01


君がいなくなったって空は青かった。君が死んだところで、夜も明けるのだろう。


『·····ごめんね。いつかきっと迎えに来るから』


そう言って君は突然わたしの前から姿を消した。十年ぶりに再会した彼は袈裟を纏っていてテンションが高くて、なんだか違う人のようだった。


『それでは皆さん戦場で。·····待たせたね、名前。最高のイヴにしよう』

百鬼夜行を予告した去り際そう言った彼は、本当にわたしが喜ぶと思っていたんだろうか。そして結局、約束は果たしてくれないままで。


「·····アイツ、最期になんて?」
「聞かないほうがいいんじゃない」
「いいから話してよ。全部」
「・・・」

五条の瞳は相変わらず包帯に隠されているからどんな顔をしているのかわからない。彼を思えばいまこんなことを聞くべきでないとわかっているのに、それでも積年募った思いは暴走してしまう。


「·····君に幸せになってほしいって」
「・・・」
「ほら。だから聞かないほうがいいって言っただろう」

泣いたことなんて一度もなかった。あの日、あなたがいなくなってからずっと夢を見ているみたいだった。なにもリアルじゃなかった。なんにも信じられなかった。

初めてぐにゃりと歪む視界に、涙というものを思い出す。


「·····誰がなんと言おうと非術師は嫌いだ。でも別に高専の連中まで憎かったわけじゃない」

必死で涙がこぼれ落ちそうになるわたしに五条は淡々と続けた。このひとはどんな思いでその言葉を聞いて、どんな思いで傑を殺したんだろう。

「ただこの世界では、私は心の底から笑えなかった」

五条の言葉が重く響く。わたしと彼が過ごしたあの日々はいったいなんだったんだ。
ずっと笑えていなかったんだろうか。ちっとも幸せじゃなかったんだろうか。

優しく手を繋ぎ微笑むあなたに、あんなにも愛をもらった気でいたのに。


「·····あとは僕とアイツ二人だけの秘密にしてもいい?」
「·····仕方ないなぁ」

五条がわたしの涙を指で拭いながら言う。このふたりは最強で最高で、唯一無二の親友だった。彼らの中で完結させたいこともたくさんあるだろう。それを考えると、五条に殺された傑は幸せだったのかもしれない。


「·····笑って死んだよ、傑」
「そっか」
「うん」

それがなんの慰めになるのか。わからないけれど言い聞かせるように言う五条にわたしは頷いた。

五条は傑がいなくなって変わった。それがいいことなのか悪いことなのかわたしにはわからない。けれども少しも変わっていない自分がいいわけないということだけはわかる。
五条は呪術界を変えようと教鞭をとった。わたしは流されるまま、呪術師として淡々と任務をこなす無味乾燥な毎日を過ごしている。


·····できることなら昔に戻って何も知らない自分のまま死にたい。君に愛されていると思って笑っていた自分のまま死にたい。どうして何も言ってくれなかったのか。どうして伸ばした手はとってもらえなかったんだろうか。それすらわからないような女だから、捨てられてしまったんだろうか。

幸せになってほしいだなんて、どの口が言うんだ。ほんとなら引っぱたいて頭突きをして泣きわめいて怒鳴ってやりたいのにもう君はいない。


もう、いない。



その日わたしはどうやって家に帰ったのかわからない。気づいたら大量に買い込んだ酒の空き缶とコンビニマークのついたツマミの袋が机の上に山積みになっていた。ぼーっとする頭でテレビ台の上に乗っているテディベアの黒くて丸いビーズの瞳を見つめる。



『よしっ!』
『ほら取れたよ、名前』
『そんなに喜んでもらえるなら取ったかいがあったな。他にも取ってやろうか?』


あの日に帰れたらどんなにいいのか。そう思いながらわたしは瞼を閉じた。


























───────ガコンッ!


