えずに潁川にいたときの、若い頃からあなたを慕っていました。でも、気持ちを伝えたところで、あなたに拒まれるだろうと思っていましたから、決して言わないことにしました。ですが、自分が病と知り、何もかも嫌になって、酒に溺れて、そんなとき、あなたが俺を訪ねてきた。どうせ死ぬ身だと思い、酒も入っていたことも手伝って、あなたにあのような形で想いを伝えてしまった。あれは、申し訳なかったです。それでも、あなたは、俺を拒むどころか、同じ気持ちだと言ってくれた。あんなに嬉しいことはなかった。あなたと過ごす時間は、夢みたいに楽しかった。こんなに幸せなら、その分、早く死んでしまうのも、仕方ないような気がします。それに、最後まで、あなたを思いながら死ぬことができる。俺は、幸せ者です。
 文若殿。俺と過ごしてくれてありがとう。俺を愛してくれてありがとう。
 愛しています。
 
 荀ケの目に涙が溜まる。文を胸に抱き締めた。ぱたりぱたりと床に大粒の涙が落ちたが、荀ケの嗚咽には笑い声が混じっていた。
(格好つけて、文を渡さないつもりだったのでしょうけど。残念でしたね、奉孝。主公に見つかってしまって、格好がつきませんね。それに、あなたは意外と可愛らしい文を書くようです。)
 霞む視界で、文を綺麗にたたみ直し、食盒に入れて蓋を閉じた。それを寝台に持って行き、枕元に置いた。布団を被り、瞼を閉じる。
 だんだん体が痛んできた。鼓動が少しずつ弱くなるのが自分でもわかった。今までで一番強い痛みかもしれないが、意識がぼんやりとして、よくわからなかった。
 自分だって、郭嘉を思いながら死ぬことができる。荀ケは、やわらかな笑みを浮かべながら、最期の息を吐いた。