だって、私の目の前には、

割入れた卵と塩をよく混ぜる。ボウルと菜箸がぶつかりコツコツと音を立てる。
予め熱していたフライパンにバターを落とす。泡立ちながら形が崩れ、溶けたバターが一面に広がった。
今だ。意を決し、ピストルを合図に走り出すかのような気持ちで、私はボウルをフライパンに向けて傾けた。

バターを覆い隠すように、ジュウ、と音を立てて卵が広がっていく。
左手でフライパンを、右手で菜箸を操り、細かい円をたくさん描くように忙しなく動かした。
額から滲んだ汗がこめかみを通って滑り落ちていく。
あと少しだ。今度こそうまくいく。今度こそ!!



はっとした。
カランカラン、と聞きなれたベルの音が私の意識をフライパンから扉へと強制的に向けたのだ。
集中していた糸がぷつんと切れ、半ば放心状態のようになった。
肩の力は抜け落ち脱力した腕。間抜けに開かれた口。
刷り込み学習のように覚えた「いらっしゃいませ」の言葉さえ出てこない。

「すみません。ドアが開いてたものだから、やってるのかなと思って。でも……キミの反応からすると、違ったみたいだね」

あの人だ。
名前も知らない、あの常連さんだ。
久しぶりの、かつ突然の来店に驚き動きが制止した。
ゆっくり視線をフライパンに戻すと、卵にはすっかり火が通り、私が思い描いていた物とはだいぶ違う形で焼きあがってしまっていた。

降ってきた盥に頭を打たれたような気持ちだ。
肩を落としながらコンロの火を止め、常連さんへと向き直った。

「申し訳ございません。本日は臨時休業となってまして」
「そうですか。残念だけど仕方ないですね」
「せっかく久しぶりに来ていただいたのに、申し訳ございません」

「いえ」と常連さんは肯くように言った。
踵を返したのが見えたので「またのお越しをお待ちしております」と深々と頭を下げる。
ベルの音が鳴れば頭を上げる合図。これも幼い頃からの刷り込み学習のうちの1つだ。

本当に久しぶりだったのにな。
常連さんが来てくれた事を嬉しく、また残念に思う自分がいた。

本日は父が人間ドックのため、臨時休業となっていた。
先日の診断結果で一部異常があったため、急遽再検査を受けに行く事にしたのだという。
近所の常連さん達は来店頻度が高いので事前に伝える事が出来たけど、この人は常連といえど不定期に来店されているので、伝えるチャンスなどなかった。
そもそもどこに住んでいるかも、名前も、職業さえも知らないのに。



カランカランと合図が鳴り、頭を上げて驚いた。
いつしかのように、常連さんは扉をただ開けて閉めるだけして、一歩も動く事なくそこにいた。
常連さんは薄く笑い、言う。

「ねえ、キミは作れるの?オムライス」

“オムライス”という色気のない単語にどきりとした。
やっぱり似てる。
この人と九条天はそっくりだ。

「練習中です。お客様にお出しできるレベルでは……」
「なんで?すごくおいしそうじゃない」

しまったと思った。恥ずかしさが立ち込めてくる。

カウンターには私が作ったオムレツがずらりと陳列していた。
どれも失敗作で、先ほど5つめのカチコチオムレツが仕上がったばかりだった。
顔から火が出る思いというのはこういう気持ちなのだろう。
穴があったら入りたい。思わず視線が下に落ちた。

「こんなにたくさん、キミ1人で食べるの?」
「いえ……今日の晩御飯にしようかなと」

「ねえ」と常連さんが言った。
不思議と顔を上げてと言っているように聞こえた。
誘われるように顔を上げると、眼鏡のレンズ越しに穏やかな弧を描いた優しい目元が、こちらを捉えてた。

「ボクに1つ分けてくれない?仕事終わりでお腹がペコペコなんだ」
「ええ!?そんな!!ダメです!!」
「このまま帰ったら途中で倒れてしまうかも……ダメ?」

言葉の裏に「いいよね?」と有無を言わせないような圧を感じた。
私は負けた。
渋々と常連さんの特等席まで移動し、「どうぞ」と椅子を引いてもてなす。
「ありがとう」と常連さんは笑い、ゆっくりと椅子に腰かけた。

