06

トレイくんのいない日常に慣れるのに、そんなに時間はかからなかった。そもそも一緒にいた時間はさして長くなかったし、さすがに翌日は一日中屍のように過ごしたけれど仕事が始まってしまえば物思いにふける暇もなかった。
おいしかった朝ごはんがコンビニやスーパーで買った菓子パンやトーストに戻り、お弁当がテキトーなランチになり、夜ご飯がテキトーなコンビニご飯や雑な手料理になっただけだ。

トレイくんのいない世界で生きることには慣れている。日にちが経てば経つほどに、あれは都合のいい夢だったのではないかと思うようになり始めた。ときどき自分のスマホで揺れる亀のキーホルダーを指でつつく。君のかたわれがあのひとを幸せにしてくれていたらいいなあと、願う。


そうこうしているうちにあれからもう数カ月が経過していた。会社の先輩とは何度か飲みに行き、恐れ多いことにアプローチをしていただいている真っ最中だ。けれどもどうにも気持ちが乗らない。トレイくんを引きずっているから、というのもあるかもしれないけれど、一番は“先輩に憧れていたのはトレイくんに似ていたから”だと気づいてしまったからだ。わたしは十年間無意識でトレイくん探しをしていて、たまたまそこで先輩と出会ってしまったのだろう。ショートケーキと同じ。トレイくんと比べてなんだか違うと思ってしまう。中途半端な態度は失礼だしと丁重にお断りを重ねているのだが、部署も同じだしなんだかんだでかわされてしまっている。·····このまま流されてしまうのもひとつなのかなあ、と季節が変わったときに思うようになった。

友達とは酔いつぶれてお金を立て替えてもらっていたこともあり少ししてからまた集まって、謝りながらお金を返した。トレイくんについて根掘り葉掘り聞かれたけれど、もう国に帰ってしまったと言うと優しく慰めてくれた。わたしがトレイくんを想っているのはバレバレのようだったけれど、みんな八個も年下の他国に住む学生に恋をしたってどうしようもないから会社の先輩でとっとと手を打てと言ってきた。まあ、わかる。わたしがわたしの友達だとしてもそう言うだろう。だよね、と笑いながらわたしはノンアルコールカクテルを飲んだ。しばらくお酒は飲まない。トレイくんとも約束した。



「ふう・・・」

トレイくんのいない日常は、退屈だ。心をかき乱されることもなければ、泣くこともドキドキすることもない。退屈だ、なんて言ったら相変わらず忙しい仕事やアピールをしてくれている先輩に申し訳ないけれど。それでもやっぱり、心のどこかに空洞を感じる。

事故の後遺症なんかじゃなくて、単純にずっとトレイくんのことを求めていたんだと思うとなんだか少し恥ずかしくて苦笑した。


わたしは今日も相変わらず、馬鹿みたいな量の仕事を抱えて残業をしている。




「お疲れ様。まだかかりそうか?」
「あ、先輩。うーん、そろそろ帰ろうかなあとは思ってるんですが」
「手伝うよ。せっかくだしそれから飯でも食いにいかないか」
「えっ·····」
「今日は別にデートの誘いでもなんでもないから。牛丼でいい?」
「・・・はい。それなら」

居酒屋は断るけど牛丼はOKってほんと変わってるよなあ、と先輩は笑う。このひとと過ごす時間も随分と長くなってきた。知れば知るほどトレイくんとはぜんぜん違うひとだとわかる。トレイくんの影を先輩に求めないなら、このひとは本当に、最適なひとだと思う。正しい幸せに、迎える人だと思う。


そしてそれから三十分程わたしと先輩は仕事をし、このへんでいいだろうと切り上げた。付き合ってくださってありがとうございましたとお辞儀をすると、気にするなと笑ってくれる。優しい、いい先輩だ。付き合ってもたぶん、大事にしてくれるだろう。
そんなことを考えながら帰る用意をする。と、そこでスマホがぶるりと震えたので何の気なしにホーム画面を見て驚いた。業務中で気づかなかったけれど、いつもの友達とのグループラインにめちゃめちゃ通知が溜まっている。

