恋心を自覚した誠士郎が迫ってくるけど、わたしは玲王くんのことが、好きなはず、なんです!

「ねえ、誠士郎」
「んー?」

 部活終わり。ベンチに座ってゲームをする誠士郎の隣に腰掛けて、わたしは切り出す。他の部員は何やら楽しそうにスマホを見ながら話し込んでいた。その真ん中にはキラキラと眩しいくらいに笑う玲王くんがいる。彼の笑顔を目で追いながら、わたしは誠士郎に言った。

「わたし、玲王くんのこと好きになっちゃったかも」
「………………え?」

 玲王くんは御影コーポレーションの御曹司だ。一般庶民であるわたしなんかとは別の世界に生きる人。そんな彼がこの度、わたしの幼なじみである凪誠士郎にサッカーの才能を見出して、あれよあれよという間に二人してサッカー部に入ってしまった。ちなみにわたしは誠士郎から「なんかめんどくさいことになってるから、名前、助けてー……」なんてヘルプを出されたのでマネージャーになった次第である。

 正直誠士郎にサッカーなんて無理だと思った。どうせ嫌々始めたところですぐに辞めてしまうだろう、と。けれども玲王くんは思っていた5000倍は前向きで粘り強くて面倒見が良くていいひとで、あの誠士郎に部活を続けさせている。誠士郎も誠士郎で、面倒臭そうではあるものの……時々なんだか楽しそうにも見える。
 誠士郎を変えた玲王くんに興味が湧いて、どうしてサッカーをしようと思ったの? と聞いたとき、彼はキラキラした目で夢を語ってくれた。ああこの熱が誠士郎すら変えたんだと……眩しくて、そこからずっと、玲王くんのことばかり考えるようになってしまったのである。

「別に今すぐ告白しようとかそういうわけじゃないんだけどさ。誠士郎のおかげで玲王くんと仲良くなれたわけだし、なんか言っておきたくなっちゃって」

 まあ、誠士郎はわたしが誰を好きだろうがどうでもいいだろうけど……そう言おうとしたところで、彼はプレイ中のゲーム機を膝に置いてわたしに向き直った。

「好きって何?」
「え」
「好きってどういう感情なの」
「……」

 こちらを射抜く丸い瞳には特に温度が感じられないのに、何故だか目を離せなかった。質問の内容は小学生がするようなものだけれど、どこか責められているみたいに感じる。誠士郎の様子がいつもと違うことに気づいたわたしは、慌てて茶化すように笑った。

「えっ何? 人の心がわからないロボットみたいなこと聞くじゃん」
「いいから答えて。どういう気持ちなの」
「……」

 迫るような物言いに、思わず閉口してしまう。どうしてそんなこと、と口ごもるわたしを誠士郎はじっと見つめてきた。こうなった彼を誤魔化すことは無理だろう。長年の経験からそう悟ったわたしは、えーと、と目を泳がせながら言った。

「も、もっと知りたいなって思う、とか……?」
「それから?」
「えっ!? う、うーん……一緒にいたいなって思うし……かっこいいなぁとも思う……」
「他には?」
「ほ、他!? もうよくない?」
「ダメ、教えて。これいまめちゃくちゃ重要だから」
「重要……?」

 他人の恋愛を気にするような男じゃないと思ってたんだけどな……と思いながら、わたしは続ける。誠士郎は案外、言い出すと聞かないところがあった。なんてったってこの進学校に通うために一人暮らしを親に許してもらうような男だから。……わたしなんて、毎日けっこうな時間を電車に揺られているというのに。

「……その、うー……、なんかいつも玲王くんのこと考えちゃうんだよね」
「ふーん……。じゃあ俺も名前のこと好きみたい」
「は?」
「名前が言ったこと、全部当てはまる。かっこいいとは思わないけどかわいいとは思うし、けっこういつも名前のこと考えてる。……あー、これ好きってことだったんだ。いま気づいた」
「え? え、えっ??」
「俺、名前のことすごい好き。付き合ってよ」
「…………………………はあ!?!?!?」

 突然の告白に、わたしは思わず声がひっくり返ってしまった。いや待ってよ、なんでそうなるの? わたしは玲王くんのことが好きなんだけど、というか玲王くんのことが好きだって言ってるのになんで誠士郎は告白してくるわけ!?