突然何か物が落ちるような大きな音がして、おめでとうございます! と甲高い機械的な音が響き渡る。なに、と驚くと同時に隣から聞こえてきた懐かしい声にわたしは耳を疑った。


「よしっ!」
「えっ、」

びっくりしてそちらを見るとタイミング悪く彼は屈み込む。合わない視線、見慣れた黒髪、焦がれた背中。衝撃に言葉も出ないでいると、俯いていた彼は立ち上がってわたしにかわいらしいぬいぐるみを渡してきた。


「ほら取れたよ、名前」

愛おしいあなたが。傑が、笑う。
君が、わたしに。十年捨てられなかったこのぬいぐるみを、手渡す。

「·····? どうしたんだい」

何も言えずに固まっていると目の前の傑が首を傾げた。きょう何度目かもわからない涙がぼたぼたとわたしの頬を伝う。


「えっ!? ちょ、ど、どうしたの!?」
「すぐる·····!」
「うん!?」
「傑·····っ!!!!」

飛びかかるように抱きついたら彼は至極当然という感じで受け止めてくれた。大丈夫、どこか痛いの、なんておろおろしながらわたしの頭を撫でる。大きい手だ。あたたかい手だ。優しい手だ。人を守る手だ。

君に、君に、君に。ずっと会いたかった。


「すぐる·····っ!!!!」
「うん、どうしたの名前、私だよ」

テディベア取れたのがそんなに嬉しかった? 他にも取る? と彼は尋ねる。わたしはふるふると首を横に振って、彼のたくましい胸板に顔を埋めて呼吸をするだけで限界だった。ああ、わたしは、都合のいい夢を見ているんだろうか。起きたらあのアルコール臭い部屋で、うずくまって泣いているんだろうか。

そう思ったら呪いの言葉のひとつでも吐いてやりたくなったのに、わたしの口から飛び出たのはずっと行き場をなくしていた呆気ない本音だった。


「だいすき·····っ!」

一呼吸置いて傑が笑う。わたしの髪を優しく撫でて、その後頭部に口付けてきたのを感じる。

「うん、私もだよ」

それは、本当に?

わたしはそう聞き返してやりたかったけれど、甘く響いたその言葉に水を差す余裕なんてどこにもなかった。

君がわたしの言葉を聞いて同じ思いだと囁いた。夢の中くらいそんな嘘を、噛み締めたっていいじゃないか。
























「·····落ち着いた?」
「ん·····」

泣きじゃくるわたしの手を引いて自販機の前に移動した傑は、そこでミルクティーを買ってくれた。冷たい甘さが体に沁みる。·····やけに、リアルな夢だ。

自販機を利用する客用に解放されたベンチにわたしと傑は並んで腰掛けた。そこで少し冷静になり、改めて彼を見て思う。·····やっぱり、細い。痩せている。この頃にはもうずいぶんと思い詰めていたんだろう。当時のわたしは「夏バテかな」なんていう言葉を信じていたけれど、すべてが終わったいまとなってはこれが傑の唯一出していたサインだったと気づく。

·····今はたしか、三年の夏。君がいなくなる直前の季節。


「で、本当に何もないの? 急に泣くからびっくりしたよ」
「·····テディベアが嬉しすぎただけ」
「名前ってそんなに殊勝な女だったっけ」
「なによ。なんか文句ある?」
「ないけど」

クスクスと傑が笑う。その笑顔を見ていると胸を締め付けられた。

·····心の底から笑えなかったと君は最期に告げたらしいけれど。だったらいまこの瞬間の、その優しい瞳はなんなの。

傑がいなくなった後も散々抱きしめてボロボロになって、それでも捨てることの出来なかったあのテディベアが·····相変わらず暗いビーズの瞳でわたしを見ている。テレビ台の上にいたその子は時々洗濯してやっていたけれど、それでもやっぱり汚れていたのだろう。いま膝の上にいる毛並みと向き合うとふわふわでツヤツヤしていた。·····かわいいね、と思わず呟く。


「そんなに喜んでもらえるなら取ったかいがあったな。他にも取ってやろうか?」
「·····ううん、いい。この子を一生大事にする」
「一生ってそんな大げさな」
「本気だよ。わたし一途な女だから」

