突然生まれた貴重な時間。買い物へ出かけたり、寮へ直帰して体を休めたり、選択肢などいくらでもあったのに、ふと事務所へ寄りたくなった。
まるで見えない何かに手招きされているかのようだった。無心で電車を乗り継ぎ、気が付いた時にはすでに事務所の目の前にいた。
もしかしたら大切な事を忘れているのではないか。そうだ、きっと神様が思い出させるためにここへ誘ったんだ。
柄にもない事を考えた。恥ずかしさをごまかす様に小さく笑い飛ばして扉を開けると、急激な引力が三月を強く引き寄せた。
吸い寄せられた部屋の扉はわずかに開いていて、隙間から漏れ出る光に音色が混じっていた。隠れるつもりなどなかったが、三月は自然と身を潜めた。
好奇心が抑えられない子供のような眼差しが捉えたものは、彼にとっては見慣れたはずの光景だった。
(沙也だ)
穏やかな風に吹かれて揺れる一輪の花のように、思いを含めた体が揺蕩う。
ノスタルジックな音色に漂うは、たくさんの敬いと感謝の気持ち。
三月にはそう感じられた。そう思えてならなかった。自然と感化されて胸の奥がじんわりと熱くなる。
彼女が奏でるメロディには聞き覚えがあった。つい先日、大神万理から昔のRe:valeの曲と紹介された『未完成な僕ら』だ。
なぜ沙也が小鳥遊事務所にいてRe:valeの曲を弾いているのかと一瞬考えたが、自分を経由して彼女を呼び出し、また2人が連絡先を交換したことを思い出した。それがたまたま今日だったのだと合点がいった。
隙間から零れ落ちる音色に耳を澄まして、ふと思う。
いつぶりだろう。誰の歌声とも他の楽器とも交わっていない、純粋な彼女の奏でるピアノの音を聞くのは。
(沙也がオレたちを励ましに来てくれたあの日以来、か)
三月の口元は自然と緩んでいた。懐かしむような穏やかな笑みで、再び彼女の背中を捉える。
歌声。ダンス。トーク。表情。自分が持てるものすべてを出し切って、全力でアイドルの和泉三月に投じているように、彼女もまた、全身全霊で音楽に身を委ねていた。
(なんだこれ。なんだか無性に胸が熱い。なんだか無性に、あいつに、沙也に――……)
「…………い」
「!?」
ガタン、と派手な音を立てて彼女が振り向いた。
大きく開かれた目がこちらを捉えたと思うと、3度ほど高速で羽ばたくような瞬きをして更に大きく目を見開く。
「みっちゃん!?」
彼女のリアクションで自分が何かをしでかして演奏を止めてしまったのだろうと思った。独り言でも呟いたのかもしれない。そういえば沙也は耳が良くて、小さな物音にも敏感だったなと、親戚みたいな事を思った。
「三月くん、お疲れ様。そんなところにいないで入ってくればよかったのに」
「お疲れ様です。いやー、つい聞き入っちまってタイミングを逃しちまったっていうか……今の、Re:valeの曲だよな?万理さんと千さんの」
「うん。なんか聴いたらいてもたってもいられなくなっちゃって、ピアノを借りたんだ」
沙也は消え入りそうな声でぽつりと続けた。
「モモちゃんが出会った、ユキさんと大神さんが積み重ね紡いだ、尊い巡り会いの音。でも不思議。2人の曲のはずなのに、モモちゃんがひょっこり顔を出してくるの」
沙也はきっと聞かせるつもりなどなかったのだろうが、その声は大神と三月にしっかりと拾われていた。思ったよりも大きい声でつぶやいたことに気が付いた沙也は慌てふためいて「ごめんなさい!変な事言っちゃって。忘れてください!」と早口で言う。
「君、この曲を聞いたのは今日が初めて?」
「はい。そうです」
「百くんや千から何か聞いたりした?」
「いえ、特には……」
「……なるほど、ね。橘さんにとって、ユキってどんな人?優しい?怖い?」
「え。それはもちろん、とっても、や、優しい、です」
大神の探るような会話に、三月と沙也は顔を見合わせて首を傾げた。
大神は拙い取り繕いがツボに入ったようで「君、嘘が下手だねー」と砕けた笑顔で笑った。
あまりの緩みように三月と沙也は同じように目を見開いた。
(おまえなあ……)
(ご、ごめんなさい……)
まるで耳打ちするように目で会話をする。2人も表情が顔に出やすいので、大して付き合いが長くない大神にも内容が筒抜けなようだった。
「当てようか。普段は優しい事も多いけど、音楽の事となると別人のように厳しくなる。罵詈雑言は当たり前。良く言えばストイック、悪く言うと傲慢。傍若無人」
「!!!」
「あ、その顔は当たり?やっぱりアイツ、変わってないなー」
「ユキさんって昔からあんななんですか?」
「そうだよ。音楽の事で今まで何人と揉めたかわからない。といっても昔よりは大分丸くはなってるだろうけど」
「あれで丸く……?ちょっとでも音を外すと「ポチは耳がいいね。僕には聞こえない音があるらしいな」なんて嫌味を言ってきたり、作曲のインスピレーションが沸かないとかの理由で、なぜか私の練習にひたすら駄目だししていたり、要求が抽象的で要領を得ないくせにコロコロ意見を変えたりする、あれが……?」
「ははは!!君、千に大分気に入られてるねー!」
曲がりなりにも昔の相方だというのに遠慮なく愚痴をこぼす沙也に青ざめる三月の気も知らず、大神は高らかに笑い飛ばす。