「待って待って話聞いてた? わたしは玲王くんのことが好きなんだよ」
「俺のことは嫌い?」
「嫌いなわけないじゃん! 誠士郎のためにマネージャーだって始めてるのに!!」
「じゃあ好き?」
「す、いや、好きだけどそういう好きじゃないっていうか……え!? 本気なの?」
「俺が冗談でこんなこと言うと思う?」
「……」

 真っ直ぐに言い放つ誠士郎はどう見ても真剣で、たじろいだわたしは言葉を失う。す……好き? 誠士郎がわたしのことを、本気で??
 幼い頃から一緒にいた彼を、そういう目で見たことはただの一度もなかった。同い年だけれどなんというか弟みたいな、家族みたいな……そんなふうにしか思ってこなかったので、突然こんなことを言われてもどうしたらいいのかわからない。

「ご……ごめん。誠士郎のことは大切に思うけど、その、男として見たことはないっていうか……」
「じゃあ見て」
「えっ」
「今から男として見てよ、名前。俺、名前が他の男のこと考えてるのとかやだ。俺のことだけ考えて、ちゃんと好きになって」
「な、ちゃ、ちゃんとって……」
「俺が名前のこと好きなように、名前も俺のこと好きになってよ」
「……」

 なんてことを言うんだ、この男は……。いきなりグイグイ迫られて困惑するも、誠士郎の視線からは逃げられなくて唾を飲む。……そもそも本当に誠士郎はわたしのことが好きなのか? よく知った幼なじみが他の男を好きだとわかって、ちょっと寂しくなっただけなんじゃないんだろうか。

「か、勘違いとかじゃなく、マジでわたしのことが好きなの……? 幼なじみがどっかいくのはなんか寂しいなぁみたいなやつじゃなく……?」
「好きだって言ってるじゃん、ちゃんと伝わってない? 名前が他の男と付き合うのも付き合いたいと思うのもやだよ、俺」
「な、なんで……? 別にわたしに彼氏ができたとしても、誠士郎はずっと特別な幼なじみで……」
「俺、たぶん名前と幼なじみのまま終わるのも嫌だ」
「え」

 わたしが誠士郎の言葉を理解するよりも早く、彼はぐいとわたしの腕を引っ張った。そんなことを想定すらしていなかったわたしはそのまま誠士郎の胸にぼふんと突っ伏す。……広い胸板、がっしりした腕、……なんだか落ち着く、なのにクラクラする甘いにおい。

「な、待っ!?」
「こういうの、俺以外の誰かが名前にするのは絶対に嫌だ。……それに俺、ずっと名前とこういうことがしたかったのかも。よく夢にも見てたし」
「は……!? な、何言っ……」
「名前、すごいドキドキしてる。ほら、ちゃんとドキドキできるでしょ? わかったらこれからは俺のことただの幼なじみじゃなくて……恋人候補として見てよ」
「っ……」

 どこか掠れた声が耳をくすぐり熱を持つ。こんなに強引に抱きしめておいて、そのくせ縋るような。喉がカラカラになって心臓がバクバクし、頭が破裂してしまいそうだ。
 どうしよう、どうしたら……そうパニックになる中で、誠士郎は腕に力を込めて、すり、とわたしの頭に頬ずりをした。

「……名前、小さいね。かわいい」
「や、はな、離して……っ! ていうかあんたと比べたら、誰でも小さ……っ」
「あと柔らかい。それに……」
「ひっ!?」
「いい匂いもする。シャンプー? なんか、甘い……」
「ぎゃーーーーー!!!!!!」
「うわっ」

 小さいね、とか柔らかいね、の言葉だけでも生々しくて死にそうだったのに、遮ろうとしても彼はいつも通りの淡々とした口調で所感を述べていく。せめて心の中で留めておいてほしいのに、誠士郎には隠そうとか秘めようみたいな気遣いは一切ない。あげく、シャワーも浴びていない体を犬みたいにクンクン嗅がれたわたしは思わず絶叫しながら誠士郎を突き飛ばした。

「にっ匂いを嗅ぐな、女の子相手に柔らかいとか言うなっ、バカーーーーー!!!!!!」
「痛い……」

 咄嗟に火事場の馬鹿力が出たのか190cmの巨体を吹っ飛ばしたわたしは慌てて誠士郎から離れて立ち上がる。そして震えながら言った。

「すっ……す、好きとか言うなら、もうちょっと女心を勉強してからにしなさい、このバカ誠士郎!!!」
「え、じゃあ女心の勉強したら付き合ってくれるの?」
「はあ!? そ、そんなことは言ってな……っ」
「まあでも全然脈がないわけじゃなくて安心した。名前、顔真っ赤だよ」

 こっちはこんなに必死なのに、誠士郎は意にも介さない様子で首を傾けながらわたしの頬を指さしてくる。触れて欲しくなかったところをあっさり指摘され、恥ずかしさでもう顔から火が出そうになってきた。

「〜〜〜〜ッ! こっこんな、急にこんなことされたら、だっ誰でも、赤くなっ……」
「そ? ま、なんでもいいや。なんか告っちゃったし、これからちょっと頑張るからよろしくね」
「は……っ!?」
「でも俺そういうの向いてないし、どうしたらいいかわかんないから適宜フィードバックちょうだい」

 じゃ、ボス戦に戻るね。
 そう言って誠士郎はゲーム機を握り直してしまった。……は? いや、告白しといて、女心を勉強するとか言っておいて、わたしを放置してゲームに戻るとかありえる!?!?
 いやでもこれが凪誠士郎という男だしな……と感情の振り下ろし先を見失っていると、向こうの方から明るい声が近づいてきた。

