01
夢を見た。
夢と疑うほどに現実的だったのは、昔の記憶が入り混じっていたからだと思う。
高校2年生の春。烏野総合運動体育館。
写真コンクールのモデルを引き受けてくれた影山クンを撮影するために私はここに来た。
もちろん影山クンだけじゃなく、烏野高校バレー部の皆の事も。それが武田先生と交わした約束だったから。
ようやく馴染んできた制服を着こんで、大切な相棒のカメラを携え、意を決して開いた扉の先に立っていたのは、予想だにしない人物だった。
「徹くん!?」
「やっほー、葵ちゃん。久しぶり」
「なんでここにいるの?」
「ひどいなあ、葵ちゃん。別に俺がどこに行ったっていいでショ」
「だってこの時、徹くんはここにいなかったはずなのに」
「なんだよそれ。せっかく葵ちゃんが俺に会いたがってるだろうなって思って来たのにさ」
徹くんは飄々とバレーボールを触りながら何事もなかったようにコートに入り練習を始めた。
高く放り投げたボールを追い、助走の勢いを託した高いジャンプをして、圧巻な程の高打音を響かせ、凄まじいサーブを打つ。
「相変わらずかっこいいなって思った?」
「うん。思った」
「ふふーん。そうだろう、そうだろう。何度でも惚れ直してくれたまえ」
「はいはい。もう数え切れないくらい惚れ直してますよ」
懐かしいな。
こうやって軽口を言い合って、何でもないことを笑って、時々、ふとした瞬間に優しく愛おしそうな目でこちらを見つめてくる。
そんなところが好きだった。
とっても、とっても、大好きだった。
「葵ちゃん」
なんて夢だ。
何もこんなところまで再現しなくていいのに。
私の頬をなぞる優しい感覚も、深みを持った眼差しも、悲しいほど、切ないほどにすべてが鮮明で、煌めいて見えて、それでいて、
「ごめんね」
無情で、残酷なほど現実的な記憶を映し出す。
「俺は――……」
「……い、おい、……か?……い、おい!!」
「ッ!!」
何の前触れもなく、一瞬で目の前の風景が様変わりした。
ジワジワと大きな音を重ね合う蝉の声。全身を覆うじっとりとした生ぬるい空気。
両肩には私のものとは違う、別の熱。
これは知らない人の手だ。
私は今、知らない人に両肩を揺さぶられている。
「よかった。生きてる。おいあんた、大丈夫か?」
「徹……くん?…………じゃ、ない」
「誰よその男」
昼ドラのセリフみたいな鋭い返しが飛んできた、と呑気な事を考える。
いや、違う。そうじゃない。私は今、一体どこで何をしていたのだっけ。
「とりあえずこれ飲んで。起きれるか?」
見知らぬベンチに横たわっていた私は、介抱されながらゆっくりと体を起こした。
途端、重力に任せて滝の様な汗が湧いて出る。尋常じゃない量に驚いていたのもつかの間、続けて視界がぐにゃりと歪んだ。
「っと、危ねえ。大丈夫?少しずつでいいからゆっくり飲んで」
瞬時に支えてくれた頼もしい手のおかげで、私は倒れこまずに済んだ。それだけでなく、丁寧にキャップまで外した冷たいペットボトルを差し出してくれる。小さな優しさをかみしめながら、かぶりを振ってそれを受け取った。
口に甘いスポーツドリンクの味が広がったかと思うと、喉からお腹へ一直線に冷たい感覚が走った。あまりの気持ちのよさに思わず小さなため息が零れる。
とてもおいしい。体に染み渡るうまさとは、こういう事を差すのだろう。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。徹くん?じゃなくてごめんなさいね」
いつもみたいに笑えるような元気はなかったけれど、冗談めいた返しに思わず頬が緩んだ。
ゆっくりと辺りを見回して、混乱した頭を整理する。
私は今、東京に来ている。大学のオープンキャンパスに参加するためだ。夜は若利くんと夕食の約束をしている。
オープンキャンパスが予定よりも早く終わったので、休憩がてらこの公園に寄ったことを思い出した。
暑さのピークは抜けたし、日陰だから大丈夫だろうと、ベンチに腰掛けてうたた寝をしたあたりから記憶がない。
夏バテ気味でここ数日寝不足が続いていたし、今日は食事も碌に口にしていなかったので、それが原因だろうという事は容易に推測できた。
完全なる自己管理不足。
知らない人まで巻き込んでしまった罪悪感と居た堪れなさが交互に襲い込んでくる。
