何のため

自分の思いから必死に目を背けていた時期に舞い降りたピアノ伴奏のオファーは正に渡りに船だったので、内容もよく確認しないまま引き受けた事を後悔した。
演奏する曲は人気少女漫画の映画主題歌だった。2人の男の子に恋をしてしまった少女の恋物語。
なんて皮肉な話だろう。
逃げたくて掴んだ仕事だったのに、それを許してはくれないらしい。

「私、初めてこの漫画を読んだ時、なんて前向きで素敵なお話なのかしらって思ったの」
「へ?」

驚いて思わずとびきり間抜けな声を漏らしてしまった。
他人行儀だった私の砕けた態度に気を許したのか、女性はテレビで見た事がないような顔ではにかんだ。

「意外だった?漫画は結局、どちらとも結ばれないで終わるものね。でも私にはとてもポジティブな印象が強かったの」
「どうして、ですか?」
「だって彼女の恋は、とても彼女を強くしていたから」

心臓がざわついた。
自分の事じゃないとわかっているのに、まるで見透かしたような言葉に思えて。

「彼女は恋に頼って、励まされ、前を向いていた。とっても素敵じゃない?私もそんな恋をいつかできたらいいなって夢を見ちゃった」
「……でも2人の人を好きになるなんて、どうなのかなって思いませんか?」
「どうして?2人の人を好きになるのが悪いことじゃないでしょ?」
「え?」
「そんなこと言ったら、私のファンは私しか推せないってことでしょ?それはちょっと違うじゃない?」
「いや、推しの概念と恋愛はまた別ものなんじゃ……」
「そうとも限らなくない?リアコ?っていうんだっけ?とにかく、2人に抱いた感情は全く別物で、似た感情かもしれないけど同じ感情ではないっていうか……ごめんなさい。私バカだからうまく言えないの。だから、」

この思いは、歌に乗せることにするね。

そう穏やかに微笑む彼女の瞳は澄んだ色をしていた。
瞳とお揃いの透き通るように美しい歌声に感化されて、私の邪念だらけでノイジーな演奏も濁りが少しだけ浄化された気がしたんだ。



だから否でも目に付くほどのゴシップがにわかに信じられなかった。
私の中の彼女とは相対した姿がそこにはあったから。

「何かの間違いですよね、花巻さん」

“花巻すみれ”
今まで世間が向けていたものとは別の好奇が、彼女の名前を包んでいる。
それがなんだか悲しくて、苦しくて、もどかしかった。





そんな状況だったから、つい後先考えずに行動をしてしまった。
上手くいくはずなどないのに。気が付く時はいつだって既に遅くって。

「ねえ、なんでキミがここにいるの?」

柔らかな口調とは相反した冷ややかな鋭い視線がこちらを見下ろしている。
デジャヴ。この既視感は、ゼロアリーナのこけらおとし前に一度味わったことがある。
私の言葉を待たずして、声の主は続けた。

「キミ、本当によくボクに見つかるね」

デジャヴ、2。氷柱が落ちたみたいに、九条さんの氷点下の声が突き刺さる。
ぐうの音も出なくって、「ごめんなさい……」という謝罪の言葉がやっと絞り出せた。

「沙也ちゃん、いつから俺らの事追けてた?」
「テレビ局からです」
「マジかよ!全く気が付かなかった。意外と探偵とか向いてるかもよ?」

冗談交じりに二階堂さんは話していたけれど、その顔は驚きと焦りの色で引きつっていた。
なんだか申し訳なくなって、顔を上げることが出来なかった。

なぜ私が2人を追けることになったのか。
きっかけは村田さんからのラビチャだった。



『ポチ、事務所いる?悪いけどスティックをテレビ局まで届けてくんない?子供にやられた』

メッセージと一緒に飛んできた写真には、スティックケースに収まる謎の菜箸という図。
瞬時にお子さんがいたずらをして、スティックと菜箸を入れ替えたという事を理解した。
ホワイトボードに書かれた収録開始時間を見て、村田さんが取りに戻れない事は明らかだったので、二つ返事でテレビ局へと向かった。
村田さんにスティックを渡し、スタジオを後にしようとした時に聞こえてしまったのだ。



「偶然テレビ局で花巻さんに会いに行くって会話が聞こえたから、いてもたってもいられなくてついてきちゃいました。勝手に後をつけてごめんなさい。でも、どうしても今、花巻さんに会いたいんです。お願いします!!私も花巻さんに会わせてください!!」

髪が床につくぐらい頭を下げた。
わがままだってわかってる。でも今はどうしても花巻さんに会って伝えたいことがあった。
このチャンスを逃したらずっと後悔する。そう思えてならなくって。
言葉では表せない強い何かが、私を突き動かしていた。

「沙也ちゃん、どこから話を聞いてた?」
「十さんと花巻さんの報道が本当のことと違うってところぐらいから」
「ほぼ最初からじゃねえか!こりゃ冗談抜きで探偵になれるんじゃ……」
「話を脱線させないで、二階堂大和。ボクは反対だ。こんな危ない事にキミを巻き込むわけにはいかない。今すぐ帰りなさい。ご両親が心配するでしょう」
「両親は出張でいないんです。だから大丈夫です!言いたいことを言ったらすぐに帰ります。だから、どうか……お願いします!!」
「そういう問題じゃないでしょう……」

