01


「ユウ、俺だ。入っていいか?」
「はい、どうぞ」

約束の時間ぴったりにオンボロ寮の扉がノックされる。わたしはいつも通り、彼が来るのを玄関で待っていた。声をかけられ扉を開けると愛おしい恋人がそこで笑っている。右手に袋を提げながら。

「わあ、またケーキ作ってきてくれたんですか?」
「ああ。なんだと思う?」
「ショートケーキ」
「正解」
「ふふ、わたしの好物ですからね。トレイ先輩のショートケーキ」

そんなことを言いながらわたしとトレイ先輩は連れ立って歩き、部屋へと向かう。グリムは?と聞かれたのでもう寝ましたと答えた。彼が来る時は、いつも違う部屋で寝てもらっている。
わたしはいつも通りトレイ先輩がケーキの入った箱を袋から取り出す横で、小皿とフォーク、それから既に用意していた紅茶を並べた。そう、全てはいつも通り。これが最後の逢瀬であるということ以外は。

・・・明日、わたしは。元の世界へ帰る。


ふたりで食べる小さめサイズのショートケーキを、慣れた手つきでトレイ先輩が切っている間わたしはティーカップに紅茶を注ぐ。ショートケーキのときは2人ともお砂糖もミルクもいれない。それも、いつも通り。いつものこと。
ほら、とトレイ先輩がケーキを入れたお皿を渡してくれた。わたしは笑顔でお礼を言いながらティーカップを渡す。
準備が整った後、いただきますと口を揃えて言うようになったのはいつ頃からだっただろうか。ずいぶん昔のようで、ごく最近にも思う。

わたしはショートケーキにフォークを入れて、パクリとひとくち口にいれた。苺の酸味と生クリームの甘みが口いっぱいに広がって、ほうとため息をつく。


「·····わたし、トレイ先輩の作るショートケーキが世界でいちばん好きです」

せめてこれだけでも、元の世界に持って帰れたらいいのに。そんなことを思っていると、トレイ先輩が優しい目をしながら言った。

「嬉しいよ。まあお前の好みになるように作ってるからな」
「えっ!?」

そんなことできるんですか、と目を丸くするとトレイ先輩はくくっと笑う。


「そりゃまあそれが手作りの醍醐味みたいなもんだからな。甘さの調整だったり好みの種類の苺を使ったり」
「はえ・・・」

そうだったんだ。ぜんぜん知らなかった。いつも通り、いつも通りと思っていたけれど·····そのいつも通りの中に、こんな大ニュースが隠されていたなんて。
頬に熱が集まるのを感じる。きっとこれは耳まで真っ赤になっているだろう。トレイ先輩がどうした?と首を傾げた。どう答えていいかわからなくて目線をさ迷わせるも、この雰囲気では言わずにはいられないなぁとわたしは観念して口を開く。


「·····わたしそんなに甘やかされてたんですね。知らなかった」
「別に甘やかしていたつもりはないんだけどな」
「・・・トレイ先輩なしで生きていく自信がないです」
「そうか」

困った人だ。悪いひとだ。こんなにも優しくどろどろに甘やかしてわたしをだめにしたくせに、本人はいたって飄々としている。
ふたつ年上のトレイ先輩は、いつもなんだかずっと大人に見えた。その背の高さも穏やかな声も優しい微笑みもキリッとした目つきも。ぜんぶぜんぶ、かっこよくて憧れだった。となりにいるのに、こんなにも愛してくれているのに、釣り合っていないと。わたしなんかにはもったいないひとだとずっと思っていた。


「·····ユウ」
「はい」
「帰るなよ」
「・・・ごめんなさい」

トレイ先輩がわたしの手を握る。このてのひらが、すきだった。指が長くて細くて綺麗なのに、骨ばっていて。大きくて、あたたかくて、安心する手だ。いつだってわたしが迷った時に、そっと握ってくれる。

「どうしてもか」
「どうしてもです」
「·····だよな。はー、力ずくで邪魔できるならしてやるところなんだが、さすがに先生にはばれるだろうしなあ」
「ちょっと怖いこと言わないでくださいよ」
「冗談だよ」