ねえ、とそのテディベアに声をかけるとなんだかまた泣きたくなった。けれどもさすがにこれ以上は誤魔化せないよな、となんとか堪えて紅茶を飲む。

·····やけにリアルな夢だと思った。涙が流れる熱い感覚も喉が苦しくなる感じも。傑の匂いもゲーセンの騒音も紅茶の冷たさもぬいぐるみの手触りも。

もしもこれが夢じゃなくて、本当にわたしが過去に戻っているんだとしたら。·····だとしたら、だとしたら。


君をこの呪術師という腐った世界に引き止めることも可能なんだろうか。



「そろそろ帰ろうか。もういい時間だ」
「そうだね」

今じゃもう懐かしいガラケーを見て傑が言う。本当に時が戻ったのなら、このまま止まってしまえばいいのに。


「·····ねえ傑」
「なんだい」
「きょう部屋泊まってもいい?」

そっと手を繋ぎながら言うと、傑は少し驚いたように瞬きをしたあと優しく微笑んだ。


「もちろん。なんだか今日は甘えん坊だね」


ぎゅっと握り返されるこの手のひらが嬉しい。君が笑うたび胸が張り裂けそうになる。

君は本当にわたしのことを好きだったのだろうか。その美しく下がる眦は作り物だったのだろうか。

君が愛おしい。君が愛おしいよ。


できることなら君をこのままここに閉じ込めて、ふたりでどこにも行けなくなってしまいたい。















その夜わたしは当然のように傑に抱かれた。

汗ばむ体、熱い吐息、わたしに触れる優しくて少し意地悪な指先や柔らかな唇。どれもがあんまりにもリアルで、これは本当に現実なのではないかと思いながら彼の腕の中で眠りについた。


目が覚めて浴びるカーテンの隙間から差し込むキラキラとした陽射しや、外から聞こえる蝉の声に·····やはり夢なんかじゃないと確信する。

すうすうと寝息を立てる傑を見て、わたしは勝手に誓った。君をどこにも行かせない。五条に君を殺させたりしない。世界なんて変えさせてあげない。本当の笑顔も知らなくていい。

幸せになってほしいなんて言うならちゃんとそばにいてよ。わたしの幸せは傑なしでは成り立たないんだから。


君が先に勝手をしたんだから次はわたしが勝手にする。そう思いながらまだ眠る傑に擦り寄ると、彼が寝ぼけてわたしの頭を撫でたからやっぱり耐えられなくなってもう一度泣いた。



·····でも傑を引き止める手段にあてがあるわけではない。だってわたしはどうして彼がいなくなったのか明確にはわかっていないのだ。星漿体の女の子のこと、灰原くんの死·····。それらは大きな理由だと思うけれど、前者に関しては後から話を軽く聞いただけだし、灰原くんの死がそこまで傑を追い詰めたとも正直思えない。

だって呪術師に仲間の死は付き物だ。傑もそれをわかっていたはず。星漿体の女の子の件が非術師を皆殺しにする、というのに繋がるのはまだわかるけれど·····灰原くんの死がそこにたどり着く理由がイマイチわからない。
·····彼女のくせに、どうして。こんなにも傑のことを知らなかったんだろうなあ。

ぶんぶんと首を振って両の頬を叩き自分に喝を入れる。後悔はもう散々してきた。そういうのはもうやめにする。いま傑が目の前にいるんだから、この人に向き合わないと。
壁に張られたカレンダーを確認したところ、きょうの日付は灰原くんの命日の二日前だった。ぼーっとしている余裕なんて少しもない。

そう思いながらじっと傑を見つめていると、彼はんん·····と眉根を寄せた後目を開いた。そして少しとろんとした瞳でにこりとわたしに笑いかける。


「おはよう。珍しいね、名前の方が早く起きるなんて」
「んー? ふふ、そうだねぇ。おはよう」

君にまたおはようを言える日がくるなんて思ってもいなかった。·····たとえ君の笑顔を犠牲にしても、わたしはこんな日々を、守りたいんだ。


































「·····なにかあった?」
「え?」
「明らかに昨日までより動きが良くなってる」

一般教養の授業を終えて、いまは体術の時間。傑と組手を始めて数分と経たないうちに驚いたようにそう聞かれた。·····そうか。そりゃ中身は10年前線で呪術師やってたんだから、むしろ今までと一緒なわけないもんな。とはいえそれをそのまま伝えたところでなに言ってるんだ? となるのは目に見えてるし。


「そう? 自分じゃあんまりわかんない」
「本当かい? この違いがわからないってちょっと信じられないんだけど·····なにか内緒で特訓でもしてた?」
「えー? うーん、まあ自主練はけっこうした·····かな?」

もちろんそんなのウソである。けれどもそうとでも言わないと動きの変化に説明がつかないだろう。ていうか実際別人くらい強くなってないと困るし·····。そう思いながらポリポリと頬を掻いていると、傑はじっとわたしの目を見てからぽつりと呟いた。


「·····偉いね。私も名前を見習ってもっと努力しなきゃな」
「えっ」

傑がそんなこと言うの初めて聞いた!!!!