結果、私の粘り勝ちとなった。
必死に頭を下げ続けたら変に目立ってしまったので、これ以上人目につかないようにと2人は私を連れて行かざるを得なくなったのだ。

「俺たちの話が終わったら声を掛けるから、それまで沙也ちゃんは店の前で待ってて。絶対動かない事!お兄さんとの約束、守れる?」

大きくかぶりを振って返事をする。
到着したのは高級そうなバーで、慣れない雰囲気に委縮しながら2人を見送った。

半ば意地になってついてきたけど、私は花巻さんに何を伝えたか正直わからなかった。
ここまで迷惑をかけているというのにふざけた話だけど。
たった1度仕事しただけの関係。なのに私はなぜか彼女に無性に会いたくて仕方がなくて。

「沙也ちゃん、終わったよ」

数分して、二階堂さんが手招きをして私を呼んだ。
意を決して店へと足を踏み入れる。
心臓の拍動と歩数がシンクロしていた。
緊張で汗ばんだ手を握り締めて、人影が並ぶカウンター席へと突き進んだ。

「……久しぶりね、橘さん」

まるで別人かと思うほどの冷ややかなまなざしが私を捉え、思わず立ちすくんでしまった。
嘲笑うように鼻をならし、舐めるような視線でこちらを上から下まで見回した。

「あなたって見かけによらず遊び人なのね。モモ以外にも男を2人も侍らせるなんてやるじゃない。あなた、あの映画の話をするとき、居心地悪そうにしてたものね。好きな男、たくさんいるんだあ」
「違います。2人は私が無理を言ってここに連れてきてもらっただけです。モモちゃんとも付き合ってません」
「嘘よ。あなたは恋をしてる。そういう演奏をしてた。とてもかっこ悪くてみっともない音」
「はい。そうです。私には好きな人が2人います。花巻さんも今、恋をしてる。違いますか?」

シリアスな雰囲気をぶち壊すように二階堂さんが吹き出した。
九条さんも目をまん丸くして私を見ている。
当然のリアクションだと思う。我ながら何を言ってるんだと思ってる。わざわざここで続ける話でもない。けれど、自然と口から漏れ出てしまったのだ。

「その恋は花巻さんを強くしていますか?」

2人で話した時の会話が蘇ってきて、ブーメランのような質問をした。
いつかそんな恋が出来たらと目を輝かせていたあの日とは打って変わった、荒んだ彼女に向けて。

「縋らないで。恋に頼るのと、恋に縋るのは違う。花巻さんは今、恋に縋っ……」
「うるさい!!!!!!!」

つんざくような悲鳴のような叫びだった。
あまりの大声に店内が静まり返る。背後に漂うジャズミュージックが、乾いた空気を滑り浮かんでいた。

「急にすみませんでした。かっこ悪い演奏をしてしまってごめんなさい。でも、花巻さんは以前私の演奏を褒めてくれました。あの言葉が嘘だったとしても、大切にさせてください。私の背中を押してくれたのは、確かだから」
「……もう、帰って」

弱弱しく倒れこむように零れた声は震えていた。
うなだれる横顔に頭を深く下げて、踵を返す。
私たちが店を出る間に彼女の顔が浮かんでくることは決してなかった。










「結局、伝えたい事は全部言えたの?」
「わかりません。すみません。せっかく連れてきていただいたというのにこんな感じで……」

腑に落ちない。すっきりとしない。
なぜだろう。なんでこんなに泣きたい気持ちなんだろう。
なんでこんなに、

「……すごく…………悔しい」

あんなに歌に自分を委ねていた人が変わってしまった。
少ししか関わっていない私にもわかる。あれだけ寛容的に、懸命に向かい合っていた人が変わってしまった。

「うん。悔しいね」

九条さんが私の肩に手を添える。
その温もりがなんだか無性に応えて、奥から熱いものが溢れそうになったのをグッと堪えた。

「沙也ちゃん、今日はとにかく帰ろう。君に何かあったらミツやイチに顔向けでないからさ」

二階堂さんはそう言って冗談っぽく励ましてながら、呼び止めたタクシーに私を乗せて見送ってくれた。
車内に座ってしばらく沈黙に包まると、自分の無力さに嫌気がさした。

私は結局、何をしに来たのだろうか。
何のためにここへ来たのだろうか。



「……元はと言えば、村田さんのスティックを届けに来たんだった」

きっかけとなった当初の果たされた目的を思い出して、自嘲じみた笑みを零した。
運転手さんは私の独り言を大して気にもせず、「何かイベントがやってるみたいで道が進まないねえ」とゆったりと会話の様な独り言で返してくる。
言われてみれば、何やらイベントが催されているようだ。

「お、お客さん見えましたよ。何かのライブがやってたみたいだねえ」

運転手の指差す方向を見て、思わず目を見開いた。
だってそこには見覚えのある人物が大きく映し出されていたのだから。





「亥清、くん?」

見覚えのある黄色い瞳が、挑発的な視線が、こちらを煽るように覗いている。

「オマエは今日、このためにここに来たんだ」

まるでそう言われているような気がして。
必然的だとも言うような偶然の巡り合わせに胸騒ぎが収まらなくて。

なぜだか、無性に目が離せなかった。