「どうした?」
「あ、いや·····なんか友達とのグループラインが大賑わいで」
「俺ちょっとこの資料片付けてから戻ってくるからゆっくり見ときなよ」
「わ、ありがとうございます」

そして先輩がいなくなるのを見送り、グループラインを辿る。するとこの間婚約が決まった子とは別の子がプロポーズされたと報告していた。めでたい。
わあおめでとう、と思いながら彼女の文章を読み、そこでわたしはびっくりして画面をスクロールする指が止まった。彼氏さんの仕事の関係でふたりで外国に住むことになるらしい。どうやら彼氏さんの外国行きが決まり、それについてきてほしいとの形でプロポーズされたみたいだ。

滅多に会えなくなるけど帰ってきたら遊んでね、の言葉にわたしは胸がきゅっとする。すごいなあ。この子は。ぜんぶ捨ててついていけるのか。異世界と外国じゃ、話が違うのかもしれないけど。
おめでとう、寂しくなるね、外国に行く前にまたみんなで集まろうね。そんな言葉をなんとか打って、わたしはスマホをカバンに仕舞った。少しだけ胸がざわざわする。やっぱり後悔しているんだろうか。
·····ううん、あれで正しかったはず。あの選択は間違っていない。そう言い聞かせていると先輩がお待たせと言いながら戻ってきた。わたしは笑顔で返事をする。













「へー、すごいなあその友達。俺には無理」


ふたりでカウンター席に並んで牛丼を食べながら先程の友達の話をした。するとそれを聞き終えた先輩が間髪入れずにそう言ったから少し驚く。


「・・・なんで無理だと思うんです?」
「いや、普通に自信がない。まあ自分が外国に行くから彼女についてきてほしい、となれば俺も同じようにプロポーズするだろうけど·····俺がついていく立場だったらキツイかなあ。幸せにしてやる自信がない」
「幸せにする自信?」
「ああ。ま、やっぱり男としては満を持して好きな女を幸せにしたいしな。彼女が外国で働くことになってそれについて行って·····とかはなんか情けなくて無理だなあと思う。まあ男女差かもしれないけど」
「なるほど」

たしかに、先輩の言わんとすることはわかる。わたしも彼氏について外国に行く·····っていうのはまだ想像しやすいけれど、外国で働くことになったから彼氏に着いてきてもらうっていうのはいまひとつイメージができない。そもそもなかなかそういうケースって少ないだろうしね。

「でも彼女についてきてもらったら嬉しいんですよね」
「そりゃ嬉しいさ、めちゃめちゃ嬉しい。絶対全力で幸せにする、俺はついていけないけど」
「勝手だなあ」

お茶を啜りながら笑うと先輩も笑った。·····幸せにする自信、かあ。わたしがもしも外国に行くとして、それについてきてくれるならそれだけでめちゃめちゃ幸せだ。そばに居てくれるだけで本当に嬉しい。きっとその選択を取ってくれたってだけで幸せだろう。

·····どうなるかわからない未来のことで二の足を踏んで手を離したりしないで、勝手に自信をなくしたりしないできっとただそばにいて欲しいと思う。


(・・・トレイくんも同じ気持ちだったのかなあ)



十六歳のわたしも二十六歳のわたしも、ただトレイくんといっしょにいたかったのに自信がなくて選べなかった。好きで、好きで、好きだから。ちゃんと幸せになってほしかった·····幸せにしてあげたかった?
幸せになってほしいと願うのは、思うのは、いつだって簡単だ。わたしは結局自信がなくて逃げ出してしまいたかっただけだったのかもしれない。そのくせ選ばなかった道というものは消えてくれずいつまでも心の中に残る。あの瞬間から今日まで、彼を選んでいればと思わなかった日はない。

・・・ダサいなあ。



「·····でも。ついて行かなかったら一生後悔すると思いませんか?ついて行かないってことは別れるってことですよね。たとえばもうそれで二度と会えなくなったら?そのときは、先輩はどう·····」
「お前と付き合う」
「え、」


