02

黒尾は思い返していた。高校3年生の春の事を。
烏野高校との1番最初の練習試合――……そこで彼女に出会った。
正確には出会ったというより、見かけたが正しいが。
体育館に不似合いな制服姿で、華奢な体格に反したゴツイ一眼レフカメラを首に下げて走る彼女は、その空間にはとても異質な存在だった。



「マネージャー、1人辞めたの?ほら、写真撮ってた子。練習試合の時にいたろ」

合同夏合宿の休憩中、ふと彼女の事を思い出して澤村に尋ねると、「ああ、水瀬さんね」と水分補給の合間に零した。息継ぎのような小さいため息をついて、澤村は続ける。

「あの子はマネージャーじゃないよ。他校の写真部の子」
「他校の写真部?じゃあ何しに体育館に?」
「影山を撮りに。水瀬さんは影山の中学の先輩で、昔からモデルを頼まれてるんだと」
「へえ。あの影山を」

そう言われ、帰り際に2人が近しい距離間で話しているのを見かけたのを思い出した。
試合ではあれだけ荒々しかった影山が気を許しているように見え、印象的だったのだ。
されど、その程度の存在。
黒尾には全く関係のない存在。

そんな彼女に東京で再会する事になるとは。





「これが、事実は小説より奇なりってヤツか」
「何?急に」

偶然鉢合わせた練習帰りの弧爪研磨と帰路につきながら今日あった出来事を思い返していたら、零すつもりがなかった独り言が漏れ出てしまった。
研磨は怪訝そうな表情でこちらを見ている。

「いやあ、今日あったことが濃くて。嘘みたいな本当にあった話なんだけど。お前、覚えてる?烏野と最初に練習試合した日、写真撮ってる女子がいたの」
「……薄っすら?確かにいたかもしれない」
「その子が笹木公園で倒れてるところに偶然出くわしてさ。幸い無事だったんだけど、知り合いが迎えに来てくれるっつーことになって、一緒に待ってたら、来たのがウシワカだったのよ」
「ウシワカってあのウシワカ?」
「そ。あの3本指のウシワカ」

ぱちぱちと瞬きを繰り返す研磨が少しの間空を見つめたかと思うと、ポケットからスマートフォンを取りだして言った。

「そのウシワカを連れてきた子って、水瀬さん?」

突き出されるスマホに映るは受信メール画面。
送信者には研磨の友人である、”日向翔陽”という名前が浮かんでいる。

『水瀬さんが連絡先を知りたいって!
たぶん、黒尾さんの!』
「たぶんってなんだよ」

思わず突っ込まずにはいられなかった。この場に日向はいないのだから、突っ込んでも仕方がないのだが。
そうこうしている間に再び研磨のスマホが着信を知らせた。送信者は日向翔陽。返信をしていないのに、重ねてメールを送ってきたようだ。

『タオルの事、謝りたいって!』

言葉足らずのメール文に黒尾は思わず失笑する。
「メールでもチビちゃんは相変わらずだな」という黒尾に、「いつも翔陽はこんな感じだよ」と研磨が淡々と返した。
メール文には続きがあり、下段に彼女の電話番号とメールアドレスが記載されていた。
研磨が軽やかな手つきでスマホを操作すると、数秒後には黒尾の携帯が震えた。日向のメールを転送したらしい。

「クロから連絡するって伝えておくけど、いいよね?」
「お、おう。いい、けれ、ども」
「なんで?嫌なの?」
「いやぁ、なんつーか、面倒ごとに巻き込まれないかなってね。自分の身を案じて」
「大丈夫でしょ。向こうから知りたいって言ってるんだから」

黒尾は今日出会ったウシワカの様子を思い返し、ため息をついた。
口から出るお礼の言葉にそぐわない、こちらを牽制するような、明らかに敵意のこもった鋭い眼差し。あまりの迫力に肝が冷えた感覚が蘇り身震いする様を、研磨が不思議そうに覗き見ていた。



帰宅した黒尾は自室で携帯を構えた。出来るだけ当たり障りのない文章を心がけて作ったメールは、自己紹介と労りの言葉を添えた簡素なものとなった。意を決し送信ボタンを押した途端、一仕事終えたような解放感が溢れ、黒尾は深いため息をついた。
ベッドへ大の字で倒れこみ、天井を仰ぎ見る。半分ほど下りた瞼が疲労感を物語っていた。浅い呼吸を繰り返すにつれ黒尾の瞼が落ちていく。
しかし、安息もつかの間。数秒後には睫毛が勢い良く跳ね上がった。
部屋いっぱいに鳴り響いた着信音が、黒尾を飛び起こさせたのだ。