「おーいどうしたんだよ。さっきから楽しそうじゃん」
「れ、玲王くん!!」

 ギャーギャー騒いでいたからか、玲王くんがこちらに走ってきてしまったのである。そこでようやく自分たちがまだ部員もいる運動場の端っこにいることを思い出して頭を抱えた。は、ハグのシーン、みんなに見られてない……? 大丈夫!?
 どう答えたらいいのかわからないでいると、誠士郎がゲームを続けたまま玲王くんに声をかけた。

「あ、玲王。さっきの見てた?」
「ん、何かあったのか? 俺はメンバーとプレイ動画見てたんだけど、凪も見……」
「名前に告って振られたから抱きしめてみたら突き飛ばされた感じなんだけど」
「「はあ!?!?!?」」

 言う!? それ言うの!? なんで見てない玲王くんに言うの!?!?
 慌てふためくわたしの横で、玲王くんも「なんでそんなことになってんだよ……ていうか修羅場の真っ最中ってわけ? 俺どっか行った方がいい?」と困惑している。そんな彼に誠士郎は引き続き画面内の敵を撃ちながら答えた。

「どうやったら名前のこと落とせるか、玲王考えてよ」
「なんで俺!?」
「玲王に聞くのが一番間違いないと思うから」

 けろっと言い放つ誠士郎に、「だって名前は玲王のことが好きだから」とバラされてしまうのではないかと心配になった。しかしハラハラしていると、誠士郎はこちらに視線も寄越さずわたしにだけ聞こえる声量で囁く。

「あ、大丈夫言わないから。それで変に玲王が意識し始めても困るし」
「!」

 そういうところには頭が回るの!? と思わず大声を出しそうになった。それを考えた上で玲王くんに相談するの、めちゃくちゃタチが悪くない!? この男、と睨むも下手に文句を言ったら玲王くんにわたしの気持ちがバレかねないのでなんの言葉も発することができない。ていうかこれ、もう完全に玲王くんの中でわたしは恋愛対象外になっちゃったよね!? いやもともと対象内ではなかったろうけどさあ!!!
 こんなのあんまりだ、と心の中で嘆いていると、そんなわたしの様子には全く気づいていないらしい玲王くんが口を開いた。

「んー、恋愛は二人の気持ちがないと無理だからなあ……。まあでもお似合いな気はするけどな、子供の頃からずっと仲良くしてたんだろ? 幼なじみと恋人にって、なんか理想的なシチュエーションじゃん」
「だって名前。玲王もそう言ってる」
「あのね誠士郎、だからってじゃあ付き合う! になるわけないからね、わかってる?」
「はは、そりゃそーだ。幼なじみだから余計にそういう目で見れなかったりもするだろうし」
「そう! そうなの玲王くん! ずっとバカでかい弟みたいにしか思っていなかったのに、急にこんなふうに迫られたって……!」

 さすが玲王くんわかってるなぁ、とわたしは何度も頷いてしまう。やっぱり玲王くんはモテるし恋愛経験もあるから頼りになるな……。なんて考えていると、彼は輝く笑顔に光る白い歯で提案してきた。

「じゃあ試しに付き合うっていうのはどうだ? 無理やりにでもカップルになれば見方も変わってくるかもしれないし」
「玲王くん???」
「あ、それ名案。よろしくね、名前」
「えっ……」
「じゃ、付き合うことになったし今日から駅まで送ろうかな。しばらく俺の送り迎えしなくていいよ、玲王。また明日」
「おう。お幸せにな〜! 二人まとめて車で送ってほしくなったら言えよ」
「うぃー」

 ……いやうぃーじゃないけど!? 待って、わたしの意見は一切聞いてもらえないの!? 呆然とするわたしを置いて玲王くんは元気よく手を振りチームメイトの元へ戻ってしまった。たぶん彼なりに空気を読んだんだろう。……お、終わった。わたしの淡い片思い、これにて終了じゃん!!!
 いったいどうしてこんなことに、とちょっと泣きたくなってきたけれど、突然右手が何かに掴まれてその涙も引っ込んだ。……待って、何かってこれ、手。誠士郎の手!!!

「じゃ、行こっか。名前」
「な……なんで手、繋いでるの」
「付き合ったしいいかなって」
「わたし付き合うの了承してないけど!?」
「まあお試しだから。あ、でも本当に嫌なことはやらないから心配しないで。……え、もしかしてそもそも手を繋ぐのが死にたくなるくらい嫌だったりする?」
「いやそこまでじゃないけど……」
「じゃあいいや」
「ッ、」

 誠士郎はそのままするりとわたしの指を絡めとる。……こ、これは、俗に言う、恋人繋ぎだ。誠士郎の指は思ったよりも太くてがっしりしている。そう気づいた瞬間に身体中の血液が沸騰したのではないかと思うくらい熱くなった。
 ……死にたくなるくらい嫌なわけではないけれど、手を繋ぎたいわけではないんだよ!? そう言ってやろうと誠士郎を睨みつけて……そして、思わず固まった。

