02


「夏油さんからも聞いてましたけど、苗字さん本当にめちゃめちゃ強くなってません!? 一体何したんですか!?」

午後は二年と合同の体術の時間。とはいえ五条と傑は任務に行ったので、実質わたしと七海灰原コンビでの特訓だ。元気いっぱいの灰原にわたしは思わず苦笑する。相変わらずかわいい子だ。

「何もしてないよ。強いて言うなら努力を続けたくらい」
「かっこいい·····! ね、七海! めっちゃかっこいいね僕もそういうの言いたい!!」
「いやこの伸び方努力で急に身につくものじゃないですよね。苗字さん、いったい何したんですか」
「だから何もしてないってば〜」

むしろ十代の頃はまだ鍛え方が足りていないなあと思いながら組手をしているんだけど、そんなに違うものなんだろうか。普通十代の頃のほうが戦いやすいもんだろうに、やっぱり前線に立ち続けていると違うんだなあ。そんなことを心の中で呟きつつ、真っ直ぐ向かってくるパンチを受け流す。

記憶の中と寸分違わず元気いっぱい笑う灰原を見ると胸が締め付けられて苦しくなった。·····大丈夫、君も。絶対にわたしが救ってみせる。


「いやでも本当にすごいです·····! 今度苗字さんの任務同行させてもらって、勉強したいなあ」
「あらかわいいこと言うじゃん。なんとちょうど明後日の遠方任務一緒に行くことになったよ、さっき夜蛾先生と話して決まった」
「え、そうなんですか!? なんでまた」
「ちょっと家の事情でそっちの方に用事があってさ。交通費浮かせたいからそっち方面で任務ないか聞いたら二人のやつに同行するかって聞かれた」
「わぁそうなんですね! 気合い入ります!!」

まあ実際はほとんど無理やり押し切ったんだけど。そうとは知らず明るく笑う灰原をかわいいなあと思っていると、なんだか七海のほうから視線を感じた。なんだ? と振り向けば彼はやっぱりこちらをじぃっと見ている。


「·····どうしたの?」
「いや。·····なんだか雰囲気が変わったな、と思いまして」
「そう?」
「はい」

まあそりゃ中身は10年老けてるからね。普通気づくよね。
·····いちばん一緒にいるはずの傑はきっとそれどころじゃなくて、気づいてくれないわけだけど。


「何かありましたか」
「んー? 何もないよ」
「·····ならいいですけど」
「あはは、納得してない顔」

七海はわかりやすいところがある。彼の顔には明らかに「気にはなるが自分がそこまで踏み込んでいいのかわからない」と書いてあった。わたしはそれにくすりと笑って、いまの時点でも十二分にわたしより背の高い彼の頭をぽんっと撫でる。


「本当だよ。·····ていうか、何もないで済むよう頑張ってるの」
「?」

どうか君がこの言葉の意味を理解できない未来を作れますように。そう思いながらわたしは灰原との組手に戻った。














その翌日わたしは午前中任務に出た。本当に今年の夏は忙しくて嫌になる。昔のわたしは単独任務を終えたあとは街をブラブラして買い物やランチを済ませてから帰っていたけれど、いまのわたしにそんな余裕は欠けらも無い。とっとと仕事を終えて急いで高専に戻る。
まだ君はここにいるってちゃんとわかっている。けれども早くこの目で確かめて、笑い合いたいのだ。

どのあたりにいるんだろう、そう思いながら廊下を歩いていると灰原に会った。お疲れ様です、と元気に挨拶してくれる彼に笑顔でおつかれ、と返す。

「傑見なかった?」
「向こうのベンチにいますよ!」
「ありがとう」
「でもなんか女の人が来て話してます」
「·····女のひと?」

誰だそれ。そう思って眉を寄せると灰原は慌てて続けた。

「あっ浮気とかじゃないと思いますよ! 夏油さんも知らないひとっぽかったし!!」
「いやそこはぜんぜん心配してない」
「さすがです·····! お二人ラブラブですもんね!!!」
「はいはい」