うじうじした疑問を先輩にぶつけると、思いもよらない言葉が返ってきてわたしはびっくりして目を見開いた。先輩の顔を見て、目をぱちくりする。


「・・・いつまで別の男のこと引きずってるのかわからないけど、俺たちの会社に海外転勤なんてないし。そろそろ俺と付き合わないか?けっこう待ったと思うんだが」
「·····せんぱい・・・」
「忘れられないって言うなら忘れさせてやるけど。どうだ?·····って、牛丼屋で言うセリフじゃないな」

そう言って先輩は苦笑する。早く出よう、と彼があと少しだけ残っていた牛丼をかっこんだのでわたしも食べるペースを上げた。·····忘れる。忘れられる、のか?いや、絶対に忘れることはできない。一生忘れられないし、忘れないって約束もした。

でもわたしはこの現実世界で生きていかなきゃいけないんだ。


先輩が牛丼を食べ終わった数分後、わたしもすべて平らげてごちそうさまですと手を合わせた。出るか、と先輩が立ち上がったのでわたしもそれに続く。会社からほど近いこのあたりは、夜でもいくつも店が開いていて人通りも多い。けれども誰もわたしたちを見てはいない。トレイくんへの気持ちを胸に抱いたままこのひとと付き合ったとしても、誰もわたしを糾弾したりしないだろう。・・・でも、わたしは。わたしが見ているのだ。誰が見ていなくてもわたしは見ている。中途半端なことをしたらトレイくんに顔向けできないと、二度と会うこともないだろうに、思ってしまっている。


「·····なあ、改めて言うけど。俺と・・・」
「ごめんなさい」
「まだなにも言ってないんだが」
「・・・ごめんなさい」

先輩は困ったように笑う。ああ、この表情はやっぱりトレイくんに少し似ている。だからずっと憧れていた。こんなに違う人物だとわかっているのに、わたしはどうしたってトレイくんを探してしまう。·····そんなこと、先輩にもトレイくんにも申し訳なくて、絶対にいけない。


「·····そんなにいい男だったのか、そいつ」
「はい」
「即答かあ。俺もなかなか優良物件だと思うんだがなあ」
「·····はい」

その通りです、と頷くと先輩はぽんっと手のひらをわたしの頭に優しく置いた。ドキドキする。ドキドキするけれど、結局それでもわたしが思い出すのはトレイくんの手のひらなんだ。


「·····ま、頑張れよ。じゃあ明日からは普通の先輩後輩な」
「はい、これからもよろしくお願いします」
「ああ。じゃ、気をつけて」

先輩はそう言ってひらひらと手を振りわたしに背を向ける。わたしは少しだけその背中を見送って、それから駅に向かって足を進めた。
頑張れよ、かあ。先輩はやっぱり優しい。でも残念なことにわたしには頑張る方法がない。トレイくんを思いつつもなんとか生きていく、それくらいしかない。まあ、幸せじゃなくても生きていくことはできるしなあ。だからといっていまの自分が不幸だとまでは思わないけど。
・・・トレイくんに会うまでは不幸ぶっていたのに。本当に、何もかも、あのひとに会って変わってしまった。


「はあ・・・」

月を見上げる。暗い夜、星もろくに見えないような場所だけれど、それでも月はいつだって綺麗だ。でもあの日見た月を忘れられない。トレイくんといっしょに見た、満月でも半月でも三日月でもない中途半端なあのお月様がいちばん綺麗だった。あのひとがいないと満たされない。あのひとがいないとわたしは欠けたままなんだ。·····だからといってもしもいま、またトレイくんに出会えるとして。その手を握れるのかと言われると微妙なんだけど。

どうして友達のあの子は握れたんだろう。どうして外国に行けるんだろう。トレイくんが住んでいるのが異世界じゃなくて外国だったらついていけていたかなあ。いやでも結局ムリな気もする。昔のわたしだったらあのままずぶずぶに甘やかされて自立できないダメ女になると思っていたし、いまのわたしも8個も年下の男の子といっしょになるなんてできっこない。ダメだと思う、無理だと思う、不可能だと思う·····けど。

