「かしこまりました」
いったいどうしてあのエース・トラッポラとかいう男はチェリーパイなんてものを好むんだろう。九月ってさくらんぼの時期じゃないから店頭になかなか並ばないんだよなぁ。そんなことをぼんやり考えながら運ばれてきた水で喉を潤す。薔薇の王国じゃ今がちょうど旬だったのかな、と一瞬思ったけれど、あいにくちっとも覚えていなかった。何年も前に住んでいた異世界の、訪れたことすらない国のことなんて……いつまでも覚えていられるわけがない。
ツイステッドワンダーランド。それは高校一年生の頃の私がなぜかトリップしてしまった不思議な場所だった。今ではすべて夢だったようにすら思えるけれど、そこで私はグリムという魔獣と二人でひとりの生徒として一年程魔法について学んでいた。
与えられた部屋は最初ボロボロだったけれど友人達のおかげでリフォームもできたし、毎日トラブルだらけで大変だったものの飽きなくて、私はもう元の世界になんて帰らずこのままここで暮らしてもいいかなぁなんて思うほどには充実した毎日を過ごしていた。
……なのに、忘れもしない九月二十二日のこと。あの世界でいつも一緒にいたエースが、「明日オレの誕生日だし麓の街で一緒にチェリーパイ食べようよ。あっもちろんお前のオゴリね!」なんて言い出したから、仕方ないなぁと笑って夜に自室でなんの服を着ていくか鏡の前で考えていたとき。突然目の前の姿見が光って、私はえっと声を出す間もなくあっさりそれに呑み込まれた。気づいたらあの世界で過ごした時間なんてすべてなかったことになったかのように、私は“本当の私の自室”の鏡の前に立ち尽くしていたのだ。見た目すら経過した一年を打ち消すみたいに、髪の毛の長さはトリップ以前に戻り、授業で作った擦り傷もなくなっていた。
全部夢だったの、と呆然としてぽろぽろ涙を流す私は、それでも自分の首元で確かに揺れるネックレスに気がついた。それは私の誕生日に、エースが「監督生、男子校に染まってどんどん女らしさとかなくなってるからこういうのでもつけたら?」なんて言いながら寄越してきたものである。チェリーレッド色した石がついたそれは憎まれ口では誤魔化しきれない程にかわいくて、私はそれが嬉しくて、何度も何度もありがとうと言うとエースはついに照れてそっぽを向いてしまった。その赤く染まった耳を愛おしく感じて、あの瞬間私はエースへの恋心を自覚したんだけれど、いつも一緒にいるマブ相手に告白して関係を壊す勇気は持ち合わせていなかったし、何よりもずっと一緒にいるとそのときの私は信じて疑わなかったから、告白を先延ばしにしていた。そんな矢先の帰還だった。
この世界に戻ってからというもの、時間の経過があまりにも早い。それは異世界みたいに新鮮な出来事がないからなのか、トラブルを呼んでくるような友人や先輩、先生がいないからかはわからないけれど、とにかく毎日驚くほど平穏でつまらなくて味気なくて虚しくて。ぼんやりぼんやり生きていたら、あっという間に五年もの月日が経過していた。大人になった私はそれでもやっぱりこの日だけは耐えられず、何もかもの予定をキャンセルしてとびきりかわいい格好をしひとりでチェリーパイを食べに行く。それをしたところで何か意味があるとは思わないし、我ながら虚無感でどうにかなりそうだけれど、せめてこの日くらいこうやって彼の誕生日に浸らないと、頼りない輝きを放つ首元のネックレスだけではツイステッドワンダーランドで過ごした時間を信じられなくなってしまいそうだった。
窓際のカウンター席に座る私は、ガラス一枚隔てた向こうで人々が通りすがっていくのを見つめる。もうカーディガンやストールを着用して秋の装いを楽しんでいる人や、いまだ残る暑さに正直に夏服を着ている人もいてなんだか混沌としていた。そういうのを見ていると幾分気が紛れるから彼の誕生日が秋でよかったな、なんて思う。
ぼーっとそんな人々の群れを見ている間にウェイトレスさんが紅茶の入ったポットを持ってきてくれた。この砂時計の砂が落ちるまで蒸らしてお楽しみくださいね、と声をかけられたので、わかりましたと頷いてサラサラと落ちる砂の流れを見守る。時の流れを可視化するようなそれを見るとなんだか心が落ち着いた。……私の傷心はいつになれば落ち着くのか、過去を受け止められるのか。せめて「この砂が落ちきるほどの時間が経てば諦めがつきますよ」なんてゴールを誰かが提示してくれればいいのに。
「お待たせいたしました。チェリーパイです」
「ありがとうございます」
砂が全て落ち、ポットカバーに手をかけたところでウェイターがチェリーパイを運んできた。運ばれてきたそれは一年目のエースのバースデーパーティーで食べたものよりさくらんぼの色が暗く見えるのでおそらく品種が違うのだろう。あのとき食べたチェリーパイは、さくらんぼが赤々としていてまるで本当にエースの瞳の色のようだった。懐かしいなと一人ため息をつき、フォークを手に取りパイへと伸ばす。……その時だった。
「抜けがけはひどいんじゃないの?」
「えっ」
突然、誰かが背後から話しかけながら肩にぽんっと手を置いてきた。びっくりして振り返るよりも先に、その声が……懐かしい、待ちわびた声が続ける。
「美味そうじゃん。オレにも一口ちょうだい」
そう言って伸びてきた手が私からフォークを奪い取って、パイの先端を切り取った。私はその時には振り返っていて、そして、輝くチェリーレッドの瞳と目が合った。秋の日差しが柔らかく彼のテラコッタ色した髪の毛を照らして、薄い唇は美しく弧を描いているくせに。私が唇を噛み締めて震えた瞬間、彼も堪えられなかったみたいに不格好に口を噛んだ。
「……監督生が、オレとの約束破って勝手にいなくなるから。絶対おごってもらわなきゃ気が済まないと思って、来ちゃったじゃん。こんなとこまで」
「……ッ、」
「なに泣いてんの。久しぶりに会うってのに」
「……エースだって泣いてんじゃん。来るならもっと早く来てよ」
「バーカ。泣いてねえっつの! それにこれでも死ぬほど急いで来たんだぜ? オレの苦労、いまから丁寧に教えてやっからな」
そう言って涙を拭ったエースが笑いながら私の隣に腰掛ける。それだけで五年前、いつも並んで授業を受けていたあの日を思い出した。その瞬間、ずっとこの思い出にしがみついていた私が救われたような気がした。
「……エース」
「うん」
「お誕生日、おめでとう」
泣きながら言う私に、エースは優しく笑って、うんと言いながら私の涙を指先で掬った。言いたいことがいっぱいあったはずなのに、いざ目の前にエースが現れると何も言えなくなる自分がいる。でもきっとエースもそうなんだろう。私たちはただ黙って、どちらからともなく伸ばした手をずっと握っていた。ここに君がいることを、そして私がいることを、ただひたすら確かめるみたいに。
ゴールはここ、君のてのひら