01

「……まだ仕事終わんねぇのか」
「凛ちゃん。うんー、そうだねぇ……」

カチャカチャと響く、キーボードを叩く音。そのリズムを遮った愛おしい人の声に、わたしは手を止めてそちらを見た。同棲中の彼氏である凛ちゃんが、なんだか不機嫌そうにわたしを見下ろしている。この間の誕生日に贈ったもこもこの部屋着がかわいい。

凛ちゃんとは同棲してもう二年になる。年下の彼との生活は、想像していたより優しくて穏やかなものだった。サッカー選手として活躍する凛ちゃんはどうしても毎日忙しいし、人目も気になるためあまりデートらしいデートはできない。でもだからこそ家で二人で過ごす時間を大切にしているし、なるべく生活リズムも合わせている。
本来夜型であるわたしからすると彼はとても早寝だから、仕事が立て込んでいるタイミングだとそれがちょっと大変だったりはするんだけど……凛ちゃんの体に身を寄せて、戯れに指を絡めたりして、おやすみなさいとその薄い唇に口付けると一日の疲れは吹っ飛ぶようだった。凛ちゃんの方からスキンシップを取ってくることはあまりないものの、わたしが甘えるとそれを受け入れて少しだけ空気が和らぐ。大人びているようで、不器用でかわいい彼のことを心底好きだと思う。

けれども今日は、どうしても会議の関係で明日の始業時間までに資料作成を終えないといけない。最近雑務が立て込んでおり、家まで仕事を持ち帰る日が続いていた。その上就寝時間もずれるということで、たぶん凛ちゃんはちょっとご機嫌斜めである。

「ごめんね、明日になれば落ち着くから……。凛ちゃん先に寝てて」
「別に謝ることじゃねぇだろ。……歯、磨いてくる。あんまり遅くまで起きてんなよ」
「うん、ありがとう」

そう言って洗面所の方に向かって行った凛ちゃん。その後ろ姿を少しだけ見送って、わたしはまた自分の手元に視線を戻す。しかし今晩はなかなか冷えるな。何かあったかいものでも飲もうかなぁ……なんて考えながらキーボードを叩いた。

◇◆◇

ふわり。そうして十分程経ったところで、なんだか優しい匂いが鼻腔をくすぐった。突然のそれに驚いて顔を上げると、凛ちゃんが湯気の立つマグカップを持って来てくれている。「カフェラテ?」と聞くと、「コーヒーよりはマシだろ」と返ってきた。たぶんカフェインのことを気にしてくれているんだろう。眠気覚ましにはコーヒーの方がいいんだけど、彼はやっぱりわたしを早く眠らせたいらしい。

「ありがとう、嬉しい! ちょうど何か入れようと思ってたの。凛ちゃんは優しいねえ」
「別に。じゃあ俺は先に寝るぞ」
「うん、また明日ね。あ、美味しい」
「………………」

早速一口いただきます、と口に含んだだけでぽわんと体があたたまり、その優しい味になんだか全身の力が抜けた。凛ちゃんが淹れてくれたという事実だけで、いつもの5億倍美味しいな……なんて思っていると、彼が何かを言いたげにこちらを見ていることに気づく。それにわたしは首を傾げて、甘くて美味しいよともう一度お礼をした。すると凛ちゃんはそうかよとぶっきらぼうに言って、くるりとわたしに背を向けて寝室の方へと歩いていってしまう。
やっぱりちょっと機嫌悪い? 仕事ができない女だとか思われてるのかしら、なんて考えながらもわたしはまた画面と睨めっこする作業に戻る。ああでもカフェラテのおかげで頑張れるなぁ、なんて思って、そこではたと気づいた。

「今日ちゅうしてないじゃん」

いや朝起きた時もしたし家を出る時もしたし帰宅時にもしているので今日一日していなかったというわけではないんだけれど。おやすみのキスは特に、毎日欠かさないようにしていたのに。わたしのためにずいぶん甘く注がれたカフェラテが嬉しすぎて、うっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

もしかして凛ちゃん、さっきの微妙な間はおやすみのキスを待っていたのでは……? そう思うといじらしくてたまらなくなる。わたしは慌てて立ち上がり、早歩きで寝室へと向かいその扉を勢いよく開けた。

「凛ちゃんっ!」
「っ!? なんだよ急に」
「ごめん! わたしとしたことがすっかり忘れてた」
「はぁ?」

もう既に布団の中に潜っていた凛ちゃんが、驚きながら上体を起こす。そんな彼の元に近づいて、わたしはそっとキスをした。

「おやすみのちゅう! さっき待っててくれたんだよね、寂しかったよね」
「おい俺は別に待ってねぇ、寂しくもねえ」
「えっ寂しくないの!? わたしはないと寂しいけど!!」
「知るかよ……」

あまりのわたしの勢いに若干引いている凛ちゃんに思わずクスクスと笑ってしまう。勢いのまま彼に抱きつくと、肌寒くなった季節のせいでその体温が鮮明に感じられて、なんだか離れがたくなってしまった。

「……おい、仕事するんじゃなかったのか」
「する、けど、凛ちゃんあったかいー……冬場の凛ちゃんはもこもこでいいねえ」
「お前が選んでくる部屋着がいつもそうだからな」
「んふふ」

さすがわたし、センスあるわぁと凛ちゃんの胸に顔を埋める。すると彼はそのまま後ろに倒れていってしまった。彼に身を任せていたわたしも当然一緒に布団に沈む。あっやばい、横になったら一気に眠気が襲ってくるぞ。そう慌てた瞬間に、凛ちゃんはわたしの髪を撫でながら言った。

「……眠いなら寝たらいいだろ。明日起こしてやるから朝にやれよ」
「そういうわけにはいかないよぉ、凛ちゃんが淹れてくれたカフェラテもあるし」
「あんなもん別にいつでも入れてやる」
「でも歯磨きもしなきゃだしー」

ああ、だけど、このまま凛ちゃんの体温に包まれていつも通り眠りにつきたいな。朝早く起きてするのもありかなぁ。だけどカフェラテは飲みたいし、歯磨きもあるし。ていうかこうやって悩んでるうちに凛ちゃんが寝ちゃいそうだなあ。
……なんて考えていると、彼はひとつため息をついた後口を開いた。

「じゃあ十五分だけ起きて待っててやるから、急いで飲んで歯磨きして寝にこい」
「えー、でも」
「このままダラダラしてても一緒だろ。ほら、わかったら早く行け」

しかしそう言われても、起き上がったら仕事する気になると思うんだよなぁ……。そう思いながらウーンと悩んで口を尖らせていると、突然凛ちゃんからキスをされてわたしは目をぱちくりした。

「……とっとと済ませてこい。俺もお前がいたほうが寝やすいんだよ」
「わたしがいないと寂しいってこと!?」
「一人だと布団が冷たいだけだ」

……それを人は寂しいと言うのでは?????

そう思ったけれど、これ以上言うと本当に怒られそうだから、わたしははーいと体を起こした。薄暗い寝室でも微かな光を受け止めて、わたしを映して輝くアマゾナイトの瞳に思わず破顔する。何笑ってんだよと眉を顰める彼になんでもないよと答えて、もう一度だけキスをした。

君のぬくもりで息をする