考えがまとまるよりも先にわたしはその友達に電話をしていた。



「どうしたの?アンタが電話してくるなんて珍しいね」

数コールのあと彼女はそれを取ってくれた。わたしはほっとするも、言いたいことをまとめられていなかったので少し焦る。えっと、と一生懸命頭を回してなんとか言葉を紡いだ。

「いや、グループLINE盛り上がってたのにわたし仕事でまともに祝えなかったから申し訳なくてさ。本当におめでとう」
「えー!そんなのぜんぜん気にしなくていいよ〜、どうせ仕事だろうと思ってたし。でもありがとう、お疲れ様」
「ありがと」
「もうけっこう遅いけどいままで残業してたの?」
「あ、いや。残業はしたけどそのあと先輩とご飯食べてた」
「えっもしかして前に言ってた人!?あれからどうなの」

楽しそうに聞かれて、あーーー·····と口ごもる。ハッピーな状態の彼女に、いま振ったところ!とはちょっと言いにくい。それにこれから聞くことはどうしても、トレイくんのことを連想させるだろうからなおさらだ。少し悩んだ末、テキトーに誤魔化すことにした。


「んー、一応ちょくちょくご飯行ったり飲みに行ったりはしてるよ。でもちょっとこう、まだ付き合うとか考えられなくて」
「えーもったいない!いままでみたいにとりあえず付き合っちゃえばいいのに」
「はは、社内恋愛だとそうもいかないって。·····あ、そういえばさあ。さっきその先輩にも友達が彼氏について外国行くんだって話したんだけどね」
「うんうん」
「すごいなあって言ってたの。俺にはできない、って。·····わたしもすごいなあって思う。なんでできるの?」

この質問は無粋だろうか。そう思いながらもわたしは聞かずにはいられなかった。電話越しに友人がうーんと少し考えるような声を出す。わたしは彼女が口を開くのをごくりと唾を飲みながら待った。

そしてゆっくりと彼女が言葉を紡ぐ。



「·····ありきたりな答えになるけど、後悔したくなかったんだよねえ。そりゃ大変なことも多いだろうし、ついていったからって幸せになれるとも思ってないんだけど·····っていうか絶対友達とか家族もいて勝手のわかる土地でいいひとと見つけるのがベストだと思うんだけどさ」
「うん·····」
「でもこのひとといっしょにいなきゃ一生後悔するよなって思った。ま、何が正しいかなんて死んでからしかわかんないしね!もし大失敗だったって泣きながら帰ってきたらそのときは受け止めてね」
「·····うん、もちろん」

笑いながら言う彼女に、わたしも笑顔で答える。笑顔で答えるけれど、なんだかその彼女の元気が眩しすぎて、少し涙が出そうだった。
ああ、わたしも。こんなふうに、なれたら。


「·····トレイくんだったっけ」
「え、」
「まだ引きずってるんでしょ。わかるよ、友達だもん。·····なんか単純に外国人とか年の差がどうとかってだけの問題じゃなさそうなものをなんとなく感じるんだけどさあ」
「・・・」
「黙ってるってことは図星でしょ。まったくほんとにわかりやすい·····。あのね、これはわたしだけじゃなくてみんなそうなんだけど。ぽっと出の男より絶対アンタのこと大切に思ってるから、できれば堅実に確実に幸せになってほしいのよ」
「·····ありがとう」
「でもわたし達がアンタを幸せにするったって、どうしてもできることは限られてるからさ。アンタは難しいこと考えず、いまの自分がいちばん幸せになれる道を選ぶのがいいんじゃないかな」

そう言って笑う旧友の声はとても優しくて。


「いいじゃない、ダメだったらダメだったときで。案外なんとかなるってこと、もうわたしたちわかってるじゃん?初めて会った時からもう十年も経った大人なんだからさあ」


そうだ。もうわたしは高校生の女の子じゃない。友達は一生の伴侶を決めた。他国にまでついていくと決めた子もいる。わたしもそれなりに、恋愛だって仕事だっていろいろ経験してきた。もう、知っている。なにがあっても案外なんとかなることも。そして、大人になっても時間が経っても消えない後悔というものもあることを。
トレイくんがいなくてもわたしは生きていける。だけど、わたしはやっぱり。トレイくんと一緒に生きたい。


