01


今日はマジでついてねぇ、糸師凛は本日何度目かわからない舌打ちをした。朝からやたらと信号に引っかかるし、試合ではチームメイトのMFがあまりにもポンコツ過ぎてムダに動かされるはめになった。いつもより疲れて帰ってきたのに夕餉には酢の物が並んでいたし、先日気まぐれにTSUTAYAで借りた漫画の返却期限はとうに過ぎていた。

その上その漫画を返しに行こうと自転車に乗ろうとするも、タイヤがパンクしていたので徒歩で目的を済ますはめになる。それでもなんとかクソ重たい漫画類を歩いて返却しに行き、帰りにアイスでも買おうかと行きとは違う道を通ってコンビニを目指したところ。

道端にぶっ倒れている女がいた。

死んでんのか、と一瞬思ったが、現在土曜日の22時半。死体というよりは酔っ払いの可能性のほうが高いのでは、と思いつつも、さすがにこの秋空の下女を見捨てるのも良心が痛み、凛はその女の横に屈んで声をかけた。

「……おい、生きてるか?」

声をかけられた女は、んん゙……とくぐもった声を出す。生きている。あと、酒臭い。やっぱり酔っ払いか、と凛はため息をつく。
これが男なら捨て置くが、タチの悪いことに相手は華奢な女だった。このままでは風邪を引くだろうし、不埒な輩に何かされないとも言いきれない。仕方なく凛は声をかけ続ける。

「おい、女が一人で道端に倒れてたら危ねぇだろ。立てるか?」
「ゔ……」

マジで酒くせぇ。もぞもぞと起き上がろうとする女から漂うアルコール臭に凛は眉をひそめた。化粧をしている女性の年齢というものはよくわからないが、少なくとも成人していることは間違いないだろうし、十歳くらいは年上に見える。情けねぇ大人だな、と思いながらも凛は女の背を支えて起こしてやった。

「あの……」
「あ?」
「み、みず……」
「……」

マジで声なんてかけなければよかった。力が入らないようで項垂れている女に凛はもう一度ため息をつき、その辺の壁に背を預けさせて近くの自販機でペットボトルの水を買ってやった。なんで俺がこんなことを、と思いながらもガコンと大きく音を立てて落ちてきたペットボトルを取り出し、キャップを開けながら女の元へ近づく。

「……ほら、飲めるか?」
「ありがとう……」

女は蚊の鳴くような声でそう言ってドリンクを受け取り、こくんこくんと音を立てて少しずつ水を飲んでいく。嚥下のために頭を少し上げたことで先程まで顔にかかっていた髪の毛が落ち、女の容貌が見えた。どんなだらしねぇブスだと思っていたら、案外整っている。余計にこんなとこで寝てたらあぶねぇだろ、なんて考えながらそのまま女を見下ろしていると、女はこきゅこきゅと飲んだ水を口から離してぷはぁ……と息を吐いた。何回も言うが、やはり酒臭い。

「……ごめんなさい、ありがとうございます」
「別に。お前それ一人で帰れる状態じゃねぇだろ、誰か迎えに来てくれるやついねぇのか」

さすがにこのまま放置するのもなんとなく気が引けるし、今日はもうそういう日なんだと諦めてそれまで付き合ってやるか。凛は優しさからそう言ってやった。……しかし。

「うっ……、うぇっ……」
「は?」
「う、うわーーーーーーーーん!!! いません゙っ!! いません゙っ!!! きょう彼氏に振られて、いや、後輩と浮気してた上に親友に乗り換えられちゃって、周りの人間全員失ったんです死にたい゙ーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!」

急に声を荒らげた女のそのボリュームに凛は思わず驚きびくっとした。泣きわめく女に全力で引きつつも、いまだ16歳、女の扱いなんてまったく慣れていない凛は頭を抱える。

勘弁してくれ……。そう思ったがこれではまるで傍から見ると自分が泣かせているようではないか。たまたま向こうの方から歩いてきたカップルが、好奇心を隠しもしないで「やば、ケンカ?」とか笑っているのが聞こえた。ケンカじゃねぇ俺は悪くねぇ今日はいったいなんなんだ。