“気に入られている“、それは三月も痛いほどわかっていた。
Re:valeは沙也をとても大切にしてくれている。2人が言葉にせずとも態度や雰囲気がそう物語っているのだ。
「千が君をスカウトしたって聞いた時、すごく納得したんだよね。君は千と似てるところがあるから」
「ど、どこが!?」
「自覚がないかもだけど、君もだいぶ音楽に対してストイックだろう?君の音には恥や外聞も、よこしまな思いも何もない。下心や打算なんて無縁。純度100%のまっすぐな愛で出来てる。そういうところ、千にそっくりじゃないか」
蠟燭の炎のように沙也の瞳が揺れ動く様に、三月は見入ってしまった。
大神の言葉に心が揺れたのだとすぐわかった。きっと沙也は今、喜びを噛みしめている。
(よかったな沙也。ちゃんとおまえの思い、届いてるじゃん)
沙也は小さく頷いた。まるで三月の言葉を受け取ったみたいに。
三月は決して口になどしていないのに、わかったように沙也は微笑む。
「ユキさん、音楽では私を小娘扱いしないんです。対等でいてくれるんです。橘沙也として私を見てくれるんです。そういうところが憎めなくて、ずるいなあって。だから私、Re:valeのキーボードになってよかったなって、心の底から思えるの」
「……千も百君もきっと、同じように思ってるよ」
沙也の言葉を受けて大神の顔が綻んでいく。
それはほんの少し、少年らしいあどけなさが見え隠れしているような微笑みだった。
「あの沙也が天下のRe:valeと対等、ねえ。出世したなあ、おまえ」
「ちょっとみっちゃん!!バカにしてるでしょ!」
「そんなことねえよ。本当に嬉しかったんだって」
あれから大神との話も盛り上がりすっかり遅くなってしまったので、三月は沙也を近くまで送る事にした。
先ほどの沙也の発言が相当印象深かったようで、反芻するように何度もこの話題を持ち出している。変装のサングラス越しでも揶揄う視線は筒抜けなので、沙也はわかりやすくむくれていた。
三月は一頻り笑った後、すっかり暗くなった夜空を見上げた。
「でも本当すげえよ。プレッシャーだって絶対すごいのにビビったりしないでやりきってさ。おまえは昔から本当、肝が据わっててカッケーよ!兄ちゃん誇らしい!!」
「そんなことないよ。こうしてられるのはみっちゃんのおかげだもん」
「え?オレのおかげ?」
「うん。そうだよ」
沙也は足を止めた。自然と三月も足を止める。
先ほどまでのおちゃらけた空気が打って変わって静まり返った。
「みっちゃんには教えてあげる。勇気が出る、私だけの特別なおまじない」
芝居がかかった立ち居振る舞いで、沙也は三月に向かい合う。
彼女が羽ばたくようにまつげを伏せるその様が、とてもゆっくりに見えた。
「舞台に立ったらまず、目を閉じて……イメージをします」
「目の前にあるのは白と黒の鍵盤。スポットライトの光が控えめに差し込んで、ほんのり光ってる」
「顔を上げると滲んだたくさんの光が溢れてる。その近くには……みっちゃんの背中があって。私が音を奏でた途端、その背中が動き出すの」
瞬間、彼女の瞳が羽ばたいた。
急激な引力に、三月は再び引き寄せられる。
「目を開けた瞬間、いつか思い描いた世界に出会える。絶対にその日は来るって思うと、不思議と前を向ける」
力強い視線が三月を捉えて離さなかった。
思わず息をのんだ。恐怖や圧力からではない。
その瞳はとても眩しく、そして美しく三月には映ったからだ。
「私の中にはいつもみっちゃんがいる。みっちゃんは私を、いつも勇気づけてくれる」
ドクンッ。
心臓が跳ねる。それを合図に、黒い靄が一斉に捌けていった。
綺麗に浄化されたように。胸の奥に潜んでいたものが一瞬で解き放たれた。
同時に奥の方からこみあげてくるものは、熱だ。
「そっか」
もっと言いたいことはあったのにやっと振り絞れたのは情けないほどの相槌だった。
それをどう捉えたかはわからないが、沙也がいつものように砕けた雰囲気へと戻って「急に変な事を言ってごめんね!帰ろっか」と場を濁した。
三月は立ち尽くしたまま、先行く沙也の背中を見ていた。
「そういえばね、おじさんが新作を考えたんだって。みっちゃん、この間メロンゼリーにはまってるって言ってたよね?新作、メロンを使ったババロアなんだって!みっちゃんも食べにおいでって言ってたよ」
(そうか。そうだったんだ)
(いや、わかってた。きっと気づかないフリをしていた)
(でもわかっちまった。もう見ないフリなんてしない。絶対逃げねえ)
「ねえ、聞いてる?みっちゃんってば!」
(オレは、おまえが、)
(沙也の事が、)
「うん。好きだよ」
三月は歩き出した。晴れ晴れとした表情で、沙也の元へと向かって真っすぐに、迷いのない足取りで。
「よかった!おじさんに伝えておくね!……わっ」
彼女はあどけない笑顔で三月を向かい入れたが、小さな段差に気が付かずに躓き、大きくよろめいてしまった。
三月が差し伸べた手にも気が付くことなく、そのまま派手な音を立てて転んでしまった。
受け身を取った右手のひらにはうっすらと血が滲んでいたが、指は無事だった。
沙也はほっと胸を撫でおろして立ち上がり、三月と再び帰路につく。
気が付けばあたり一面は、すっかり夜闇に包まれていた。