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出征の前に、郭嘉は荀ケの私室を訪ねてきた。郭嘉は、見てわかるほどに痩せていて、肌色も前より白くなった気がした。荀ケは、悟った。郭嘉は、きっと、もう…。
「あなたには、ちゃんと別れを告げなければいけないと思いまして。」
「何を、言ってるんです。」
「文若殿。伝えたいことが。」
「改まって何ですか。」
郭嘉は、荀ケの手をとる。両手をやさしく包み、自分の胸に引き寄せた。
「あなたが好きです。とても。あなたと出会えて良かった。本当に…ありがとうございました。」
それじゃあ、と、名残惜しそうに手を離す。本当に、最後の別れのように言う郭嘉を、荀ケは笑おうとした。郭嘉の死期が迫っていることなど、わかっていたが、認めたくなかった。自分自身の暗い気持ちを、笑って誤魔化そうとした。しかし、それはきっと上手くいかないだろうと思い、やめた。声が震えてしまいそうだったし、口角もちっとも上がりそうになかった。代わりに、思わず口をついたのは、励ましでも、郭嘉の言葉に対する返事でも無かった。
「行かないでください。」
それを言ってはいけない。そう思ったときには、もう遅かった。荀ケを見つめる郭嘉の黒目は、揺らめいていた。
「すみません奉孝。冗談です。」
郭嘉の決意を尊重したいはずだった。ならば、そのようなことを、言うべきではないのだ。
「冗談か。残念です。」
郭嘉の返答は、予想と違った。自分のわがままを、優しくなだめられると思ったのに。本当に残念そうに言うものだから、荀ケは、え、と声をもらした。
「…あなたがそう言ってくれたなら、本当に、この室にでも住み着いてしまおうと思っていたのですが。」
「奉孝、私は…。」
冗談などではない。行ってほしくないに決まっている。そう言おうとしても、郭嘉はそれを許してくれなかった。荀ケがその先を言わないように、わざと荀ケの言葉を遮る。
「なんてね!本気にしました?冗談ですよ。言ったでしょう。最後まで格好つけたいと。いつまでもあなたに甘えていられませんから。」
きっと、自分と同じく、さっきの言葉は、郭嘉の本心なのだろう。苦しそうに笑う郭嘉に、胸が痛んだ。それでも、命を懸けて出征に赴くことも、郭嘉の願いなのだ。荀ケにとっては、どちらも、愛する男の、尊い意志であることに変わりはなかった。
「あなたを、心から誇りに思います。愛しています。これからも、ずっと。あなたのことだけは、絶対に、忘れない。」
荀ケが言い切ると、郭嘉は涙を目にいっぱいに溜めていた。泣いているのに、はは、と明るく笑った。
「やだなあ、何、一生の別れみたいなこと言ってるんですか、文若殿。」
「あなたがそういう雰囲気にしたんでしょう。」
「文若殿。接吻しても良いですか。ちゃんと、舌を入れる方の。」
「………ええ。」
「まだ朝なのに?」
「…あなたがそれを言いますか。」
郭嘉は声をあげて笑った。荀ケも小さく声をもらして笑う。頬を緩ませた勢みで、堪えていた感情が抑えられなくなり、荀ケは一筋涙を零した。それを郭嘉の指が静かに拭った。
「とんでもないですな。あのときは、あなたの方が朝から欲しがっていたくせに。」
どちらからともなく、唇を重ねて食み合い、舌を絡めた。
(奉孝。あなたと行きたい場所や、したいことが、たくさんあったような気がします。だけど、本当はきっと、あなたがそばにいてくれたなら、ただそれだけで良かった…。)
荀ケはまた涙を零した。舌に塩っぱい味を感じた。唇を離し、目を開けると、郭嘉の両頬から唇まで、涙が伝っていた。着物の袖で拭いてやると、郭嘉はその手を掴み、ごしごしと自分から顔を擦り付けて涙の跡を拭った。よし、と言うと、今度こそ別れの挨拶をして、室を出た。
扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。しばらく、扉の前に立ち尽くしていた。
「行くな。奉孝。」
ひとりごとだ。誰にも聞こえない。小さく呟いたはずなのに、室中に自分の声が響いたような気がした。自分のこぼす些細な言葉を拾ってくれる人は、もう、いないのだ。
寝台に潜り、一人で泣いていようと思った。そのときだった。室の扉が勢いよく開く。
「あーもう!」
なぜだ。呆れ笑いする郭嘉が目の前にいる。
「あなたに会えば決心つくと思ったんですがね。またそういうことを言われると、余計に、離れがたくなる…。」
「どこで聞いて…。」
「扉の前で、ずっと、座ってました。少しでも長くあなたの近くにいたくて。でも、もう行こうとしたところであなたがそのようなことを言うから。」
「そんな、主公たちが待っているのでは?機を逃しては戦の勝敗に関わります。早く行きなさい。」
「その通りですよ、本当に…。それじゃあ、本当の本当に行きますからね。」
郭嘉は怒っているようだったが、なぜか楽しそうに見えた。郭嘉が扉を閉めた後、遠ざかっていく足音が聞こえる。
これで本当に最後のはずなのに、今度こそ荀ケは、くすりと笑えた。
「奉孝。ありがとう。」
扉に向かって言っても、もう開ける者はいなかった。郭嘉が皆に、遅い、と叱られているところを想像して、おかしくなってまた一人で笑った。
その出征の後で、曹操から文が届いた。郭嘉が亡くなったことを報せる文だった。紙は、ところどころふやけて、よれていた。文字が滲んでいる箇所もあった。曹操は涙もろい男だった。荀ケはそうでもなかったはずだが、曹操の文に涙で染みをいくつも作った。視界がぼやけ、最後まで読むことはできなかった。