「わかった、わかったから泣くな、……っ、おい! 泣くな!」
「う……うぇっ、ぴぇ……うっ……」
「泣くなって! 家この辺か? 送ってやるから! 遠くてもまだ電車あんだろ、駅まで連れてってやっからもう泣くな!」
「う、うぅ〜……うー……」

まじでどんな厄日だよ、そう思いながらも凛は女の背中を摩ってやる。そうしているうちに落ち着いた女が、自分の家の場所を伝えてきた。ここからさして遠くない、10分くらい歩けばたどり着ける距離だった。

マジでこんなことになるなら声なんてかけなきゃよかった、凛は苛立ちながらも女の腕を自分の肩にかけてやりなんとか立たせる。しかし男性の中でも長身の自分と力の入らない女ではバランスが悪すぎてうまく支えられない。

あーもう、と凛は舌打ちをし、背負ってってやるから背中乗れ、と言った。女は素直にこくりと頷き、ずるずると自分に体を任せてくる。しかし、その瞬間。ふにゅりと背に柔らかい感触を感じて。

「………………っ、」
「うぅ゙……すみません゙……」

女はめちゃくちゃ酒臭いのに、胸は柔らかいしフレアスカートの下に隠れている腿も柔い。マジでお前、こんな状態になるまで酒を飲むやつがあるか……! そう心の中で毒づきながらも、サッカーばかりでろくに女と関係を持ってこなかった凛には刺激が強すぎた。そもそも彼は大人びて見えるが思春期真っ盛りの男子高校生なのである。

全ての力が抜けきっている女をなんとか背負うと、髪の毛がふわりと流れ落ちてきてシャンプーの匂いが凛の鼻先を掠めた。マジで今日はもうなんなんだよ、と叫びたくなるのを堪え、彼は目的地に向けて歩き出した。

◇◆◇

ようやくたどり着いた女の家。鍵はどこだと聞くと、カバンの内ポケットと言うので凛はゴソゴソとそれを取り出し扉を開けた。この女のことだ、扉の前に座らせたくらいじゃそのままだらりと倒れ込んで眠るに違いない。この至極短い時間でそう判断した凛は、玄関に放り込んで去るのがベストだと考えた。そこまでしてやればもういいだろう。見ず知らずの人間相手に十分よくやったと思う。

入るぞ、と声をかけて玄関に足を踏み入れる。扉を開けてすぐ、靴箱の上にある数枚写真が入るタイプのフォトスタンドが目に入った。飾られている写真の中にいる女はどれもとびきり幸せそうで、今のボロボロの酔っ払いとはまるで別人のようだと思った。……この隣にいる男のおかげでここまで笑い、ここまで苦しんでいるのだろう。

凛はなんとなくその写真立てを倒して見えないようにしてやった。彼女がいまそれを見たらまた苦しむだろうと思ったからかどうかまでは定かではない。ただ、もうこれ以上この女が酒に溺れなければいいなとは思った。普段はこんなに穏やかに笑うんだと知り衝撃を受けたのである。まだ高校生である凛は酔っ払いと接する機会などなかったので、そのギャップになんだか少しだけ動揺してしまったのだ。

「……ほら、家だ。俺はもう帰るから戸締りだけちゃんとしとくんだぞ」

自分が去ったあとはそのまま床で寝るんだろうとは思いつつ、さすがにこれ以上は付き合っていられない。そう思った凛は声をかけ、可愛らしい玄関マットの上に女を下ろしてやった。んん゙、とまたくぐもった声が聞こえてくる。

「鍵閉めろよ、わかったな」

凛はもう一度そう言い聞かせ、玄関の取っ手に手をかけた。……そのときだった。

「あの……」
「ん?」

声をかけられた凛は、お礼でも言われるのだろうと至極当然に予想した。女は潤んだ瞳で自分を見上げている。こうやって見るとやっぱり整った顔してんじゃねぇか、と心の中で呟いた。そしてそんな凛に、彼女が言った言葉は。

「といれ……」
「は?」
「といれ、連れてって、くださ……。漏れる……」
「…………」

二度と酔っ払いには声をかけない。糸師凛16歳、本日そう固く誓った。

◇◆◇

女を担ぎなおして便所にまで連れていった凛は、深いため息をつきながら玄関に戻り先程買ってやったペットボトルを手に取った。このまま何も言わずに去るのも気が引けるし、用を足して出てきた女にそれを渡して去ろうと考えたのだ。