「……ヤベ、嬉しー…………」
「ッ……」

 見上げた誠士郎は右手で口元を覆い、こちらから顔を逸らしている。……あの誠士郎が、照れてる。わたしと手を繋いで、喜んでる。
 …………どうしよう。

「(め、めちゃくちゃかわいい……!!!!!)」

 なんだか胸がドキドキしてきた。これはまずい。誠士郎相手にこんなふうにときめくなんてまずい!
……あれ、でも待てよ、誠士郎はわたしのことが好きなんだからときめくのは悪いことではないのか? いやでもわたしが好きなのは玲王くんで……! そう心の中で葛藤していたら、誠士郎が小さく言った。

「……俺、あんまり恋愛のこととかよくわかんないし、たぶんこういうの向いてないとも思うんだけど……名前のこと、本当に好きだから」
「……」
「だからその……よろしく」

 そう言いながらわたしを見つめた誠士郎の耳は、少し赤くなっていて。そんな彼を見ていると、胸の奥がきゅううっと苦しくなった。
 駅までの道のりは何の変哲もないはずなのに、誠士郎と手を繋いでいると彼ばかりに意識がいって、景色が全部溶けて消えたみたいに目に入らなかった。どうしたらいいかわからなくて困っていると、何故かうっかり指先に力が入ってぎゅっと誠士郎の手を握り返してしまう。たったそれだけで誠士郎がぴくりと反応するからなんだかまた胸が高鳴った。

 ……誠士郎のことを、男性として見る。
 昨日までは考えもしなかったことなのに、たったこの数十分でそれがあまりにもリアルになって怖い。

 どうしようどうしようって、その言葉だけを頭の中で繰り返しているうちに、気づけば駅に着いていた。なんだか普段より駅が遠いような気がしていたけど、着いてしまえば一瞬だったな……なんて思いながら、わたしは勇気を出して誠士郎に声をかける。

「あ、えっと、その……今日は駅まで送ってくれて、ありがとう……?」
「うん。気をつけて帰ってね」
「せ、誠士郎もね……。じゃ、じゃあ……また明日?」
「うん、またあし……」

 しかし誠士郎の言葉は途中で途切れてしまった。どうしたんだろうと不思議に思って首を傾げると、繋いだままの手に力が込められて思わずびくりと肩を跳ねさせてしまう。そんなわたしに誠士郎は、うーんと小さく悩んだ後言った。

「……やっぱり家まで送ろうかな」
「え!? 何言ってるの、わたしの家遠いよ!?」
「わかってるよ、俺の実家の隣なんだし……。でもせっかく手繋いだのに、離すの……なんかもったいない」

 そう言って誠士郎がお口をばってんにする。……昔からわたしはこの顔に弱かった。マネージャーを頼まれたときもこのお顔で頼まれたから断れなかったようなものだ。……だって、かわいいんだもん! まるで子うさぎに見つめられているような気持ちになってしまうんだもん! たとえこの人が190cmの恵体でわたしをめちゃくちゃ見下ろしていたとしても!!!
 人生何百回目かもわからないノックアウトを食らったわたしは、うっかり誠士郎にとんでもないことを提案していた。

「……また明日繋げばいいじゃん」
「え?」
「明日も繋げばいいから。別に今日、もったいないなんて、思わなくていい……」

 いったい何を言っているんだ、自分。これじゃあまるで、わたしまで手を繋ぎたいみたいじゃないか! 発した言葉を戻したくても当然そんなことはできないから泣きたくなる。どうしたらいいの! 誠士郎と手を繋ぎたいだなんて、そんなわけないのに! わたしが好きなのは玲王くんで、誠士郎はただの……ただの、幼なじみなのに……っ!!

「うん、わかった」

脳内で叫び回っているうちに、そう言った誠士郎がわたしから手を離す。途端、わたしの手のひらを包み込んでいた熱が消えて、なんだか急な寂寥感に襲われた。

「じゃ、また明日。……すご。なんかお試しだけど、付き合っただけで明日が来るのがちょっと楽しみになるんだね」
「ッ………………また明日」
「うん」

 あまりにも真っ直ぐに好意を言語化されて、どう返せばいいのかわからなくなったわたしは無理やり声を振り絞ってぎゅっと拳を握った。じゃあね、とひらひら手を振ってとっとと背を向けて歩き始める誠士郎を見ながら、どうしてかこっちが寂しくなる。……誠士郎の手に触れたことなんて、偶然をカウントすれば今まで数えきれないくらいあったし、誠士郎の住むマンションの付近まで一緒に帰って見送ることも何度もあった。……なのにどうして今日はこんなにも胸がキュンキュンして、指先の喪失感に……去っていく誠士郎の後ろ姿に、苦しくなるんだろう。

 これじゃあまるで、と思い始めてわたしは慌てて首を振った。……そんな、好きって言われたから好きになるみたいな単純なの、よくないよ! そもそもわたしは、玲王くんが好きなわけだし。誠士郎のせいで熱くなった頬を冷ますようにぶんぶん振りながら、ホームへ続くエスカレーターに乗り込みバチンバチン! と自分の両頬を叩く。そう、わたしは玲王くんが好きなんだ。誠士郎はもはや家族、恋の相手になんかなりっこないんだから!!!






















