隠せない隠し事

「どうして今日は集中力が切れているの?」

腕組みをして、右中指でトントンと肘を打ちながら先生は言った。
眉間に寄った皺がいつもより深く見えた。苛立っていることは明白だった。
両手を鍵盤から下ろし体を先生へと向けた。中指は止まらずに動き続けていいる。

「なんて乱暴な演奏なの。とっても耳障りな音」

肘を叩くリズムが速まった。よほどイラつかせていたのだろうということがわかった。中指の運動は先生が感情を制御する時に出る“癖”だった。
演奏がうまくいかない時、個人的に嫌なことがあって気分がのらない時、私に意図がうまく伝わらない時ーー……色々な場面でその癖を何度か目の当たりにしていた。
この“トントン”を見るとやばい、と認識して体が勝手に萎縮するようになっていたが、今日は違った。
指が制服を巻き込んで内に握り込んでいる。力強い拳が二つ、膝の上に並んでいた。

「乱暴にしているつもりはありません」
「つもりはなくてもなっているの。鍵盤が悲鳴をあげている。ピアノがとってもかわいそうでしょう」

先生はピアノに挿していた楽譜を取り、私へ突き出した。
細く長い指が音楽記号のp(ピアノ)を指差してる。

「何があったか知らないけど、今日はもう帰りなさい。次回のレッスンまでに頭を冷やしてくること」

先生は私の肩を一度ポン、と叩くと深いため息をついて部屋から出て行った。
目の前の楽譜は濃く深い印刷とは裏腹に、静かにゆっくりと弾くことを指示していた。五線譜に浮かぶ音符が二重に浮かんで見えた。


“小鳥遊事務所”。
その単語が頭に浮かぶと私の指が強張った。


話を一緒に聞きたかったのに、一織はレッスンがあるからと私に先に帰るように言った。
まだ時間はあったし一緒に聞きたいと渋ったが、なかなか承諾しない私に苛立った様子で一織は言ったのだ。

「あなたには関係ないことでしょう」

幼馴染とは思えないひどく冷たい視線と言葉に、私は驚愕した。
そして間を空けずに怒りの感情が込み上げてきた。

なんてことを言うの?
関係ない?私が?
あなたの幼馴染の私が関係ない???


「信じられない!!」

家についてベッドに突っ伏し、吐き出したかった言葉を布団にぶち撒けた。
お腹の底から出した声は布団が吸収してくれたおかげで音にならずこもって消えた。
両手足をばたつかせるたび、ベッドがギシギシと悲鳴をあげた。
感情的にしばらく暴れまわったあと、部屋が静寂に包まれた。
カチコチと枕元の目覚まし時計の音が耳に響く。

「関係ない、か……」

時計に並んで飾られた写真たてが目に入る。
そこにいる3人は大きな口を開けて笑っていた。三日月型に弧を描いている目元が、なんとなくみんな同じに見えた。

関係ない。
この時の一織も、同じことを私に言うのだろうか。
無邪気な笑顔を浮かべる一織を指でなぞる。
写真たてのフィルムが小さく凹み、中の一織の笑顔が少し陰って見えた気がした。

トントン。
高音の音でふと我に帰った。
音は私の部屋の扉から鳴っていた。
私はとっさに近くにあった鏡を取り、ボサボサに鳴った髪を整えた。
間違いない。この音は、あの人だ。

「みっちゃん!!」
「おわっ!!」

扉が開く前にこちらからドアノブを勢いよく引っ張ったからか、みっちゃんは目と口を大きく開けて驚いていた。
意表をつけたことが嬉しくて思わず笑みがこぼれた。
みっちゃんはやれやれと言わんばかりに片眉を下げて呆れながら笑い返してくれた。

「どうしたの?みっちゃんがくるなんて珍しいね」
「ちょうどさっき店番終わったからさ。ちょっと様子を見ようと思って」

みっちゃんが私の部屋に入ると、通りざまに甘い香りが鼻をかすった。
彼の実家はケーキ屋を営んでいる。先ほどまでお菓子がいっぱいの空間にいたからだろう。優しく甘いこの香りに思わず頬がほころんだ。

「いやしんぼ」

みっちゃんがいたずらっ子みたいに笑いながら私の鼻をつまむ。
裏表のない笑顔に私もつられて笑った。
昔から不思議なことに、みっちゃんは言葉にしなくても私が考えていることを当ててしまうのだ。
みっちゃんってすごいなあ。
さすがみっちゃんだなあ。

「……みっちゃん?」

温かい彼の手が私の頭にあった。
まるで壊れ物を触るかのように優しく、その手は私の頭を撫でていた。
オレンジ色の瞳に暖かさが宿っている。ビー玉みたいに綺麗なそれに思わず見入ってしまった。

「よしよし」
「……みっちゃん」
「大丈夫だって。別にペット見たいとか思ってねえよ」
「!!」
「だからさ……」



我慢しなくていいよ、



なんて優しく暖かく、言葉を落とせる人なんだろう。

その言葉に堪えていたものが溢れ出してしまった。
震える肩を宥めるように、頭を撫でる手はさっきよりもゆっくりとしっかりと、私を癒してくれている。

「沙也は本当、昔から嘘が下手だなあ」

その言葉に私は声を出して泣いてしまった。
みっちゃんは笑いながらも泣き止むまで私の頭をずっと撫で続けてくれた。


「店番してたら悲しそうな後ろ姿が見えたからさ、やっぱり来てみて正解だったわ」


やっぱりみっちゃんってすごい。
私が辛い時、悲しい時、こうやっていつもそばにいてくれる。

みっちゃん、大好き。
大好きだよ。

「よしよし……」

みっちゃんはいつも簡単に私の思っていること当ててしまうけど。
この思いも、いつかみっちゃんに届くのだろうか。


目尻が下がった温かい眼差しを見て、ふとそんなことを思った。

気づけば、涙は止まっていた。