メープルシロップがたっぷりかかった大好きなケーキ。
口に放り込めば甘さが一気に広がって自然と顔が綻んだ。
みっちゃんはまるで魔法使いみたい。
だって私をこんなにも簡単に笑顔に変えてしまうのだから。
「沙也、また一織くんと喧嘩したの?」
一緒にお弁当を食べているクラスメイトの塚原文香が心配そうな声色で尋ねた。
彼女は高校で初めてできた友人。とても優しい性格で、まるで自分のことのようにいつも親身になって話を聞いてくれる人。
私はそんな彼女が大好きで仕方がなかった。
学年が上がりクラスがまた一緒になったと知った時は嬉しくて飛び跳ねて喜んだほどだ。
「……してない」
「えー、嘘だあ。だって沙也、今日一言も一織くんと話してないじゃん」
流石友人。普段の私の行動をしっかりと把握しているようだ。
彼女の指摘通り、今日は一織と一言も口を交わしていなかった。
同じ教室にいる一織は自分の席で黙々と昼食をとっていた。ここからでは背中しかみえないけれど、きっといつもと変わらないポーカーフェイスでいるだろうということが嫌でも予想できた。
一織の背中はいつも通りに真っ直ぐと伸び、凛とした態度をとっていた。
「それは……私が一方的に怒ってるから……だからケンカじゃないの」
「世間ではそれを喧嘩っていうんだよ?」
親友の的を射た発言は、私の背中にぐさりと矢を刺さったかのような鋭さを持っていた。
確かに今の状況を傍から見れば喧嘩というのだ。それは紛れもない事実だった。
「何があったの?一織くんに成績が悪いとでも言われたの?」
「文香は私の成績が悪いと思ってるんだね……しかもそれで怒ると思ってるんだね……」
「えー、そんなことないよ」
文香は乾いた笑いを浮かべながら目を逸らした。どうやら図星のようだ。
でも言い返す言葉もないぐらい私の成績が悪い事も本当のことなので、ここは深く追求しない事にした。
「何があったかわからないけど、早く仲直りできるといいね。2人がぎこちないと、私もなんか悲しくなっちゃうから」
じゃあ、私行くね。
文香はにっこりと私に微笑んで、空になったお弁当箱を手際よく片付けるとそのまま教室を後にした。
そういえば今日は委員会の仕事があると言っていたなとぼんやりと思い出しながら、サンドイッチの最後の一口を口に押し込むと、片手でスマートフォンを操作した。
画像フォルダに並ぶ昨日のみっちゃんのパンケーキの写真を眺め、咀嚼したサンドイッチをごくりと飲み込んだ。
そういえばみっちゃんも同じようなこと、言ってたっけ。
うさぎさん形のパンケーキに見切れて映っているみっちゃんは笑っていたけど、どことなく寂しそうに見えた気がして、なんだか胸がちくりと痛んだ。
授業を終えて放課後、私は音楽室へと向かっていた。
今日は吹奏楽部のオフの日。音楽室のグランドピアノを好きに使える、特別な日だった。
(もちろん先生から許可は得ていた。音楽室を管理している先生とピアノの先生が知り合いという、ささやかな偶然の特典でもあった)
音楽室に着くとブレザーを脱ぎ捨て、颯爽と椅子の高さを調整した。
ちょうどいい塩梅になったことを確認し、鍵盤の上へとそっと指を添える。
指の運動として練習曲をある程度弾き終えると、シン、と広がった静寂が私を纏った。
何でこんな時、思い出してしまうんだろう。
もう何回も弾きなれているはずのドビュッシーが荒々しい曲へと変わっていた。
まただ。指に力が入ってうまくコントロールできない。
私はこんな曲を弾きたいわけではないのに。この曲はもっと優しい音色をしているはずなのに。
“あなたには関係ないでしょう”
思い返せば昔からそうだった。
一織とはよく衝突して、その度に私は大泣きして、みっちゃんがそれをなだめる。
最後には2人して納得していなくても渋々仲直りをするんだ。
そうしないとみっちゃんが悲しそうな顔をするから。