でもこのタイミングでわたしの知らない出来事。さすがに気になるな、とわたしは心の中で呟く。

「まあでもちょっと気になるから覗いてみよっかな。じゃあね、ありがと」
「はい! 明日はよろしくお願いします」
「うん、こちらこそよろしくね」

失礼します、と頭を下げながら去っていく彼にわたしはヒラヒラと手を振る。そしてそのまま灰原が示した方へ向かうと、確かに聞き慣れない女の声が聞こえてきた。


「·····ってる? 術師からは呪霊は生まれないんだよ」
「!?」
「勿論術師本人が死後呪いに転ずるのを除いてね」

その会話にわたしはとっさに気配を殺す。·····この、内容は。傑の離反に大きく関わっているような確信があった。、
女は術師について説明する。その内容は、わたしですらも知らなかったことで。

「大雑把に言ってしまうと、全人類が術師になれば呪いは生まれない」

彼女の凛とした声が廊下に響いた。その直後に傑が吐き出すように言った言葉に、わたしは思わずぎゅっと拳を握りしめる。

「じゃあ非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか」
「·····!」

およそ彼の口から出ると思えなかった内容にわたしは息を飲んだ。·····これが。こんな言葉が出てくるということは。よっぽど、よっぽど悩んでいたんだ。
離反という行動から彼が何かを思い詰めていたことはわかっていたけれど、その裏にこんなやり取りがあったなんて露とも知らなかったわたしはどうしたらいいのかわからなくなる。この話は、止めた方がいいのか? 知らない方が幸せなんじゃないのか。でももう既に大事な部分は聞いてしまっているし·····。

なんて悩んでいる間にも、女は続けた。


「夏油君。それは“アリ”だ」

そして彼女は戸惑う傑を置き去りに、こぼれでた言葉に肉付けをしていく。そのとんでもない呟きに現実味を持たしていった。
わたしはもう何度もこの呪術界や人間に失望や絶望を繰り返している大人だ。だからいまさらそんなことを知ったところで特に問題ないし、これまでと変わらず術師を続けていける。·····けれども傑はまだ10代の多感な子供だ。害がない、わけがない。

でももう傑はこの事実を知ってしまった。いまさら出て行って会話を止めるにしたって不自然だし、遅いだろう。どうしたらいいかわからないままわたしは二人の話を見守る。非術師は嫌いかい? と女は傑に聞いた。

「分からないんです」

そのあとに続く言葉こそ、彼の大事な本音な気がして。わたしはそっと耳を澄ませる。


「術師は非術師を守るためにあると考えていました。でも最近私の中で非術師の·····価値のようなものが揺らいでいます」

額を押さえながらぽつぽつと零す傑。·····その姿は、本当に、痩せて小さくなったように見えて。

「弱者故の尊さ、弱者故の醜さ·····その分別と受容ができなくなってしまっている。非術師を見下す自分、それを否定する自分。
·····術師というマラソンゲーム、その果てのビジョンがあまりに曖昧で何が本音かわからない」

傑は、真面目だ。
五条とふたりでふざけたりするバカなところもあるけれど、強くてなんでも出来るからこそ無意識下で他人を見下してしまうところもあるけれど。
でもだからこそ、他者や弱者を守ろうと心優しく努めることのできる男の子だった。いろんなことに向き合って、ひたむきに頑張れる素敵なひとだった。

わたしは深くものを考えない。だから今までやってこれたのかもしれない。
·····同じ学年で、彼女なのに。どうして君にばかり辛いことがたくさん起こったんだろうね。わたしだっていろいろ辛かったつもりだけれど、君と比べたらぜんぜん、たいしたことはなくて。

「どちらも本音じゃないよ。まだその段階じゃない。非術師を見下す君、それを否定する君。これらはただの思考された可能性だ。」

俯く傑に女は続ける。

「どちらを本音にするのかは、君がこれから選択するんだよ」


わたしは深く息をついた。·····こんな会話があったんだ。ああ、知らなかったなあ。もしもまた時間を戻せるのなら、この人と傑を出会わせるのを止めちゃったほうがいいのかもなあ。

別にすべてがこの女のせいだとは全く思わない。見ただけでわかる、彼女も相当強い術師だ。·····というか多分、彼女は九十九さんだろう。会ったことはないけれど噂では聞いたことがある。
傑の離反の裏に、このひとがいたなんて誰が思うっていうんだ。