「おはよ、名前」
「ほ、本当に迎えに来た」
「うん。だって今日も手、繋いでいいんでしょ?」
「……い、いいけど…………」
「やったー」

 翌朝。学校の最寄り駅まで迎えに行くね、と昨晩スマホに届いた言葉を正直あんまり信用していなかったのに、改札を出たところで誠士郎はちゃんと待っていて、会うやいなや急いでわたしの手を掴んできた。昨日失った熱がまた指先に戻ってきて、わたしの心臓もうっかり跳ねる。

「……きょ、今日も繋いでいいとは言ったけど、朝の通学路はいろんなひとに見られて噂になっちゃうよ」
「うん。あ、いや?」
「誠士郎は気にならないの?」
「別に。でも名前がどうしても嫌なら帰り道だけにする」
「……帰り道は繋ぐんだ」
「うん、約束したでしょ?」
「そ、そうだね……」

 ……わたしと手を繋ぐだけで嬉しそうにする誠士郎がかわいいと思う。昨日のあのやり取りを、約束だなんて大仰な言い方にする彼が、……愛しいと思う。こんなのおかしいと思わず唇を噛んでいると、誠士郎がしみじみとのんきな声で言った。

「なんか名前と手繋いでると、すごいしっくりくるっていうか……落ち着く」
「……」
「不思議だよね。手のサイズとか、全然違うのにさ」

 そう言いながらわたしの手のひらを確かめるようにぎゅっぎゅと握る誠士郎に、なんだか胸がぽかぽかしてしまった。……離したくないとすら、思ってしまった。噂になったら恥ずかしいのに、この状況を部員や友達に見られたら茶化されるだろうとわかってるのに、いま嬉しそうにしてくれている誠士郎を優先したくなってしまう。
 でもそんな自分がやっぱり少し嫌で、わたしはなるべくポーカーフェイスを装って口を開いた。

「……まあいいよ、このままで。もともとたまに勘違いされてたしね」
「そうなの? 知らなかった」
「誠士郎、そういうの興味ないもんね」
「うん、全然ない。……あ、でも名前には興味あるよ」
「はっ!? なに急に」
「ちゃんと興味持ってるって示した方がいいってネットで見た。女心の勉強」
「……ぷっ。あはは、本当にしたの?」
「した。押してもダメなら引く予定だからもしかしたら急に冷たくするかもしれないけど、ちゃんと好きだから心配しないでね」
「あっははは!!! それ言ったら駆け引きにならないじゃん!」

 そ? と首を傾げる誠士郎にまた面白くなって笑ってしまう。爆笑するわたしに、誠士郎は「そっか」と言って少しだけ眦を下げた。……その瞳はあまりにも優しくて、うまく息ができないような感覚を覚える。……本当にこのひと、わたしのことが好きなんだ。そう思うとどうにも居心地の悪さを覚えて、何を話せばいいのかわからず黙ってしまう。誠士郎も黙ったから、無言のままふたりで学校までの道を歩いた。

 心臓がうるさい。手汗をかいていそうで嫌だ。でもこの手を離すのはもっと嫌で、うまく話せないのがもどかしくて、けれどもふたりで沈黙したまま歩くのは嫌な訳じゃなくて、なんだか嬉しいような気すらして。
 自分で自分がわからなくて困るな、と思っているうちに学校が見えてきたから、「さすがにもう恥ずかしいよ」と言ってわたしから手を離した。少し残念そうな顔をする彼に、「……また帰りに」なんて言葉がぽろっと口から出ると、うん、と薄く微笑まれる。……いやだ、調子が狂う、どうしてこんな。

 誠士郎は滅多に笑わない。付き合いが長いから、彼がいま喜んでいるとか嫌そうだとかそういうのはわかるけど、それでもあまり表情を顔に出さないし、あまり微笑んだりもしない。なのにそんな誠士郎が、笑ったり照れたりする。……わたしと、付き合っただけで。
 それを見ているとまた、指先から離れていった熱が惜しくてたまらなくなった。















「ねえ名前、あの凪誠士郎と結局付き合い始めたの?」

 噂というのは回るのが早い。特に誠士郎はデカイ分目立つから、あっという間にわたしと誠士郎が手を繋いで登校している目撃情報が飛び交っていたようで、一限が終わった後早速友達に聞かれてしまった。

「……結局ってなに」
「いや、好きなんだろうな〜と思ってたのに幼なじみなだけでそういうのじゃないから! の一点張りだったから。ついに素直になったのかぁと思って」
「……なんで好きなんだろうな〜と思ってたの」
「え、だってそもそも凪くんが白宝に来るから名前も来たんでしょ? わたしが面倒みなきゃとか言って。その時点ですごい好きじゃん」