「ありがとう、元気出た!」
「うん、よかった」
「ちょっとどうなるかわかんないけど、どうなっても心配しないでね!どうにもならない可能性のほうが高いけど!」
「んん·····?うん、わかった」

わたしはもう一度勢いよくお礼を言い、電話を切る。同時にトレイくんとお揃いの亀のキーホルダーが揺れた。

わたしはそれをぎゅっと握りしめる。



「・・・トレイくん」


会いたい。


「トレイくん、会いたい」


魔法が使えないわたしが唯一できるのは願うこと。思うこと、考えること、祈ること。別に今回だけで叶うなんて思わない。何度でも、いつか世界が通じるまで。何度でも何度でも祈るから。トレイくんにまた会えるその瞬間まで、何度だって願うから。


素敵なひとと幸せになってほしいだなんてウソだ。臆病もののかっこつけだ。本当は、わたしが君と幸せになりたい。

君を、幸せに、したい。



そう思った瞬間目の前に透明な扉が現れた。びっくりして後ずさるも、特にこちらにアクションを起こしてこないのでわたしはそろそろと近づいた。ガラス張りの扉だ。それはしっかり磨かれていて中が綺麗に見える。


「ケーキ屋さん·····?」

その向こうにはぽつぽつとケーキが並べられたショーケースが置いてあった。数が少ない。閉店間際なのだろうか?
そんなことを思いながらその扉の奥を目で追う。すると、そこにいたのは。


「トレイ·····くん・・・?」

真っ白なコックコートに帽子を被ったトレイくんだった。·····けれども、わたしの記憶の中のトレイくんとは少し違う。歳を・・・取ってる?もしかして10歳くらい成長してない!?

えっかっこいい·····。もともと大人っぽかったし色っぽかったけど、大人になったトレイくん、色気がやばい·····。まじ?大丈夫?あれもう五人くらい彼女いますって言われてもわたし信じちゃうんだけど·····。えっていうかまじで十年経ってるなら、いまさらわたしがのこのこやってきたって迷惑なだけじゃない!?どうしよう·····この扉開けたらたぶん向こうの世界に行けるんだと思うけど・・・。

あんなに意気込んでいたくせにいざ目の前にして悩んでいると、突然目の前に知らないおじさんの後ろ姿が現れた。えっ何!?とビビって変な声が出る。背が低めで小太りのおじさんだった。少し向こうにいるトレイくんは、そのおじさんを見て困ったように笑う。そしてわたしはピンときた。あの顔はきっと、迷惑な客に対応しているんだ·····あのおじさん、たぶんクレーマーだ!!!

ハラハラしながら見守っているとやっぱりおじさんはトレイくんを指さしながら何かをずかずかと言い、トレイくんはペコペコと謝っている。声こそ聞こえないものの、完全にわかる。クレーム対応してるよトレイくん!!!なに!!!なんで!?トレイくんに文句言うとかどういう了見なの!!!!!
思わず拳に力が入ってしまう。トレイくんに嫌な気持ちをさせるひと、本当に許せないんだけど何!?そう思っているとそのおじさんはショーケースのケーキをこれとこれといったふうに注文し始めた。これから買うんかい!!!買った際に何か問題があってクレームしに来たわけでもなくこれから買うの!?なに!!なんなの!!!!!

トレイくんは言われた通りに箱にケーキを詰め、会計を終えてそのおじさんに渡した。おじさんはそれを受け取り、わたしに向かって·····いや、ドアに向かって歩いてくる。しかし顔はこちらを見ておらず、トレイくんのほうを見ながらまだ文句を言っていた。いやケーキ買っておきながらいちゃもんつけるってどういうこと!?トレイくんがペコペコと頭を下げているのが見ていられない。あのおじさん!!!何回も言うけど!!!ほんとなんなの!!!!!