私も一織もみっちゃんが大好きだから、そんな悲しい顔なんて見たくなかったんだ。
ううん。でも、それもあるけど違う。
本当は、私は、
「……なんですか、その荒々しい演奏は」
一織と離れてしまうのが、とっても悲しかったんだ。
ずっと隣にいる一織がいなくなってしまうことが、とっても怖くて、悲しかったんだ。
「一織……」
「こんなんじゃ昨日のレッスンも散々だったんじゃないんですか?素人の私が聴いていてもとてもひどいということがわかりますよ。情けない」
「情けない!?」
刺々しい物言い。どうして一織っていつもこうなんだろう。
もっと優しい言葉をかけてくれたっていいのに。
だから私もついむきになって、いつも一織の気持ちを考える前に蓋をしてしまうんだ。
一織のばか。わからずやって。
本当にわからずやは私なのに。
「一織、もう帰ったのかと思った」
「少しやることが出来たので。ちょうどいいBGMが欲しくなったんですよ。私の事はお構いなく」
一織は近くの席に腰かけて、スマートフォンとノート、ボールペンを取り出した。
いつもと変わらない涼し気な態度。調べ物をしているのか、スマートフォンで何かを見つける度、すらすらと手際よくペンを走らせている。
私の事など少しも気にしていないような態度に苛立ちを覚えながらも、それならこっちも好きにしてやる!という対抗心で再び鍵盤に向き直った。
あれ、おかしいな。
さっきまであれほどうまくコントロールできなかった指が嘘みたいに軽やかに動いている。
そう。私、こういう風に弾きたかった。
優しく暖かい音。みっちゃんみたいな、そんな音。
ああ、そっか。
「一織」
一織がいるからだ。
「私の事、仲間外れにするな、ばーか」
演奏をやめ悪口を言った私を、目を丸くして一織は見た。
けれどすぐに呆れたような表情に変わって、深く長いため息をついた。
「本当に幼稚な人ですね、あなたは」
一織は笑ってた。私の好きな優しい顔で。
私もつられて笑いそうになったけれど、なんだか悔しくて無理やり口をつぐんだ。
だって、昨日の言葉は結構ショックだったんだもの。子供っぽいと言われても、まだ許す気にはなれないんだもの。
一織は観念したのか、ノートとスマートフォンをもって近づいてきた。
私に見せつけるように2つのそれをぐい、と突き出している。
「これって、昨日の……」
「ずっと調べてたんです。小鳥遊事務所について」
ノートには細かい文字でびっしりと一織が丁寧に調べ上げたであろう情報が羅列していた。
難しい言葉もたくさん並んでいてすべてを理解することは出来なかったけれど、正式な芸能事務所である、ということは読み取ることが出来た。
「昨日お会いした社長に、兄さんにも一度会ってほしいとお願いをしてみました。理解ある方で、快く快諾して頂けたんです」
「え……それってつまり……」
一織がまた笑った。
さっきよりも目じりを下げて。とっても嬉しそうに。
「兄さんもスカウトしてもらえるかもしれない、ということです」
突然舞い込んだ朗報に、喜びを抑えきれず一織に飛びついてしまった。
迷惑そうに私を払って、「まだ喜ぶのは早いですよ」と一織は言った。
それでも喜ばずにはいられなかった。だって、みっちゃんの夢が現実になる第一歩になるかもしれない出来事なのだから。
みっちゃんがアイドルになれるかもしれない。
それも、一織も一緒に!!!
その日の帰り道、どうしてあんなに冷たく私を突き放したのかをしつこく聞いたけど一織は最後まで答えてくれなかった。
けれどそれ以上に喜びが勝っていた。すっかり上機嫌になり浮足立った私を見て「だから言いたくなかったんです」と呆れたように一織は頭を抱えていた。
笑いっぱなしの頬がだんだん痛くなったけれど、そんな些細な事でさえ幸せだと思った。
空の藍色に浮かぶ星がいつもより強い光を放っている。
今日は手を伸ばせば、それが掴める。
そんな気がしてならなかった。