「本当にすみません……」
「気にすんな。今日暑かったし」
宥めるような穏やかな笑顔につられて、思わず頬が緩む。
なんでいい人なんだろう。体調が戻ったらちゃんとお礼をしよう。
体感で30分ほど経っただろうか。眩暈と頭痛が先ほどより大分和らぎ、少しずつ余裕が出てきたところで、ベンチに僅かな振動が走った。
彼の携帯電話がメッセージを受信したらしい。
「……クロさん?」
「へ?」
「メッセージ、ちょっとだけ見えちゃって。あなたの名前ですか?」
画面から”クロ”という単語が覗き見えたので聞いてみたけれど「人の携帯を覗き見できる元気はあるのかい」と、遮るように何かを顔面に押し付けられてしまった。
鼻をくすぐったのはせっけんと柔軟剤の香り。私に押し付けられたのはタオルだと、ワンテンポ遅れて理解した。
「まずその汗を拭きなさいよ。熱中症の次は夏風邪ひいちまうぞ」
「はい。ありがとう、ございます」
借りたタオルは長年大切に使い込まれているものだとすぐわかった。この人もスポーツをやってきた人なのだろう。身長も高そうだし、もしかしてバレーかな。
(葵ちゃん。ごめんね。俺は――……)
記憶というのはどうして思いがけないタイミングで蘇ってくるのだろう。
“バレー”という言葉に反応したのか。それとも先ほど見ていた夢の影響か。どちらにしても今思い返す記憶でないことは確かだ。
邪念を振り払うようにタオルを顔から外す。
心なしか視界はさきほどよりもクリアだ。
「ありがとうございます。おかげさまで少しだけど、調子が戻ってきました」
「そうかい。でもまだ顔色悪いし、もう少し休んでいきなさいよ」
時刻は若利くんとの待ち合わせ時間まであと30分をきっている。
スマートフォンを取り出し、若利くんへ体調が悪いので夕食はまた今度にしたいとメッセージを送ったら、送信後間も無く、折り返しの電話が来た。
「もしもし、若利くん?」
『葵、今どこにいる』
「今はね……笹木公園。笹木駅の近くの。ベンチで休んでるところ」
『わかった。迎えに行くから、そこから動くな。すぐ着くと思う』
「別に大丈夫だよ。先に家に帰っ……」
私の言葉を最後まで聞かないまま、一方的に会話が終了する。
様子を見かねて、クロさんが「どうした?」とこちらを伺った。
「夜に会う約束してた人に断りの連絡を入れたら、今から迎えに行くって電話を切られちゃって。忙しい人だから迷惑かけたくないのに」
「何言ってんの。君を心配してくれてるんでしょ。こういう時は甘えなさいな」
「そういうものですかね」
「そういうものです」
傾き始めた陽に照らされるクロさんの横顔に既視感を覚えた。
私、前にも似たような光景を目にした気がする。
どこだっけ。私、前にこの人に会っていたっけ。
「あの、クロさんってバレー部でしたか?」
「唐突な質問だねえ。なんで?俺の事、知ってんの?」
「なんとなく見覚えがあって。私、よくバレーの試合応援に行ったりしてるので、その時に見かけたのかもって思って……」
「へえ。応援、ね」
クロさんの真っすぐな眼差しが私を捉えた瞬間、何かが鼻をかすめた。
これは、春の香りだ。
「俺の記憶では、応援というより写真を撮りに来ていたように見えたけど?」
「……!」
蘇る記憶。夢ではない、本当にあった記憶。
高校2年生の春――GWの最終日。
影山クンを撮るために行った、烏野総合運動体育館。
そこにいたのは、徹くんじゃなくて。
そこにいたのは――……
「葵。誰だそいつは」
牛島若利。
私の従兄でもあり、本日の待ち合わせの相手がこちらを睨むようにして立っている。
「若利、くん!」
突然の登場に驚き詰まった声を戸惑いと捉えたのか、何かを勘違いしたであろう若利君が私を引き上げた。
「どなたか知らないが葵が迷惑をかけたようですまない」と小さく会釈をする若利君はただならぬ圧を放っていて、それに気圧されたクロさんは「いえ、そんな大したことは……」と視線を泳がせている。
「違うんだってば、若利くん!あのね、この人は私を助けてくれてね、」
「話ならあとで聞く。とりあえず帰るぞ」
「今聞いてってば!ちょっと!」
半ば強引に若利くんが私を連行する。
現役バレーボーラーの力強さに適うはずなどなく、クロさんに弁明する間もないまま、引きずられるようにして公園を去るのだった。