ちょうどそのタイミングでジャーッと水を流す音が聞こえたので便所に向かう。するとゴンッと大きな音がして扉が振動したのが見えた。女が頭かどこかをぶつけたのだろう。凛は思わず扉越しに声をかける。

「……おい、大丈夫か?」
「ぅ……ぅう……」
「お前マジで……。開けれるか?」
「ゔ……」

このまま扉が開かなかったらどうしようだとか、そもそも服をちゃんと着ていなかったらどうしようなどの懸念はあったが、女はギィィと鈍い音を立てて扉を開けたし服もちゃんと着ていた。それに少しだけほっとしていると、女は額を強く打ち付けたようで、痛いと呻きながらそこを手で押さえている。……すごい音がしたし、コブになるかもしれないと思った。

「おい大丈夫かそれ。冷やさねえと腫れるんじゃねぇか」
「う、ゔー……。痛い……」
「……なんか冷やすもんあるか?」
「冷凍庫、保冷剤、ある、出して……」

だから、なんで俺が。
もう心の中でそう突っ込むことにも疲れた凛は、部屋の中へと足を進める。しかし勢いで入ったものの、知らない女の部屋にいるという事実が鮮明になるとなんだか無性に気まずくなった。

多少の生活感はあるがそれなりに整頓された女の部屋。柔らかい石鹸のようなふんわりとした匂いがする。ぬいぐるみなどがかわいらしく置かれているのを見ると、罪悪感のようなものがふつふつと湧き上がってくるのを感じた。いや、自分はまったく悪くは無いのだが。
なるべく気にしないようにしてキッチンに入り、冷凍庫の扉を開ける。カットされた野菜が凍っているのを見て、案外料理はするんだな、なんて思いながらポケット部分に置いてあった保冷剤を取り出した。

女にタオルはどこだと聞くと浴室の方を指差されたので凛はずかずかと入っていって清潔なタオルを一枚取り、それに保冷剤を包んだ。
今日はいったい何なんだ、厄日にも程があるんじゃねぇか? などと考えながら凛はそれを女に渡す。

「ほら。これで冷やしとけ、じゃあ俺はもう帰るぞ」
「ありがとう……。っていうか、君だれ?」
「今さらかよ。お前マジでもう酒飲むんじゃねぇぞ」

呆れながら言ったものの、この酔っ払いは今日のことを覚えているんだろうか。明日目を覚ましたら自分のことなど記憶になくて、普通に一人で家に帰ってたんこぶを作って自力で対処したと思い込んでいそうだ、と凛は思った。

まあそれならそれでいいだろう、成り行きでこうなってしまっただけで別にこの女に何か見返りを求めていたわけでもない。とっとと帰ってホラーゲームでもするか、と凛は玄関の方に体を向けた。しかしその瞬間、女がぐらりと倒れ込んでくる。

「っおい!」
「ふぎゅ」

また壁に激突しそうになる女を危うく受け止めて、あーもうと凛は思わず苛立った声を上げた。しかし女は全くびくともしない。驚くことも、申し訳なさそうにすることもない。まさかと思った凛が、女の顔を覗き込むと。

(……コイツ、寝てやがる…………!!)

マジかよ本当にありえねぇ、信じらんねぇ、意味わかんねぇ。
もういい加減見放したかったがここまで来てしまったせいなのかなんなのか、凛は頭が痛くなるのを感じながら女を抱き上げた。ベッドまで連れていこう。それから帰ろう。

女は凛の胸に擦り寄るように頬を寄せてすうすうと眠っている。こんな状況で幸せそうに寝やがって、俺がやべぇヤツだったら今頃どうなってたかわかんねぇぞ、と凛は思った。
どうして見ず知らずの酔っ払いにここまでしてやっているんだろう、とふと考える。自分はお世辞にも親切とは言えないタイプの人間だと言うのに。

明日は槍でも降るかもな、なんてくだらないことを思っているうちにベッドにまでたどり着いた。力の抜けきった女をそこに下ろしてやると、ベッドのスプリングが軋む音がした。そしてベッドに置いた拍子に女の手から落ちてしまった保冷剤を額に乗せてやろうとした……そのとき。

