01

空が明るむにはまだ少し早い寅の初刻。
今日はオープンからポアロのシフトが入っている。
早く家路につきたい、頭の中でため息を溢す。

「バァボン、思っていることが顔に出ているわ。肋が惜しければその顔を今すぐ止めることね。」
「嫌ですね、ベルモット。これからどこに行くのかも知らされず、何をするのか教えていただけないのに大人しく貴女に従っているのですから好きな表情くらいさせてください。」
「…今から会う人物は私なんかより人の機微に敏いから気をつけなさい。」
あの子に気に入られたいのならね、と彼女は流れる景色を見ながら呟いた。
とうに倒産してしまったであろう商店の一階に作られた駐車スペースに車を停め、そこから五分ほど歩き一軒の家の前でベルモットは立ち止まった。
白い外壁にレンガ色の屋根、まるで小さな洋館のようなその家にはSatoと掲げられている。
「…佐藤ですか。」
いかにも偽名らしい名字だ。
ベルモットはインターホンのボタン部分に指を乗せ、押すでもなく数瞬動きを止めた。
蔦をあしらった門扉の鍵が開く音が住宅街の静寂に響く。
キィっと少し不快な音を立てるそれを通り過ぎ、玄関ドアへと向かう。
この家の装いには不釣り合いなドアスコープを覗き鍵が開く。
ベルモットは相変わらず何の説明もせずただ僕の前を歩いていた。
これまで様々な任務に就きそれなりに場数は踏んできたつもりだったが、彼女の真剣な面持ちに薄氷を踏む思いで歩を進めた。
三和土に進むと女物の、妙齢の女性にしては少し小さめなスニーカーが目に入った。
あまり使われていない、というかほとんど新品に近い。
「何をしているの?早くして。」
革靴を脱ぎ右手の部屋で待っていたベルモットに近付く。
このリビングは広さ約十六畳ほどだが吹き抜けが良い解放感を与えている。
暖かな木材の色を基調としたこの場所はどこか作為的というか、人が生活する場所というよりはモデルルームのような完璧さがあった。そんなことを考えていると月明かりに照らされ妖艶な雰囲気を醸し出す彼女に再びお小言を賜った為、素直に謝罪しベルモットのあとに続く。
リビングの端にあるサービスルームの扉を開けると地下へ続く階段が現れる。
ごくり、生唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。
「はぁい、クレオ。」
「こんばんは、ベル遅かったね。」
大きめのヘッドホンを外し振り返った女性はどう見ても小学生、未成年だった。
栗色のセミロングヘアをフワフワと靡かせながらこちらに近付いてくる。
「ベル、この人は?」
先程ベルモットに向けた顔と変化は見られないが僕を警戒していることは声色で分かった。
目の前に立つ彼女の目は頭三つ分、いや四つ分程下にあったため、見下ろし不快感を与えない為にも片膝をつき胸に手を当て挨拶をする。
「初めまして。バーボンと申します。以後お見知りおきを。」
最後にスマイルを添えて。
「あぁ、この人が。私はクレオパトラ、長いからクレオでいいよ。」
見た目に違わず言葉遣いが幼いように思う。
バーボンという人間はいつ何時も自信たっぷりで毅然とした態度を取らなければならない。
しかし今回は内心疑問で溢れていたためそれが表情に出ていないか些か不安であった。
なぜ一軒家に少女が一人で?なぜ隠すように地下室がある?なぜベルモットとこんなにも親しげなのか。そもそもこの少女は何者だ。
探り屋バーボンとしてこれからじっくりこれらの疑問を解消していこうと一人心に決めた。
「挨拶はもういいかしら?」
僕達の短い会話を少し離れて静観していたベルモットは僕に新しい任務を与えた。
「以前クレオが担当した案件に関わっていた末端構成員があなたの居場所を血眼になって探していることが分かったの。」
その先は続けずとも分かった。
「その構成員からこの姫君をお守りすることが僕の任務、ということですね。」
「話が早くて助かるわ。彼女はラムのお気に入りだから。くれぐれも…わかるわよね?」
「えぇ、わかっていますよ。」
ラム、ここでその名を耳にするとは。
眼前に垂れてきたこの糸、死んでも離すものか。意地でも手繰り寄せてやる。
少しピリついた雰囲気を壊したのは僕のことをずっと見上げているこの少女。
「ねえ、じゃあこれからはのこの人がおうちによく来るってこと?」
驚くほどに無表情、無感情。言葉遣いや語気で感情を読み取ろうとしたが何の収穫も得られない。
「そうよ。その代り私はあまり来れなくなるけど、バーボンがいるから大丈夫よ。」
「わかった。よろしく、バーボン。」
差し出された右手を握り、本人の同意が得られたことで正式に着任となった。