「もしもしッ!」
『こ、こんばんは。突然ごめんなさい。今、大丈夫でしたか?」

黒尾は一瞬停止した。反射で相手を確認することなく押してしまったので、頭が追い付かなかったのだ。この声には聞き覚えがあった。昼間に会った少女の声だ。

「水瀬サン?」
『はい、水瀬葵です。どうしても直接話したくて電話をかけちゃいました』

驚きと安堵で小さくため息を漏らした。彼女の声が公園で会った時よりも生気に満ちていたからだ。

「体調、さっきより良くなったみたいで」
『はい!おかげさまで。本当にありがとうございました。タオル、借りたまま帰ってしまってごめんなさい。黒尾さんが良ければ、またお会いできませんか?タオルのお返しもかねて、お礼させてほしいです』
「別に気遣わなくていいのに。宮城からわざわざ来てるんでしょ?いつまで東京いんの?」
『予定では明日までなんですけど、帰っても予定は特にないので大丈夫です。知り合いが東京に住んでるから融通は利くので、黒尾さんのご都合を聞かせてください』

“知り合い”というワードに固まった。
黒尾の脳裏に再び現れるは、あの鋭い眼光。
きっと彼女が言う”知り合い”はウシワカの事ではないのだろうかと黒尾は冷や汗をかいた。
その“知り合い”という単語には、”コイビト”というルビが振られているのではないのか、と。

黒尾の間に何かを感じとったのか、葵は慌てて言った。

『知り合いって、従兄ですよ!今日会った、牛島若利です。私の従兄のお兄ちゃん!』
「……イトコ?」
『はい!若利くんは兄貴分なんです。ちょっと、過保護気味な……』

『葵。誰と電話をしている。早く寝ろ』と受話器の遠くの方で声がした。昼間に黒尾が聞いたウシワカの声に瓜二つ、否、本人の声だ。『わかったってば!おやすみ!』と籠った葵の声が続く。しばらくして近くなった声が戻ってきた。

『ごめんなさい。若利くん、黒尾さんの事を誤解して、失礼な態度をとってしまって。もとはと言えば私が体調を崩したのが一番悪いんですけど……』

“知り合い”という単語のルビが”イトコ”に代わり、思わず緩んだ笑いが溢れた。
やけに親密そうだった距離感と、威圧的な牽制も腑に落ちる。大切な身内を知らない男から守るためだったのだ。

『あっ、牛島若利、知ってます!?』
「知ってる知ってる。ウシワカさん、相当な有名人だから」
『そうですよね。よかった。若利くん地元でも相当有名だから、つい認知されてる提で話しちゃう癖があって』
「にしても従兄弟ねえ。正直彼氏かと思ったワ」
『それ、よく言われるんです。若利くん、昔から過度に私を守ってくるというか……って、こんな話したいんじゃなくって!今は黒尾さんの予定を聞きたいんでした!』
「いいじゃん。ウシワカトーク、もっと聞かしてよ」
『だめです。たくさんあってお話しきれないので、続きは次にお会いした時にでも』

黒尾がスケジュールを確認しようとした手を止めた。途中、何かを思い付いたようだった。

「水瀬ちゃん、春高は観にくるつもり?」
『春高って、1月の?』
「そう。烏野が勝ち上がる事を見越しての話だけど、もし来るならその時に会おうや。まあ、俺らの後輩が勝ち上がる事を見越しての話でもあるけれども。烏野が勝ったら来るんでしょ?」

期待していたものとは裏腹に、返ってきたのはしばしの沈黙だった。
電話なので向こうの顔が見れないという事が、黒尾を焦らせた。ましてや親しくもない子だ。何か地雷を踏んでしまったのかも知れない。

『……受験勉強が上手くいってたら、行くと思います』

消え入りそうな声だった。それを打ち消すように、打って変わった覇気のある声で葵が続けた。

『でもいいんですか?大分先になっちゃいますけど』
「いいのいいの。俺よりも自分の事を優先しなさいヨ、受験生」
『ふふ。ではお言葉に甘えさせていただきます。近くなったらまた連絡しますね。おやすみなさい』
「おう。おやすみ」



通話を終え、解放感から細長い息を吐く。
腫物を扱う気分だった。黒尾の直感が言う。あの意味深な沈黙は、触れてはいけない”壁”ではないかと。
……否、ただの考えすぎだろう。1月は受験目前の時期。単純に受験を不安に思っての間かもしれない。
気にしない。気にしない。
黒尾は自分に言い聞かせる。

ふと本棚の冊子に目が止まった。自分が出場した年の春高のパンフレットだ。まるで見てと黒尾に訴えかけるような存在感があった。すっかり部屋の一部となったそれが気になることなど、普段はないというのに。
パンフレットを手にし、適当にページを捲る。パラパラと乾いた音が走り、止まった。留まったのは選手名簿のページだ。

「違うんかい」

烏野高校の名簿一覧を見て、黒尾は呟く。
心当たりのあった人物の名前は影山"飛雄"だった。
彼女のこばした"徹くん"はどこにも見当たらない。
直感が再び騒ぎ出し、好奇心を奥へと仕舞い込む。

本棚に戻された冊子は、本に埋もれて見えなくなった。