 違うの? と聞かれてわたしは口ごもる。……そうなんだろうか。実はわたしも、好きという感情をよくわかっていなかったのかな。たぶんわたしは玲王くんが〇〇大学、誠士郎が××大学に行くことになったら××大学に行こうとすると思う。もちろんその大学が自分に合いそうかどうかは気にするけれど、両方条件が変わらなければ当然みたいに誠士郎と同じ大学に行くと思う。
 普通恋をしていたら、玲王くんと同じ大学に行こうとするのかな。当たり前みたいに誠士郎と一緒にいようとするのはおかしいのかな。けれどもわたしが玲王くんを特別に思っているのは間違いない。どうして玲王くんのことを、素敵だと思うんだろう…………。

 考えてもわからないけれど、これ以上誠士郎のことを考えるのが怖くて、玲王くんの姿を頑張って思い浮かべようとする。……誠士郎が初めて紹介してきた男の子。あの誠士郎に、サッカーをさせた男の子。誠士郎を……変えた、男の子。

「(すごいよなあ、玲王くんって……)」

 わたしにはできないから、できなかったから。だから玲王くんに憧れた。……あんなに眩しい笑顔ができたら、あんなにいろんなことができたら、あんなに楽しそうに夢を語れたら、わたしも誠士郎を変えられるのかなって……そう思って、羨ましくて、目で追うようになったんだ。

 そこまで考えてふと気づく。……もしかしてわたしは玲王くんが好きなんじゃなくて、誠士郎を変えることができた玲王くんになりたかったのかなぁ。



















「すげーじゃん凪! やっぱ才能あるよお前!! ほら次こうしようぜ」
「……うん」
「(あ、誠士郎……嬉しそう)」

 その日の放課後。いつも通り部活に行って、みんなの様子を見ながらドリンクを作る。その中で何かを思いついたらしい玲王くんが声をかけながらボールをパスして、それに応えた誠士郎がゴールを決める場面があった。

 玲王くんが楽しそうに笑うと、誠士郎も少しだけ嬉しそうにする。……ああ、そうだ、これだ。たぶんわたしはこれが羨ましくて、わたしも誠士郎を喜ばせたくて、玲王くんが羨ましくて、それで───────

「名前!」

 ぼんやりしていたら誠士郎が振り返って、わたしを見た。ドリンクを欲しているような感じじゃないのに珍しいな、と思いながら、何? と聞くと彼は話しながらこちらに近づいてくる。

「この感じでゴール決めてたら名前も俺のこと好きになるかもって玲王が言うんだけど、ほんと? 頑張ったほうがいい?」
「コラ凪!! それ言ったら意味ねーじゃねぇか!!」
「だって無駄に頑張りたくないもん」
「名前ちゃんが関係あってもなくてもゴールは狙えよ!!」

 そんなやり取りをする二人に思わず吹き出した。馬鹿みたいなことを言ってるなあと思ったけれど、わたしのために頑張ろうとする誠士郎に嬉しくなって、笑いながらも胸がキュンとしてしまう。そして、悟った。
 わたしはもしかしなくとも、最初から玲王くんじゃなくて、誠士郎のことが……。

「ねー名前、どう? 頑張ったほうがいい?」
「んー、……うん。頑張ったほうがいい」
「じゃあちょっと頑張る」
「ん、頑張れ」

 そう言うと誠士郎が軽く手だけ上げて練習に戻るために走っていく。その姿を見ていると、やっぱり胸がときめいた。
 この感情に気づいたことを、すぐにでも誠士郎に伝えるべきなんだろうか。しかし正直、どう伝えればいいのかわからない。玲王くんじゃなくてやっぱり誠士郎のことが好きみたい! なんて……お試しで付き合うって形を取ってすぐに言うのはさすがに少し気が引けた。

 ……ていうか、誠士郎はわたしが玲王くんのことを好きだって言うまで、まったくわたしに恋愛感情があるような素振りを見せなかったんだよね。いざ「やっぱり誠士郎のことが好きかも」って言ったら「じゃあどこにもいかないんだね、安心した」とか言って元通りの関係になっちゃったりしないかな。
 ふと過ぎった考えに、我ながらありそうだと思ってしまった。そもそもわたしのために誠士郎が女心を勉強すること自体、天変地異でも起きるんじゃないかと思うくらいおかしいんだ。誠士郎が女心の勉強とやらをやめて、元の状態に戻ってしまったら……わたしの気持ちも戻って、やっぱり誠士郎は弟分だわー、みたいになってしまうかもしれない。
 手だって、最初こそ物珍しさから繋いでくれたけれど、そのうちすぐに「やっぱり汗かくし動きにくいや」とか言って繋いでくれなくなるかも。……ありえる。そうなる未来がめちゃくちゃ見えるし、それが嫌な自分がいた。だったらこのまま黙っていたほうが……いやでもそれは人としてどうなんだろうか……。