トレイ先輩は眉を下げて笑った。ぜんぜん冗談に聞こえない。でも、もし、本当に邪魔してくれるのなら·····なんて考えそうになるのをやめてわたしも笑顔を作る。けれども唇がうまく動いてくれなくて、ちゃんと笑えていたのかはわからない。
もしもわたしが、大人だったら。バリバリ働いて、ちゃんと自立していて、このひとに縋るだけでなく一緒に手を繋いで生きていけるような人間だったら。この世界を、このひとの手を、選べたのかなあ。


「いろんなことがあったな」
「はい」
「楽しかったか?」
「それはもう。トレイ先輩のおかげで」
「そうか」

あ、と思う前にトレイ先輩は立ち上がりわたしの腕を引く。まだショートケーキを食べ終えていないのに。これを逃したら、もう二度と食べられないのに。そう思って視線をテーブルに落としたのがバレたのだろう。トレイ先輩はまたくつくつと笑ってわたしを抱きしめた。

トレイ先輩がわたしの頭に顔を埋める。あたたかい息を感じた。背中に回された腕も、どくんどくんと脈打つ心臓も。ぜんぶぜんぶ手放せない。手放したいわけがない。
けれどもわたしは帰らないといけない。だってわたしはここにいたらダメになってしまうから。自分の力で生きることすら知らないまま、ずっとこのひとに甘えて縋ってしまう。戸籍、身寄り·····何も無い中で、きっとあなたの重荷になるだけだろう。あなたなしでは生きられなくなって、あなたに迷惑をかけてしまうだろう。
ここはわたしの住む世界じゃない。この夢幻のような物語に、終わりが来た。


・・・わたしは元の世界に帰ったら、ここでの記憶をすべてなくしてしまう。


胸がいっぱいで言葉を失いただひたすらトレイ先輩のにおいを吸って息をしていると、彼がおもむろに口を開いた。


「·····なあユウ」
「はい」
「届けに行ってもいいか?」
「えっ?」
「ショートケーキ。いつか、お前の世界へ。届けに行ってもいいか?また会いに行ってもいいか」

思いもよらない言葉にわたしは目をぱちくりとさせる。トレイ先輩の表情はわたしからは見えない。だけれど声で、わかる。トレイ先輩が本気だって。


「・・・わたしが元の世界へ帰ったら、もうその道は封鎖されるって学園長が言ってました」
「なら違う道を探せばいい。俺は魔法が使えるんだから」
「で·····できるのかな」
「やるさ」

トレイ先輩が優しくわたしの肩を押して、そっと体を離す。そしてわたしとトレイ先輩は向かい合い、見つめあった。からし色の瞳がわたしを捉えて離さない。何かを期待したようなあさましい顔をしたわたしを映すこの目のことも。明日になれば、忘れてしまうのかなあ。


「·····記憶をなくしてしまっても?わたし、ぜんぶ、忘れちゃうんですよ」


震える声でわたしは言う。この言葉すら縋っているようでみっともない。どこまで情けなくなってしまったんだと自己嫌悪で胸が苦しくなった。しかしそんなわたしの髪を、トレイ先輩は優しく一撫でする。


「・・・脳みそは忘れていても体が覚えてる、ってのはよくある話でな」
「わっ、」

突然体を持ち上げられてわたしはそのままベッドへ運ばれた。えっお姫様抱っこ!?とびっくりしているわたしを他所に、彼は淡々と続ける。


「·····俺はケーキ屋の息子だからな、そういう場面にはよく出くわしてきたんだ。ほら、お前にも経験はないか?記憶はないけどなんとなく懐かしい、ってやつ。五感が覚えてるんだ」
「せ、せんぱ·····」

