戯れるミッドナイト

 噛むという行為には食物を咀嚼するという目的以外にも様々な意味が含まれることがある。犬や猫の噛み癖は時として飼い主の頭を悩ませるものだが、実は人間の赤ん坊にも、同じように噛むことで意思を伝えようとする時期があるのだ。人の子の歯の生え始めは一般に生後六ヶ月を越えた頃からと言われ、暑い、寒い、お腹が空いた──まだ言葉を発せられない彼らは、そうした気持ちを噛むことで周囲のおとなたちに伝えようとする。
 と、昔読んだ医学書の一端を思い出しながら、サンソンは読んでいた書物をパタンと閉じた。目下の問題は、今サンソンの首筋に熱心に歯を立てている相手が赤子ではなくうら若い少女だ、ということなのだが。
 彼女の部屋でふたりで過ごすのは別段珍しいことではない。それは夜をともにするだけでなく、他愛ない話をしたり食堂から拝借してきた少しいい酒を飲んだりと、穏やかで心地よい時間だった。今宵もそんなよくある一日の終わりに過ぎず、腕の中の彼女と明日の朝には記憶から溶けて消えてしまうような囁きごとを交わしていた、はずだ。
「マルガレータ」
 呼びかけに首筋に埋もれていたマタ・ハリの顔が上がる。多くの男性を籠絡していったであろう小首を傾げる可愛らしい仕草に苦笑しつつ、ほんのり染まった頬を親指の腹で一度撫ぜた。
「あまり、目立つところにはつけないでほしい」
「え? あら」
 きょとんと長い睫毛に縁取られた瞳を二度、三度と瞬かせた彼女は、言われて初めて気づいたというように眉尻を下げる。
「やだわ。私ったら、いつのまにか夢中になっちゃったのね」
「ああ。それはもう、熱心に」
 タイをほどかれ、広げられたシャツの襟元から覗く皮膚の薄い箇所。肌を吸う所謂キスマークのように、はっきりと痕が残るわけではない。ましてたおやかな女性に甘く歯を立てられたところで僅かに肌が赤くなるだけなのだが、耳の後ろ辺りに唇が触れたところで、おそらく自分でも気づいていないのだろうこの小さな獣≠ノ声をかけた方がいいと判断したのだった。
「読書はもういいの?」
「そうだね、面白かったよ」
 思えば話の流れでベッドサイドに置かれていた一冊の本に彼が興味を示したことが始まりだった。
 マタ・ハリはおそらく周りが思っているよりもずっと頭の良い女性だが、実のところあまり読書が得意ではないらしい。いつだったかそうこぼしたのを聞いていたから、一体どんな話が彼女の関心を引いたのだろうと気になった。
 とはいえ、何気なしに取った本に夢中になって相手、それも寝所を訪れている女性を放置するとは、我ながらかなり失礼な話だ。要するに、原因はサンソン自身にあったのだ。
 対するマタ・ハリは彼の首筋から胸元にかけて、自分がつけたいくつもの赤い痕を指先でなぞっていたが、ふと思い立ったように頬に当てられていたサンソンの手を取る。じっと、その丸い大きな陽の目が注がれるのを見て、彼は小さく口の端を上げると、人差し指を艶やかな唇の前に差し出した。
「噛み足りないかい?」
 質問の形をとりながら催促と許可を与える台詞に、果実を思わせるふっくらとしたそれが開かれる。咥えられた指に伝わるぬるりとした感触と体温、次いで立てられる、歯の硬い感触。
 彼女の所作、表情のひとつ、どれをとっても艶めかしく扇情的というのは常のことで、増して指を咥える等という行為は情動を激しく助長させて然るべきだが、なぜだか今夜の彼女は妖艶というよりももっと可愛らしい何かに思えた。そう、例えば、ある動物に似ている。白くて小柄な、ふわふわとした毛の──。
「マルチーズ……」
 口にして、たまらずふっと吹き出した。一度思い当たるともうそっくりとしか思えないのだから不思議だ。当然そんなサンソンの態度にマタ・ハリの表情は険しくなる。指先から口を離し、端正な顔立ちをしかめた彼女の口調は咎める色を濃くしていた。
「シャルル」
「ふ……ふふっ、すまない」
 謝りつつ、おさまらない肩の震えに彼女はますます眉間の皺を深くし、唇を尖らせる。その表情がまたなんとも言えず子どもっぽいので、笑いをおさめるのに更に時間を要するのだった。
「もとはといえば、あなたに原因があるのではなくて?」
「ああ、そうだね」
 むすりとした表情でつきだされた小さな唇。指先でつつけばひどくやわらかい。
「別に、あなたが、ここでどう、過ごそうと、勝手だけれど……ああ、もう、よしてったら!」
 張りのある感触が癖になるなとつつき続けていると、始めは構わず続けていたマタ・ハリも、話しにくさにとうとう声を荒げてしまった。ああ怒らせた、と思うのに心の内とは反対に表情はこれまで以上にゆるむのだからどうしようもない。
「悪かったよ、マルガレータ」
「反省しているのかしら」
 そう言いながら、腰にまわされた手を受け入れて身を寄せてくる彼女はやはりおとなだ。つまるところ、甘やかされているのは自分の方なのだと思う。そんな彼女が構ってほしいと立てた牙を無視した罰は受けて然るべき、なのだ。
「君の望むままに。マタ・ハリ」
「……そう。それじゃあ」
 視界が反転する。天井を背に、陽の目が獲物を捕らえた獣のように細められる。
「私という女に溺れて頂戴?」
 明日の朝には噛み砕かれた身体が散り散りになって消えてしまうのかもしれない。そんな下らない思考は、重なった熱の向こうに溶けて消えた。