そんなことを考えていると九十九さんがそろそろ帰る運びになった。わたしは慌ててその場を離れて、違う階から傑が彼女を見送るのを見守った。


















「ただいま」
「名前。
帰ってたんだ、おかえり。早かったね」

九十九さんがいなくなるのを見届けて、高専に戻ってくる傑にわたしは声をかけた。先程までのくたびれた雰囲気が一変する。いつもの笑顔に胸が痛くなる。

傑はわたしに弱みを見せない。

「誰か送ってたの?」
「ん? ああ、九十九由基だよ。特級のよしみで私と悟に挨拶に来てくれてね。まあ悟はいなかったんだけど」
「へー。どんな話したの?」
「別に。軽く世間話程度」
「·····そっか」

どうしたら君の心の弱い部分に触れさせてもらえるんだろう。でもわかっているんだ、君は大切に思う人にほど頼れない厄介な人間だって。意地っ張りで見栄っ張りでカッコつけな、そんな男なんだって。
だから君はきょう初めて会ったばかりの九十九さんには本音を零せたけれど、これから先はそれこそ死ぬまでわたしにも五条にも弱音なんて吐いてはくれない。

·····でもこの世界線なら、少しくらい君の苦しみを軽くすることはできるのかな。


「·····ねえ傑」
「なんだい」

小さな声で名前を呼ぶ。それを受け止めてくれる距離に君がいる。


「今度さー、秋になったら·····。うーん、10月とか11月とかかなあ、紅葉シーズンになったら旅行にでも行こうよ。温泉とかさ」

突然の誘いに傑はキョトンとする。でもすぐに柔らかい笑みを浮かべていいねと言ってくれた。


「硝子と悟も誘う? それともふたりで行く?」
「もちろん両方」
「はは、そう言うと思った」

そう言って笑う傑の腕をわたしはぎゅっと掴む。そして頭を肩口に寄せて、くん、と彼のにおいを嗅いだ。

「·····約束ね」
「うん」

君といっしょに九月を終えたい。君と十月を迎えたい。
わたしの願いはただそれだけ。ただそれだけなのよ。
















◇◆◇


「つ、強かった·····!」
「生きてる!? 僕ら生きてる!?」
「あれ産土神だろ·····! 1級案件だぞ、二人だけだったら確実にどちらかもしくは両方死んでる」
「まじでわたしがいてよかったね、感謝して?」
「「します·····」」

無事に目的のひとつであった「灰原を死なせない」を達成することができた。

今回の呪霊はやっぱり本当に強くて、わたしが参加して三人がかりでやっと祓える程だった。大きなケガはないものの全員ボロボロである。でも誰も大きなケガはしていない。生きてる。みんな生きている。

もっと修行して強くならないとね! と意気込む灰原に、なんでお前はまだそんなに元気なんだ·····と七海がため息をついた。
ああ、これも、見たかった未来だ。見たかった未来を作り出せた。

そう思うと胸がいっぱいで泣きそうになった。いやでも早い。まだ早い。
泣くのは本当に、ちゃんと全てが終わってからだ。


「·····ね、回らない寿司かいい焼肉でも食べに行こうよ。たまにはわたしが奢ってあげる」
「いいんですか!?」
「ご馳走様です!!」

どっちにするか二人で決めて、そう言うと彼らは真剣にどちらにするかで揉め始めたのでそれがあんまりにもかわいくて笑ってしまった。

傑。ねえ傑。
灰原、生きてるよ。こんなに元気に生きてる。

あとは旧◾◾村での任務をわたしが代わりにこなしたら·····。大丈夫だよね? きっとだいじょうぶだよね?

もうわたしから離れていったり、しないよね???




◇◆◇





灰原と七海との任務から帰って以降も特に傑の様子に変化はない。相変わらずちょっと痩せているし、ふと見た時の顔はずいぶん疲れている。けれどもわたしの前ではご飯も普通に食べるし、優しくて穏やかな傑のままだ。五条とも変わらずバカなことをやっているし、授業でも特に問題はない。あの星漿体の事件以来の傑のままだ。

でも時折考え込むような仕草は増えたと思う。これはわたしが本当にずっと傑のことを目で追っているから気づいたんだろうけど。
·····やっぱり九十九さんとの会話は傑の心に影を落としてしまったんだろうか。灰原の生死ではなく、九十九さんとの時間の方がトリガーだったんだろうか。それとも傑単独の任務のどこかで何かがあった? わたしにも任務はある。なるべく傑と同行できそうな任務はさせてもらっているけれど、全部が全部というわけではない。