「ッ!?」

眠っていたはずの女が突然凛の体を引っ張った。前傾姿勢になっていた凛は、そのまま体制を崩す。

意図せず、女を組み敷く形になった。

「な……っ、おま、離せ……っ」
「行かないで」
「はっ!?」
「行かないで、しょーちゃん……」

吐息混じりの声で女が言う。やたらと色っぽいそれに凛は固まった。そして同時にこめかみに青筋が立つのがわかる。……完全に、元彼と勘違いされている。

「おい離せ、俺はしょーちゃんじゃ……っ!?」

苛立ちを隠すこともなく、しょーちゃんじゃねぇ、と言おうとしたところ。女の腕は自分の首に回り、ぐっと引っ張られた。いきなりのことに驚く間もなく、次の瞬間、凛の唇には。

(な……っ!?)

柔らかく、そしてアルコール臭い女の唇が触れていた。突然の触感と匂い、そしてベッド上というシチュエーションに凛は思考が停止する。
彼が状況を理解したのは、女が唇を離して甘えるように首元に頬を寄せてきてからだった。つまり、すべてが終わった後ということ。

「行かないで……」
「…………」

最悪だ。凛はそう思った。
糸師凛のファーストキスは、名前も知らない酔っ払いに人違いで奪われてしまった。わけもわからないまま終わったそれは、強烈な柔らかさと酒臭さのせいか感触が唇にまとわりついて離れない。ドッドッと心臓がやかましく騒ぎ始めるのがわかる。

女はいまだ自分の体にすがりついて泣いていた。凛はもう、なんだか全てがどうでもよくなってきた。そもそも今日は朝から疲れているのだ。ポンコツMFのせいで走り回らされたし、徒歩でTSUTAYAに行くはめになったし、女を背負って歩かされたし、ここから家まで歩いて帰るには少し距離がある。凛はもう、本当に、疲れていたのだ。

「行かないでぇ……」
「……わーったよ」

そう言った彼はスウェットのポケットに入れていた携帯を取り出し、LINEを立ち上げて母親に連絡した。TSUTAYAで中学時代の友人に会って、今日はそいつの家に泊まることになったと。

なんだかもう全てが面倒だった。凛はそのままベッドに乗り上げ、女の隣に寝転がる。女は嬉しそうにぎゅっと抱きついてきた。どうしたらいいかはわからなかったが、とりあえずその頭を撫でてやる。案外指通りのいいそれに、凛はまたため息をついた。

「ありがと……」
「……いいけど俺はしょーちゃんじゃねぇ」
「じゃあ、誰?」

女が少し体を離して自分を見上げてくる。潤んだ瞳に自分が映りこんだ。初めて女とちゃんと目が合ったような気がした。

「……凛」
「りん……」

教えてやった名前を、女は繰り返した。そしてそのあと、へにゃりと笑う。

「……ありがと、りん」

女の瞼が重くなっていく。ああまた寝るんだろうな、そう思うとなんだか少しだけ面白くなくて、今度は自分から触れるだけのキスを女にした。
アルコールの匂いに当てられて、自分も酔ってしまったのかもしれないなと思った。

改めて自分からする口付けはやっぱり酒の匂いがしたけれど、その唇は先程とは違い、ふんわりと包み込んでくるようだった。


◇◆◇


「んん゙……」

頭が、痛い。瞼を押し上げた瞬間、女が思ったのはそれだった。ガンガン響くような頭痛がするし、何故か額も痛い。昨日酒を飲みすぎたんだ……と思っていると、見覚えのないトレーナーが視界に入っていることに気づいた。

それにより自分が男の胸に頭を寄せるようにして抱かれているのだと察して、一気に目が覚める。しょーちゃん!? と女は自分を昨日あそこまで泥酔させた男を頭に浮かべながらがばりと起き上がった。その拍子にまた痛む頭にくらりと目眩を覚えながらも、慌てて自分の横にいる男に視線をやる。