というか情けないことに、十年実践経験を積んでいても組手じゃ普通に傑のほうが強いのだ。昔のわたしは「五条と傑は特級術師のバケモンだからな〜」としか思っていなかったけれど、いま改めて対峙すると圧倒的なセンスの裏にしっかりと積み上げられた努力を感じる。

·····ああ、こういうのも。もっとちゃんと見つけてあげていたらよかったなあ。


「じゃあいっぱい練習付き合ってよ。ちゃんと強くなりたい」
「·····どうしたの、本当に。そんなこと言うキャラだったっけ」
「ちょっと強くなったくらいじゃ傑に太刀打ちできないから、もっと強くなりたいなって思っただけだよ。·····そしたら仮に喧嘩しても役に立つかもしれないし」
「彼氏に暴力振るう気かい?」
「あはは」

こんな他愛ない日常を、どれだけ願ったことだろう。こうやって穏やかで優しい毎日を繰り返して歳をとりたいだけなのに、このままじゃそれは叶わないんだろうか。

傑は旧◾◾村への任務の際に姿を消した。もしもわたしが代わりにそこへ派遣されたなら、彼のトリガーを消すことはできるのだろうか。それともあの集落はたまたまタイミングが重なっていただけで、結局別の任務で同じことが起こるのだろうか。
わたしにはわからない。だからちゃんと知るしかない。目の前の君をしっかりと見つめて、ひとつも見逃さないで。

そう思っていたとき、朝から任務に行っていた五条が帰ってきたらしく軽い口調で話しかけてきた。


「ただいまー。なあちょっと試したいことあるんだけど付き合ってくんねぇ?」

いまではもはや懐かしい昔のこの荒っぽい口調。それにちょっとだけ切なくなりつつ、わたしは傑に続いて答えた。

「ああ悟。おかえり、なんだい?」
「おかえりー」

ゆるく手を上げて返事をする五条。わたしと傑は硝子も交えて三人で、五条の実験に付き合うことになった。手にはそれぞれ、ペン・定規・消しゴムを握らされている。


「いっくよー」

·····この実験には覚えがあった。いままでもバカみたいに強かった五条が、さらにもう一段上のステージに行った日。

頼まれた通りわたしたちはそれぞれの文具を五条に投げる。わたしと硝子の投げたペンと定規は五条に当たることなく止まり、傑の投げた消しゴムだけが五条の額にコツンと当たった。

「うんいけるね」

なんだか不思議だ。自分だって随分と若返ったから鏡を見ると驚くけれど、いっしょに十年歳をとってきた五条の学生時代の姿はなんというか違和感がある。硝子を見ても思ったけれど、それ以上に五条は雰囲気とかがだいぶ変わっちゃったからかな。
·····あとで七海も探してみよう。七海は雰囲気こそそのままだけど見た目はまじで変わったからいま見たら変な顔しちゃいそう。いや、それよりも元気な灰原を見たら泣いちゃうかもなあ·····。七海と灰原にも、ずっといっしょにいてほしかった。

そんなことをぼんやりと考えているあいだに五条はいま披露したことや今後の展望について話していた。·····最強になる前の五条。いや、最強になった直後の五条? たしか昔のわたしは、単純にすごーいと驚くだけだったような気がするけれど。

二度目の展開だから、他に気を回せるようになったいまだからわかる。となりで傑が、自分を追い詰めていると。


「傑ちょっと痩せた? 大丈夫か?」
「ただの夏バテさ。大丈夫」
「ソーメン食いすぎた?」

わたしでも気づくような体型の変化に五条が気づかないわけがない。けれども傑が五条に素直に今悩んでいるところです言うわけもない。
そうかもしれないな、今日は精のつくものでも食べるよ。夜焼肉でも行く? 夜は任務だな。·····なんて話すふたりを、わたしはただ見つめる。

傑。·····傑は。
焦っていたんだろうか。追い詰められていただろうか。どっちもそうだよな。だって、今までずっとふたりで最強のコンビだったもんな。

それが伏黒甚爾に負けて、最強じゃなくなってしまったのが一年前。そして年月を経て、本当にひとりで最強になってしまった親友。·····まるで取り残されてるような気分だろう。だからさっきの、努力しなきゃなんて言葉が出た。


君は強いよ。とても強い。
でも強いだけじゃダメだったんだね。最強じゃなきゃダメだったんだね。

·····だからってさあ。あそこまでする必要はあったのかなぁ。みんなを捨てて裏切って、呪術師だけの世界を作るなんて。そんな途方もない夢を、見る必要はあったのかなあ。

わからない。わたしには、やっぱりわからないよ。傑。