失敗作の中から一番ましな、見てくれのいいオムレツを取り、フライパンで軽く温めてから、別で作っていたチキンライスの上へとオムレツを落とした。
包丁で切れ込みを入れるが、思い描いたような柔らかな卵の雪崩は起きない。
頑固にもチキンライスの山の上で居座る様に君臨している。
理想と現実の差を見せつけらえれ、私は再び大きく肩を落とした。

「あの……本当にいいんですか?だって見た目も不格好だし……全然お父さんのようには……」
「いいってば」
「でも……」
「キミ、意外と頑固だね」

常連さんは笑った。
まるで日が差したかのように、光が透け通ってるかのような笑顔で。

「ボクはキミのオムライスが食べてみたいって言ってるの」

予期せぬ言葉。ぶわっと、全身に鳥肌が立った。
トレーからカトラリー、盛り付けたオムライスを丁寧に差し出した。
デミグラスソースでごまかした、けれど卵の存在感が依然として消えないままの、不格好なオムライスを。

「いただきます」

カトラリーからスプーンを取り出す。卵とライスをバランスよく掬い上げられ、溢れたデミグラスソースが数滴したたり落ちた。
ゆっくりと口の中へとそれが運ばれて行き、姿を消す。
口からスプーンを引き抜き、ゆっくりと咀嚼する。

持っていたトレーで顔を隠しながら覗き見るように常連さんの動きを見た。
怖いもの見たさ。見たいけど見たくない、そんな気持ちだった。

視線がぶつかる。
飲み込み終え、小さく息をついた唇は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「うん。おいしい」


宙に浮いた。
シンプルな、たった4文字の言葉に舞い上がった。
再び全身に走る鳥肌が心地よかった。
お世辞でもよかった。
私の作ったものを”おいしい”と言ってくれる人がいる。
それだけで天にも昇る思いだ。

「ありがとう。本当においしかったよ」

あっという間に皿は空になった。それがまた嬉しくて、涙が出そうになるのを必死でこらえた。
トレーがあってよかった。涙を塞き止め真っ赤になった鼻を隠すことが出来たから。
声を出すと涙が落ちそうだったので、せめてもの表現としてかぶりを振った。



「ところでこの間のCD、ちゃんと謝れた?」

喜びを噛みしめていたら突然大きく話が転換したので、「へ?」と間抜けな声が出た。
あまりにも突然だったので、おかげさまで涙も引っ込んでしまった。

「新しいCD、見つかったの?」
「いえ。探し回ったけど見つからなかったです」
「そう。……じゃあこれ、今日のオムライスのお礼にってことで、どう?」

常連さんは鞄から何かを取り出し、私へと差し出す。
よくわからないままそれを受け取り、ビニール袋から中身を取り出して驚いた。

それは私が探し求めていた『DIAMOND FUSION』の初回限定版CDだった。
あれほど喉から手が出るほど欲しかったCDが、この手の中に!!今!収まっている!!

「何?それだけじゃ不服なの?」

何を思ったのか常連さんはこちらから軽々とCDを引き抜いた。
その先の行動に再び驚きを隠せず、まるで石化したかのように私は硬直する。

「ステージの上以外でのファンサービスなんて、普段はしないんだけどね」

再び返されたCDにはマジックペンで書かれたサインが浮かんでいた。
さきほどはなかったはずのサインが、なぜか数秒の間に突然姿を現し、色濃くケースの上に浮かんでいる。

「お友達って、この間一緒に番組観覧来てた子?」
「なんで……知って……」
「やっぱりキミだったんだ。それにその反応……本当に今まで気づいてなかったんだね」

被っていたキャスケットと眼鏡がテーブルに置かれる。
驚きすぎて頭が正常に稼働しない。
見開きすぎて目尻が痛い。開いた口が塞がらない。
これは現実なの?夢なの?
何が起こっているのか全く持ってわからない。
だって、私の目の前には、

「初めまして……でもないか。改めまして、九条天です。今日はおいしい”オムライス”をどうもありがとう」

満足げに、楽し気にこちらを見て笑い、聞きなれたイントネーションで”オムライス”と言う、"TRIGGERの九条天"がいたのだから。
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