そしてそこで、目に入ったのは。

「……え、」
「ん……? ああ、起きたか……」

名前どころか顔すら覚えのない、若い男の子だった。あまりの光景に、誰……と女はその男を見下ろしながら固まる。そうしていると、腕の中にいた女が突然動いたことで起きてしまったらしい彼も体を起こした。今度は女が見下ろされる形になり、その威圧感に思わず息を飲む。

「……どこまで覚えてんだ」
「え? ど、どこまでって……あの、え?」
「やっぱり俺のことは覚えてなさそうだな」
「…………」

気怠げな視線を寄越された女は、はっとして思わず自分の体を見た。服は、着ている。

「なんもしてねぇよ。道端で酔いつぶれて寝てるお前を担いで家まで運んで来てやったら、そのまま帰んなって泣きつかれてこうなっただけだ」
「え、ぇえ……? ほんとに? ま、末代までの恥……」
「記憶なくす酔っ払いほどタチのわりぃもんはねーな」

心底げんなりした声でそう言われた女は深深と頭を下げ、申し訳ありませんでした……と謝罪した。その途端また頭がぐわんと揺れる。思わず倒れ込みそうになった女を、男は抱き止めため息をついた。

「……お前、マジでもう酒飲むんじゃねぇぞ」
「ご、ごめんなさ……っい゙!」
「急に動くな。なんか飲み物持ってきてやる……冷蔵庫開けるぞ」
「うぇ、すみませ……! 冷えたお茶あるんで、よければ貴方様もお飲みください……!」
「ん」

慌てふためく女を宥め、男はベッドから降りてキッチンへと向かった。そこで初めて男の背の高さに気づいた女は、足なっが……と心の中で呟く。なんだこのイケメン、モデルか? ていうかマジでめちゃくちゃかっこよくない?

そんなことを考えていると男はコップに茶を入れて持ってきてくれた。もう片方の手に自分のものも入れてある。ん、と差し出されたそれを受け取り、ありがとうとございますと女は言った。見てわかる程に感激している。
女からすると目の前にいる男は見ず知らずの酔いつぶれた自分を家まで運んで介抱してくれたとびきり優しい恩人なのだ。彼女は彼が昨晩自分でファーストキスとセカンドキスを済ませてしまっていることなんて覚えていないし、そのせいでどうしようもない感情に支配されており、動かずにはいられないだけだということも知らないのだから。

「……あ、あの、お名前聞いても……?」
「……糸師凛」
「糸師、さん」

やっぱり覚えてなかったか、とぶっきらぼうに言った男の名前を女は繰り返す。覚えているのは凛だけだった。女があんなに切なげに自分の名前を呼んだことも、潤んだ瞳に自分を映したことも、優しいキスをしたことも。

だから凛がなんだか虚しいようなガッカリしたような、同時にほっとしたような気持ちになっていることだって、女には察しようがない。

「……凛でいい。お前は?」
「あ、名字名前です……」

慌てて名乗った女───名前に、凛はそうかとだけ返した。クールだなぁと思っている彼女は、凛が「キスした相手の名前くらい一応知っておくか……」なんて思っていたことももちろん知らない。お茶をありがとうございますと丁寧に言ってからこくこくと飲み干す名前をちらりと見て、凛も喉を潤す。

どうしてあの時、こちらからも口付けをしたのか。自分の行動なのに理由がわからない凛は、一切顔には出ていないものの、相当戸惑っていた。そもそも疲れていたとはいえ、あのまま彼女を抱きしめて朝まで眠るつもりなんてなかったのだ。
でも、と凛は思う。なんだか昨日は久しぶりにいい夢を見たような気がした。よく眠れたような気もした。あの雪の日から、どうにも自分はいつも夢見が悪かったのに。

「あの、本当に昨日はありがとうございました。ご迷惑おかけしました。お家どのへんですか? タクシー代出します……」
「別にいらねぇ。こっから歩いて20分くらいだ、遠くない」
「いやしんどくないですか、それ……。ぜんぜんタクシー呼びますよ」
「いいから」

軽く返した凛に、この子若そうだもんな……と名前は思う。いくつだろう、下手したら大学生とかだろうか。だったら通学とかで歩いてるんだろうな……若いな……なんて苦笑した。もちろん、凛がとりあえず朝の風に当たって少しでも心を鎮めたいだけだということなんてやっぱり知らない。