そう思っているうちにおじさんはわたしの目の前にたどり着き腕を伸ばす。そして消えていった。·····やっぱりこの扉は、トレイくんの働いているケーキ屋さんに繋がっているんだろう。
トレイくんがわたしの目の前で頭を下げている。あのおじさんの見送りのためだろう。この薄い扉一枚隔てた先にトレイくんがいる。心臓がドキドキして破裂しそうだった。
すっとトレイくんが姿勢を戻し、同時にコック帽を取る。そして疲れた顔でため息をついた。心配で胸がきゅっとする。思わず扉に手が伸びた。でも、やっぱり・・・臆病な自分が嫌になる。どうしてわたしには勇気がないんだろう。·····そう眉を寄せたときだった。


「・・・え?」


最後の最後まで尻込みしてしまう情けないわたしの視界の端で。

あのときトレイくんにプレゼントした、わたしの手の中にもいる亀の片割れが揺れた。トレイくんが胸元に差してあるボールペンらしきものにひっついているのだ。


それを見た瞬間。わたしの体は勝手に動いて。


ギィ、と音を立ててその扉が開く。トレイくんが慌てたように帽子を被りながら口を開いた。


「すみません、もう閉店で・・・!·····え?」
「ほ、ほんとにつながってた·····」
「ユウ·····?」

トレイくんがわたしの姿を捉える。久しぶりに聞く声は、少し震えていて。


「トレイ、くん·····。えっと、あの·····」

久しぶり、そう言おうとした瞬間。トレイくんにぐいっと腕を引かれて、わたしは抱きしめられた。

トレイくんの、においがする。甘いケーキのにおいもする。ああ、好きだ。好きだ好きだ好きだ。このひとを諦めて生きるなんて、わたしには無理だったんだ。


「お前·····どうやってきたんだ·····?」
「なんか·····めちゃくちゃトレイくんに会いたいと思ってたら·····来れちゃった·····」
「はは·····魔力がない、なんて信じられないな・・・」

痛いくらいにトレイくんがわたしの体を抱きしめる。そしてそのあと少しだけ体を離して、トレイくんは両の手のひらでわたしの頬を包んだ。


「·····会いたかった。本当に、ずっとずっと会いたかった」
「トレイ、くん·····」
「まさかお前から来てくれるなんて思わなかった」


そう言ったトレイくんの瞳に涙が溜まる。わたしもそれを見てたまらなくなって、胸が痛くて苦しくて、視界が滲んだ。


「·····あのとき、いっしょに来れなくてごめんなさい·····わ、わたし·····とれいくんのこと、幸せにする自信がなかった·····」
「・・・うん」
「いまもない、ぜんぜんない·····なんかトレイくん大人になっててめちゃくちゃビビってる、他にいいひといるんじゃないかって諦めそうになった、だけどなんか、クレーム対応して疲れてるトレイくんと、この・・・このお守りの亀見たら、勝手に体が動いちゃった·····」


ごめんね、ごめんね。そう言いながらしゃくりあげて泣くわたしの涙をトレイくんが指ですくう。それでもわたしはまたトレイくんに会えた喜びだとか、とんでもないことをしてしまったのではないかという恐れだとか、いろんな気持ちがごちゃ混ぜになって泣き止むことができない。
そんなわたしをトレイくんは優しく笑い、もう一度抱きしめた。


「·····来てくれて嬉しいよ。お前以外にいいひとなんているわけないから安心しろ。まあだからこいつがここについてるんだが」
「と·····トレイくん·····」

トレイくんは優しく笑って胸元の亀を指で弾く。わたしはそれが嬉しくてしゃくりあげた。


「それにあのお客さんはクレームをつけてたわけじゃないんだ。俺を引き止めてくれてた·····俺がこの店を辞めるから」
「えっ?」
「ここ、親父の店なんだ。順当にいけば俺が継ぐことになっていたんだが·····技術はもうしっかり身につけたし、後継の育成もまあできたし。今月いっぱいで辞めることになっている」