どうすれば君をここに留めることができるのか確信が持てないまま、日にちははらはらと過ぎていって気づいたらもう明日から九月だ。十年前のあの日から、もっとも嫌いなこの季節。
夏の終わり。それに伴ってやたらと降る雨に台風。ジメジメとした暑さに、時折見せる涼しさはやけに寂寥感を煽る。

君がいなくなった九月を何度カレンダー越しに睨めつけただろう。


きょうは傑と一緒に任務に出ていた。呪霊は問題なく祓えて、いまはふたりで高専へ帰ろうとしている。
傑は相変わらず強い。相変わらず強くて優しい。穏やかで、でも思い悩んでいるのがわかって、それはわたしの記憶の中の傑と変わらないから。だから灰原を助けたことと旧◾◾村の任務を代わるだけで彼を止められるのか不安でたまらない。



「·····そういえば灰原が感謝していたよ。この間の任務、名前がいなかったら確実に自分は死んでたって」

他愛もない世間話の途中、傑がぽつりと呟いた。奇しくもわたしがいま考えていたことだから、ちょっと返答がぎこちなくなる。

「え、あ、そうなんだ。あー·····まあ確かにちょっと危ない瞬間あったからね」
「·····さっきも見違えるように動きがよくなってた。本当に強くなったね」
「そうかな·····? ありがとう」

まあそりゃ経験値が十年分増えてるからなあ。なんて思いながらへらりと笑うと、傑はどこか遠くを見ながら言った。

「·····私がずっとそばで守っていてやらないといけない気がしてたんだけど、驕りだったかな」
「!」

なんてね、と傑は笑う。その言葉にわたしは目を見開いた。

なんで、そんな。いなくなるみたいなことを言う。

弱かったわたしすら置いていったあなたは、強くなったわたしからも離れてしまうというの?
わたしは咄嗟にがしっと傑の腕を掴んだ。その勢いに彼は少し驚いたように目を瞬く。

「どうし、」
「だめだよ」
「え?」

傑の暗い色の瞳にわたしが映る。わたしはただ、この距離で、君とずっと生きていられたら他にはなんにもいらないのに。


「ずっと傍にいてくれなきゃだめだよ」

絞り出した言葉に傑は笑う。力のない笑みに胸が痛くなる。


「·····いるよ。ずっとね」


うそつき。


















どうすればわたしは君を止めることができるんだろうか。
どうすればわたしは君といっしょに生きていけるんだろうか。

傑がいなくなってから十年近く、君より大切なものなんてひとつも見つからなかった。ただそれ以外の生き方を知らないという理由だけで、ずっと呪術師として与えられた任務をこなすだけの毎日だった。

自室に帰ってごろんとベッドの上に四肢を放り出して転がる。サイドチェストに置いてあるくまのぬいぐるみは相変わらずまっすぐ前を見ている。

また、わたしは。ぽっかり空いた胸の隙間を誤魔化すようにこの子を抱きしめて、感情を殺して生きていくしかないのだろうか。どうして昔に戻れるのなら、星漿体の任務以前にたどり着けなかったんだろう。

·····だめだ、そんなことを考えたって意味はない。いまここに戻ってこれただけで十分奇跡なんだから、なんとかしないと。
わたしは深く息を吐いて、ぬいぐるみを手に取る。そのままそれを抱えて寝返りを打った。いい年して、まるで子供みたいだ。


(子供か··········)


あの頃は若かったから。なんだか漠然と信じていたな。傑とそのまま付き合い続けて結婚して、いつか子供ができて·····なんて。ありきたりな幸せを築くことを。

まさかいい年してずっと独り身でいるなんて思わなかった。傑のことが忘れられない上に仕事は忙しいし、新しい出会いなんてあったもんじゃないから·····置き去りにされたわたしはずっと彼氏なんてできなかった。同い歳の友達はどんどん結婚したり、なんなら子供だってできていたりするのに。

そこまで考えたとき。どうしようもなくバカな考えがわたしの頭を占拠した。

·····もしも傑との間に子供ができたら。思いとどまってはくれないだろうか。
他の男ならいざ知らず、あの人はなんだかんだで真面目だし責任感がある。ただの彼女のわたしは置いていかれてしまったけれど、もしも、もしも子供がいたら··········。


「·····バカみたい」

吐き出すようにそう言ってもう一度寝返りを打つ。ただ君といっしょに歳をとりたいだけなのに、どうしてそれがこんなにも果てしない。