「なんか……すみません、ほんと……。今度なにかご馳走させてください……」
「いいって」
「でも、こんなに良くしてもらって……。あ、服とか汚しませんでしたか? 何かあったときのために、連絡先だけでも……。あ、嫌ならぜんぜんいいんですけど!」

そもそもこんなに迷惑かけてきた相手に、連絡先とか渡したくないですよね! と名前は慌てて撤回した。それに凛は少し考える。
別に連絡先くらい、教えてやってもいいんだが。自分から連絡することはまずないだろうし、されたところで困るし、コイツは自分をめちゃくちゃいい人か何かだと勘違いしているようだが、実際は全くそうじゃない。そもそも一度目は不慮の事故だったとは言え二回もキスをしておいて、こんなに感謝をされるのもなんだか騙しているみたいで居心地が悪かった。

「……嫌とかじゃないけど、別にいい。礼もいらねぇし、連絡することもねぇし」
「そ、そうですか……?」
「ああ。じゃ、俺は帰るから。お前はもう酒飲むなよ」
「あ、はい! 見送りま……、っつ」

淡々と言った凛に、慌ててベッドから立ち上がろうとした名前がぐらりとよろめく。それに凛はハァ、とため息をついた。

「見送りもいい。あとで鍵だけ締めとけよ」
「あ、ハイ……」
「じゃあな」

そう言って凛はスタスタと玄関を目指し、ぽかんとしている名前を置いてとっとと歩き出してしまった。もう会うこともないだろう。そう思いながら靴を履く。そのときふと、昨日倒したフォトスタンドが目に入った。……なんだか昨日はずっと、あまりにも自分らしくない一日だった。帰ってランニングでもするか、と扉に手をかけたとき。

「あ、あの!」

遅れて名前が玄関までやってきた。結局来たのか、と凛は無言で視線だけを寄越す。

「あの、……あの。本当にありがとうございました。昨日、本当にしんどくて……その、本当に何もかも嫌になっちゃってて、あの……」
「……」
「えっと、なんて言ったらいいかわかんないけど。凛くんが助けてくれて、なんだかとっても救われました。あの、本当に本当に、ありがとう……!」

迷惑いっぱいかけてしまってごめんなさい、何かあったらいつでも文句言いに来てください。そう言って名前はへらりと笑う。それを見た凛の体は勝手に動いてしまっていた。ポケットから、そっとスマホを取り出す。

「……連絡先。一応、教えとく。俺からすることはないと思うけど」

なんで、こんなにも調子が狂う。そう思いながらLINEを立ち上げた凛は、嬉しそうに笑ったあと、そもそも携帯はどこだったっけと慌てる名前に呆れたように少しだけ笑みを浮かべた。その中だろ、とフローリングに転がったカバンを指差すと、あっありがとうございます! と元気よくお礼をされる。

自分より年上のくせして、ガキみたいだなと思った。

◇◆◇

凛が扉を閉めた後、名前は自分と元彼が写っていたフォトスタンドが伏せられていることに気づいた。自分でやったのだろうか、それとも……とまで考えて、わからないけれどこのまま、見えないまま捨ててしまおうとゴミ袋の中に突っ込んだ。胸がきゅうっと痛んだけれど同時に清々しくて、思ったよりもはやく前を向けそうだと思った。

その後名前は改めて凛にお礼の連絡をし、もう一度ベッドへ向かった。凛くん、かっこよかったなあ。あんなに若い子に迷惑をかけて恥ずかしいな、なんて思いながら布団に潜ると、いつもと違う匂いがするような気がして少しだけドキドキした。

いや、(多分)大学生相手にいい歳した大人が何を……なんて頭を振って、またアルコールのせいでぐわんと脳みそが揺れるのを感じる。本当に情けないなぁと、自分に呆れながら枕に頭を沈めた。もう一眠りしたらシャワーを浴びて、ご飯を作って、明日からまた頑張ろう。名前は自分にそう言い聞かせた。
きっと目が覚めたときに自分一人だったら、また今日も泣いて過ごしていただろう。凛くんがいてくれて本当によかったな、と思いながら布団を口元にまで持ち上げる。

