眠って、眠ったふりをして




その芝生は輝かしいほど、それはとてつもなく青かった。





「轟くん?」

目の前の人物を目にして、平然を装うかのように必死で取り繕った。
その人物は大して気にも留めない様子で、「ああ」とだけ呟く。

雄英高校ヒーロー科1年A組、轟焦凍。
私のクラスメイトだけど、そんなに親しい間柄ではない。
時々、極たまに、挨拶を交わしたりする程度。
そんな人物が今、目の前で辺りをキョロキョロと見回して佇んでいる。

「隣座る?」
「いいのか?」
「うん。どうぞ」

陣取っていた荷物を膝の上へ移動し、スペースを確保する。
その隣に轟くんはゆっくりと腰を下ろす。
清潔感のある、石鹸の香りが鼻を掠めた。

「轟くん、バス通だっけ?」
「いや。今日はちょっと用があってな」

隣にと誘ったはいいが、普段そんなに話す相手でもないため、変に気まずい空気が流れる。
何を話せばいいのだろう。いや、話す必要はないのか。
けれどこの何とも言えない間は、私にとってはとても重苦しく感じる。

「ごめん。ちょっと眠いから寝ていい?」
「ああ。どこで降りるんだ?」
「終点だから、大丈夫」

「おやすみ」そう挨拶をして、瞼を閉じた。
逃げるが勝ちとはよく言ったもので、私はそれに転じる事とした。
あの轟くんが隣に座っている。
それはとてつもない、私にとってのビックイベントだ。



轟くんを認識したのは、入学してすぐのヒーロー基礎学。
圧倒的な力を発揮した轟くんは、一気に話題の中心になった。
平平凡凡な個性の私からしたら、轟くんの個性はとても魅力的に映って。
ああ、私もこんな風になりたいな、なんて憧れの気持ちを抱くようになった。


『次は―――前。お降りの方は降車ボタンを……』


何度目か分からない車内アナウンス。
あれから随分と時間が経ったーー……はずだ。
目を瞑っているだけだというのに、1分1秒がとても長いように感じる。
視界が遮断された途端、聴覚や嗅覚がやけに研ぎ澄まされているように感じ、些細な物音も気になってしょうがない。
隣の轟くんは携帯電話を操作しているのか、画面を弾く音が小さく聞こえてきた。

ガタン、ガタン。
バスは私たちを運びながら揺れ動いていく。
道に合わせて車体が大きく動き、それに合わせて私たちの体も揺れ動く。
右カーブを曲がった反動で、私の体は右側――……轟くんの方へと大きく動く。





隣の芝生は青く見える。
そんなことわざを身をもって知ったのは、あの日の帰り道だ。

「遅い」
「ごめんね。先生に呼び出されちゃって……」

素っ気なく、不愛想に言い放つ轟くん。
その左隣に肩を並べて、幸せそうに笑う女の人。
その光景を目にしたとき、まるで時が止まったかと思った。

私にはわかってしまった。
轟くんの顔が、他の人の時よりも優し気になった事を。
素っ気ない態度を取っていても、とても愛しそうに女の人を見ている事を。
だって、ずっと見ていたんだ。

轟くんの横顔を。
轟くんの後姿を。
轟くんの事をずっと、ずっと。

憧れの気持ちから変わってしまったこの思いを恋と呼ぶのだと、そう気づくのに時間はかからなかった。
だからこの思いに蓋をすることにした。
頑丈に、鍵をかけて、胸の奥深くにしまい込むことにした。

「苗字」

それなのにどうして、今になってこんな事が起きるのだろう。
カーブを曲がった反動で、私の体は轟くんの肩にもたれかかっている。
本当は起きてしまえばいいのに。

「……寝てるか」

こんなに近くで……耳元で響くテノールの声が、私の固く閉じた思いを簡単にこじ開ける。
轟くんの香り、体温、息遣い。
私は今、好きな人に触れている。
憧れ続けたあの女の人の特等席――……彼の左隣に座って。

脳裏に浮かぶのは、優しい表情を浮かべている轟くん。
それが私に向けられない事を知っていながらも、願ってしまう。
いつか轟くんが私の事を好きになってくれないかって。


(轟くん。あなたが好きです。)


届かないとわかっている、この恋心を。
告げられない思いを、そっと胸の中で囁く。

ちゃんと自分から思いを告げてなんていないくせに。
最初から諦めているくせに。
そんな卑怯者の私が、ここにいる資格なんてないってわかっているけれど。
またちゃんと、しっかりと頑丈に蓋を閉めるから。
今はどうか、こうしている事を許してください。


バスはまた大きく揺れながら、ゆっくりと私たちを目的地へと運んでいく。
つかの間の幸せと知っていながらも、とびきりの甘美な夢を味わいながら。
私の密かな恋心を、そっと、温めて。