 悶々としているうちに部活終了の時間が来て、みんなそれぞれ片付けをしたりシャワーを浴びたりチームメイトと話しながら帰ったりし始めた。わたしもマネージャー業務を終えて、帰宅準備をする。そしてそろそろ帰るか、というタイミングで誠士郎に声をかけられた。

「名前ー。帰ろー」
「あ、うん。今日もお疲れ様」
「うん、疲れたー。名前もおつかれー」

 現れた誠士郎は当然のような顔をしてわたしの右手を奪っていった。それに心臓が口から出そうなくらいドキドキしたけれど、彼はいたって普通の様子である。

「行こー」
「……う、うん」

  ……こんなに心臓がバクバクしているのは、やっぱりわたしが誠士郎を好きだと気づいたからだろう。しかしそんなわたしとは打って変わって、昨日は緊張しているように思えた誠士郎は酷く涼しい顔をしていた。もう慣れてしまったんだろうか。お試し期間だから繋いでいるけれど、本当は既に作業じみた気持ちになっていたりして。

 ……勘繰り始める自分が嫌になってきた。このまま変に誠士郎を意識して、好きになりすぎてしまうよりは、テキトーなところで「やっぱり誠士郎と彼氏彼女は無理だよ! 今まで通りの関係でいよう」とか言った方がいい気すらしてきた。
 これまで誠士郎に何かを求めたことなんてないのに、付き合うかもしれないと思ったら急にいろんなことを望み始める自分がいて恐ろしい。ちゃんと彼氏としてスキンシップを取って欲しいとか、自分を幸せにしてほしい、みたいな思いを抱くのは……玲王くんが好きとか言ってたくせに、あまりにも勝手だと思う。うん、やっぱり付き合うのはよくない。付き合って不満が出て別れてしまうくらいなら、このまま幼なじみでいたほうが100倍いいと思う。お試し期間の間だけ、しっかり誠士郎の手を握って……手のひらを包む熱を、覚えておこう。



 二回目の帰り道は昨日よりもあっという間だった。手を離すのがさらに惜しく感じて、恋心に振り回されているみたいで嫌だ。近づく駅に歯痒さすら覚えて歯噛みする。そんなとき、誠士郎がのんびりと口を開いた。

「……なんかさー」
「んー?」
「手、繋ぎながら歩いてるから、普段より歩くスピードは落ちてるはずなのに……駅がいつもより近いような気がする。あっという間」
「……そっか」

 同じことを思ってたよ、と言いかけてやめた。それじゃわたしも誠士郎が好きだと白状しているみたいだから。いや、白状しちゃえばいいじゃんとも思う。でもいざ付き合ってうまくいかなくなるくらいなら、このまま幼なじみでいたほうがいいんじゃないかと尻込みしてしまう。……わからない。なんだかわからなくなってきた。昨日までは勘違いかもしれないけれど玲王くんを好きだと思っていたのに、今日は誠士郎が好きだなんて……感情に制御がきかなくて苦しい。好きっていったいなんなんだろう。
 とりあえず今日は帰って、電車に揺られながら考えよう。そう思いながら誠士郎を向く。

「じゃ、送ってくれてありがとう。また明日」
「ん。また明日」

 誠士郎はすんなりと手を離した。やっぱりもう本当は、繋ぎたいとも思ってないのかな。寂しさを覚える自分に辟易しつつ帰ろうとして、異変に気づく。……昨日はすぐにくるりとわたしに背を向けて帰路に着いた誠士郎が、動かない。

「……帰らないの?」
「帰るけど」
「なんで動かないの?」
「相手がいつ振り返ってもいいように最後まで見送るのがいいって見た」
「……女心の勉強?」
「女心の勉強」

 当然のような顔をして頷く彼に、なんだか複雑な気持ちになる。……嬉しい。嬉しいんだけど、長くは続かないものなら意味が無いとも思ってしまう。

「……そんなことしなくていいよ。誠士郎は誠士郎のままで」
「ん、嫌だった? 嫌ならやめる」
「嫌っていうか……無理しても意味ないじゃん。今だけ頑張って、本当に付き合ってからは何も無くなるなら一緒だし」
「名前がしてほしいなら続けるよ」
「どうせめんどくさくなるでしょ。……もー、こういうのやっぱり向いてないよ、わたし達には」

 苦笑しながらそう言うと、誠士郎は目を丸くした。そのあと少し目を細くしてわたしを見つめ、ゆっくりと口を開く。

「……嫌になった? お試しでも付き合うの」
「嫌っていうか……なんか、わかんない。よくわかんなくなっちゃった。好きとか、付き合うとか」
「……」
「このまま付き合ったら、変に誠士郎にいろいろしてほしくなっちゃうと思う。それって良くないじゃん? 誠士郎はいまお試し期間だから頑張ってくれてるんだろうけど、そういうのってずっと続かないもんでしょ。だから……」
「してほしいことあるなら言って」
「え」