そして体を横に倒したとき、転がっている保冷剤の存在に気づいた。ああ、おでこが痛いのはやっぱりどこかでぶつけてたんだ……凛くん、保冷剤まで持ってきてくれてたんだな……と思わず苦笑する。彼にとびきりいいことがありますようにと、願った。



一方凛は、悶々としたまま自宅までの道のりを歩いていた。ここ数日で冷え込んだ風に当たれば頭もスッキリするかと思ったが、昨晩の唇の感触は忘れられないし、名前の体温も笑顔もこびりついて離れない。結局連絡先まで交換してしまって、いったい自分はなんなんだ……とため息をついた。

ちょうどそのタイミングでピコンと携帯が通知を知らせたので、どうせアイツだろうと思いながら携帯を取り出す。やはり表示された宛先には名字名前と書いてあった。なんとなく既読をつけないように、通知されたメッセージを長押しして文章を読む。そこには懇切丁寧な礼がつらつらと並べられていて、最後は「凛くんさえよければ、いつでもご飯か何かをご馳走させてくださいね」と締めくくられていた。

凛はポケットに携帯を突っ込み、どう返事をするか思い悩んだ。別にご飯を一緒にする気もないし、また会う気もないし、どう思われたところでいいとわかっているのに。すぐに既読をつけるのは癪で、変な文章を返したくもなくて、どうしたものかと思いながら凛は視線を上にやった。

今日も空は青い。秋口のこの清々しいような晴天を普段は気に入っていたけれど、今日はなんだか眩しすぎる気がして、もう一度深い息を吐いた。

◇◆◇

名前が目覚めたのは結局昼過ぎだった。時間を確認するためスマホをつけると、凛から「気にすんな。俺こそ朝まで悪かった」とだけ返事がきていた。引き止めてしまったようでごめんなさい、無事にお家に帰れましたか、などの返事を打ってテキトーに小腹を満たして風呂に入る。上がった頃には「もう着いた」とあったので、「よかったです」とスタンプと一緒に送った。その後は何もこなかった。

その日は撮り貯まっていた録画を消化し、元彼が部屋に置いていたものを勢いのまま捨てまくった。一番最初にフォトスタンドを捨てたことで踏ん切りがついたんだろうと名前は思い、改めて凛に感謝する。

掃除や平日疎かになっていた家事をしていたらあっという間に夜になり、明日も早いしとその晩彼女はいつもより早く眠りについた。そして翌朝、固まることになる。


「……っ、え……!?」

昨日早く床に就いたことで目覚めがよかった名前は、いつもより一本早い電車に乗ろうと駅に向かった。ホームで目当ての電車が来るのを待つため携帯を触りながら列に並んでいる時、自分の横に影が降りてくる。視界の端に入っただけで背が高いことがわかるその人影に、なんとなく彼女は視線をやり、そして目を見開いた。

そこに、いたのは。昨日散々お世話になった。

「……お前もこの電車だったのか」
「え、りんく、え…………、制服……!?」
「?」

同じタイミングで名前の存在に気づいたらしく、驚いたように切れ長の目を丸くする凛。しかし名前は、凛と偶然再会したことよりも、彼が纏っている衣服の方に衝撃を受けていた。

「え、うそ、待って……凛くん、高校生……?」
「ああ」
「……留年してるとかない?」
「お前恩人に向かって何言ってるかわかってんのか」

パクパクと金魚のように口を開けたり閉めたりする名前を凛は呆れたように見下ろす。そしてその後飛び出た言葉に、名前は気を失うかと思った。

「……一年だ。留年もしてねぇ」
「いちね……っ!?」

まさか、こんなに発育のいい高校一年生がいてたまるか。名前は思わずそう口走りそうになるも、それよりも先に「高校生にあそこまで迷惑をかけた」「親御さんに何も言わず一晩泊めてしまった」「つい最近まで中学生」「逮捕」「お縄」などの文字が頭を駆け巡り死にそうになった。

「り……りんく……」
「あ?」

名前は泣きそうになりながら、凛を見上げる。

「後生だから、今度、焼肉をたらふくご馳走させてください……!!」

この罪滅ぼしからきた言葉が、さらに厄介な事態を招くことを、この時の名前はまだ知らない。