しかし、突然の話にわたしはびっくりして涙が止まる。そしてトレイくんを見上げた。


「な、なんで?なんで辞めちゃうの?」
「ん?決まってるだろ、お前の世界に行くためさ」
「・・・え?」
「お前の世界で店を出しても十分戦えるレベルに腕は磨いたからな。だから今度はお前の世界に行こうとしてた·····ら、お前が先に来てくれたんだが」


びっくりだよ、とトレイくんが笑う。え·····。え?それ、それって、つまり。


「と、トレイくんがわたしの世界で生きようとしてくれてた、ってこと·····?」
「ああ。昔は若かったからな、お前に来てもらうことだけ考えて単純にそっちに行ったんだが·····着いたらお前は年上になってるし、仕事も頑張っていて友達にも愛されてるし。そんな簡単な話じゃなかったと気づいたんだよ。とはいえ帰り際は離れ難くてごねたがな」

いま思うと恥ずかしいな、とトレイくんは笑う。そして続けた。


「それでよく考えて、まずはどっちの世界でもお前を幸せにしてやれる力を身につけないといけないと思った。·····で、まあ家庭的にこれが手っ取り早かったからケーキ作りの腕を磨いたってわけだ」

俺のケーキは相当うまいから最近は引き止めてくれるお客さんがひっきりなしで参ってるよ、とトレイくんは笑う。


「だから心配しないでいい。俺は大丈夫だから。·····帰り際、お前に幸せになってほしいと言われてずっと幸せについて考えてたんだが·····やっぱりお前がいないと無理だよ」
「トレイ、くん·····」
「俺といっしょに生きてくれるか?ユウ。世界はこの際どこでもいいから」

トレイくんの笑顔が優しくて。わたしは何度も頷いた。そんなわたしにトレイくんは笑いながら、あのショートケーキもさらに上手くなったぞと言う。毎日食べさせてくれる?と聞いたら当たり前だよと髪を撫でてくれた。

夢、みたいだと。思った。


「ねえ、本当に?本当なの?これ夢じゃない?」
「それはこっちのセリフだ。夢じゃないよな」
「夢だったら困る」
「俺も困る」

そう言ってわたしたちは見つめ合い、どちらからともなくキスをした。優しい口付けだ。甘い口付けだ。そうだ、このひとだ。わたしはやっぱりずっと、このひとを求めて生きていたんだ。

トレイくんがわたしを抱き寄せ、そっと優しく手を握る。そのあたたかさと匂いに包まれまた泣きそうになった。そうしているとトレイくんがじっとわたしを見下ろしてまじまじと顔を見てくる。


「·····俺の方はあれから十年経ったが、お前はあんまり変わらないな。あのあとどれくらいになるんだ?」
「三ヶ月くらい·····かな。十年、長かったよね・・・ごめんね」
「いま全部報われたよ。·····とはいえ実はひとつ根に持ってることがあるんだ。言っていいか」
「えっなに」

やっぱりあのとき選べなかったこと怒ってる!?それともなかなか思い出せなかったこと!?いやもしかして家事させすぎたこと!?なんていろんな心当たりが浮かんでおろおろしていると、トレイくんは少しだけ唇を尖らせて拗ねたように言った。


「一生懸命実験を重ねてようやく愛しの恋人の元に辿り着いたと思ったら、元彼の服を着させられたのは十八の俺にはわりとこたえたぞ。記憶がなかったとはいえ」
「・・・あ゛」

そういえば·····と口元を引き攣らせるのを見てトレイくんはにやりと笑う。

「今夜は寝られると思うなよ」
「・・・ハイ。」

十年ぶりのトレイくんとの夜なんて、わたし死んでしまうんじゃ·····。そう思って震えていたらトレイくんがまたキスをしてきた。それが無性に愛おしくて、思わず大好きだよと口にする。トレイくんはわたしの両頬を優しく包んでわたしをしっかりと見つめ、俺も好きだよと微笑んでくれた。このあたたかい手をもういつでも握れるんだと思うと、やっぱり涙が溢れてとどまることを知らない。

五感全てを一生あなたで満たさせていて。たとえどんな困難があっても、あなたのとなりにいる以上の幸福なんてこの世にはないのだから。

世界でいちばん愛してる