 だからやめよう、そう言おうとしたのにわたしの言葉は誠士郎に遮られる。驚いて固まると、誠士郎はわたしをまっすぐに見つめながら言った。

「そりゃ俺、何もかもは頑張れないけど、名前を喜ばせられるのは嬉しいよ」
「……っ、そんなふうに言うのも、女心の勉強して覚えたの?」
「違う」
「人を喜ばせようとするのとか、めんどくさいでしょ……」
「他の人ならね。ていうかそう言う名前だって、俺が嬉しいときはいつもそれを見て嬉しそうにしてるし、なんだかんだでいつも俺のこと喜ばせようとしてるじゃん」
「!」
「俺も名前が嬉しいなら嬉しい。から、ちょっとくらいなら頑張れる……と思う」

 たぶん、と付け足す誠士郎はどうにもキマらない。キマらないのに、どうしてか……嬉しくてたまらなくなった。

「名前、もう一回、手繋いでいい?」
「……」
「気づいてた? 名前、俺と手を繋ぐと嬉しそうだし、離すと寂しそうにする」

 そう言いながら誠士郎が、ゆっくりとわたしの指先を撫でる。それはまるで優しく、愛を与えるかのような手つきだった。

「……ずっと手を繋ぎたいっていうのは、好きって感情にならない?」
「……」
「女心はやっぱりよくわかんないけど、名前は俺のことが好きだと思う」
「ッ……」

 思考の整理がつかなくて迷子になりそうなわたしに、誠士郎が静かに言う。そう、その通りだ。誠士郎とずっと手を繋いでいたいと思う。この熱が離れる度に、泣きそうなくらい悲しくなる。明日も手を繋げるとしても、いまこの瞬間に誠士郎の手のひらが離れてしまうだけで、何か大切なものを失ったみたいに感じてしまう。
 この手に触れなければ、気づくこともなかったかもしれないのに。気づいてしまったら、もう。誠士郎が好きで、途方もない。

「こんなに簡単に好きになっちゃって、呆れない? 昨日まで玲王くんのことが好きって言ってたのに」
「なんで呆れなきゃいけないの? 嬉しいけど」
「ほんとに?」
「嘘ついてどーするの。それにたぶん、勘違いしてただけで名前は玲王じゃなくて俺のことが好きだよ。最初から」
「え」
「ずっと見てるからわかる。名前も俺と同じ気持ちだったって。……だから今まではあんまり好きとか付き合うとかどうでもよかったんだよね、同じ気持ちで一緒にいたから」
「誠士郎……」
「でも名前が玲王のことを好きなんて言うから、ちょっと腹立って抱きしめちゃった。このままでいられないなら、付き合うしかないと思ったし……そういう選択肢が一度浮かんだら、もう絶対に彼女にしないと無理だと思った」
「……」
「名前も思ったんだよね? 俺のことが好きだって。ただの幼なじみとしてじゃなくて、俺とちゃんと付き合いたいんだって」

 ぜんぶお見通しだったんだ、と情けなくなってしまう。誠士郎が言うことはすべてその通りなんだろう。わたしは誠士郎のことが、恋愛感情で好きなんだ。そして付き合いたいんだ。……でも、付き合ってしまったら。

「……思った。思ったけど、本当に彼女になっちゃったら……わたし、わがままになると思う」
「たとえば?」
「誠士郎がめんどくさいと思ってても、ちゃんと手を繋いで欲しかったりハグして欲しかったり……いろいろ、求めちゃうと思う」
「じゃあ俺の好きと一緒だ。俺が名前のこと好きなように、名前も俺のこと好きになった」
「っ」

 そう言った誠士郎が、わたしの両手を改めてぎゅっと握る。優しく眦を下げる誠士郎を見ていると、愛おしくて泣きたくなった。……もしかして誠士郎もこんな気持ちでわたしを好きなんだろうか。そうだとしたら、こんなの。幸せで幸せで死んでしまいそうだ。

「ねえ、名前。抱きしめていい? わがままだと思う?」
「……わがままだなんて思わない。抱きしめてほしいよ」
「ん」

 誠士郎が優しく笑ってわたしを腕の中に閉じ込める。昨日と同じ優しいにおいに包まれて、思わず泣きそうになった。それに慌てて涙を堪えようと唇を噛もうとしたとき、誠士郎がわたしの耳元で囁く。

「……すご。なんかちょっと、泣きそうなくらい嬉しい」
「…………ッ、わたしも……」

 目の奥が熱くて、触れた部分から蕩けて、バクバクと鳴る心臓はどちらのものなのかすらわからない。
 いまこの瞬間わたしは人生で一番幸せを感じているけれど、もしかしたら誠士郎もそうなんだろうか。そんなことを考えながら彼の背に回す腕に力を込める。すると誠士郎の力も強くなったから、好きの気持ちが溢れかえって、結局ちょっとだけ泣いてしまった。


アンダンテに恋をする