そしてベッドにたどり着き、トレイ先輩はわたしをそっと寝かせてゆっくりと組み敷くように覆いかぶさってきた。鋭い目に、射抜かれる。彼がわたしの頬を指でなぞる。


「本当にお前が俺のことも、ケーキのことも忘れられると思うか?」
「・・・ッ、すごい自信ですね」
「自信?まさか」

願っているだけだよ。そう笑った後トレイ先輩はそっと唇を重ねてきた。いつも通りの柔らかさ、いつも通りの甘い味。わたしはそれを少しでも体に刻みつけられるよう、全神経を集中してトレイ先輩を味わった。今でもなお、それでもなお、世界でいちばん愛しい人よ。この世の果てでいつかまた、どうか出会えますように。



























ーーー・・・終わりの瞬間は、一歩一歩。噛み締めるように、確かめるように、足を動かした。これが元の世界に通じる扉だと学園長に見せられたそれは傍目には何の変哲もない鏡で、なんだか現実味がわかない。けれども空気で感じる。もう、この夢物語に終わりが来たんだと。

みんなとのお別れを済ませ、わたしは自分の足で終焉に向かう。この鏡を通り終えたら、いまのわたしは死んでしまうのだろう。


いろんなことがあった。すべてが愛おしくてたまらない。涙をこらえることができない。それでも進まないといけない。一歩一歩。一歩一歩。一歩一歩。一歩一歩。


「ユウ」

そこで、凛とした声がした。
ゆっくりと振り返ると、トレイ先輩が涙こそ流さないものの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。


「待ってろ」

その言葉にわたしは曖昧な笑顔を返し、そこからはもう二度と振り返ることもなく鏡に向かっていった。思い出す。思い出す。トレイ先輩とのすべてを思い出す。なんでもない日のパーティーのあと、たまたまトレイ先輩とふたりきりになって送ってもらうことになった。そしてそこで、薔薇の迷路で、好きだと言ってもらった。


『好きだ』
『お前が別の世界の人間だなんてわかってる』
『それでもどうしようもないくらい好きなんだ』

丁寧に、少し照れながら、それでもしっかりと紡がれた言葉。わたしはそれらを心の宝箱にいれては、何度も取り出して救われた。

いつかは違う世界に帰る人間だからと、自分は何もできないからと、気持ちを押し殺そうとするわたしの手を彼は握る。

『俺と一緒に生きてほしい。一緒にいられるだけで幸せだよ』

それは最強の殺し文句だと思った。


もうとっくに落ちきっているのに、それでもなかなか頷かないわたしに。彼は毎日のようにケーキやお菓子を作っては寮まで遊びに来てくれた。お前が根負けするまで続けるぞと笑うトレイ先輩は、いったい自分が何者で、きょうまでどうやって生きてきたのかすら曖昧になっていたわたしの光だった。

そんな彼を手放してまで、元の世界に帰る意味はあるのか。彼の言うとおり、ただそばにいるだけで幸せなんじゃないだろうか。何度も繰り返したその問いに答えが出ることは一生ないだろう。あんなに何度も抱きしめられ、口付けをし、体を重ねたのに·····結局元の世界に帰るわたしを薄情だと罵ってくれたらいっそよかったのかもしれない。

・・・けれどもあなたはいつもわたしを甘やかすから。そんなことはしないんだ。



(どうか、どうか、幸せでいて)
(わたしはあなたを忘れてしまうのかもしれないけれど)
(それでもすべての瞬間は確かに存在していたから)



もしも次に会うことができるなら、そのときは。あなたすら包み込み、甘やかすことのできるような大人の女性になれていますように。

このままこの世界にいては、わたしはトレイ先輩に縋るだけになってしまうから。こんなちっぽけな異世界人が、あなたをずっと幸せにすることなんてきっとできない。ちゃんと元の世界に帰って、しっかり自分の足で立って生きて。いつかあなたを一生幸せにできるような、そんな女になれますように。·····帰ることでもう二度と会えなくなるんだとしても。いつかあなたとすれ違ってしまうよりマシだ。それにあなたには、わたしなんかよりもっと素敵なひとが絶対にいるから大丈夫。

そんなことを考えながら、わたしは最後の一歩を踏み出そうと右足を上げた。愛する人よ、どうかどうか。世界でいちばん、幸せになってください。・・・さようなら。