キルアがミルキからかっぱらったチョコを渡される話

「これ、ミルキからかっぱらってきたからやる」
「ヘェッ……?」

いつも通り担当箇所であるキルア様のお部屋の前の掃き掃除をしていたら、突然後ろからそのキルア様に声をかけられて私は飛び上がった。

キルア様は私のような使用人にも分け隔てなく接してくださる。特に私は使用人の中では比較的若い方だからか、よく話しかけていただいていた。なのでそれ自体は珍しいことではないのだけれども、今回は……内容が内容である。

「き、キルア様……!? そんな、あの、いただけません」
「なんでだよ。いっぱい取ってきたからやるよ」
「わたくしのようなものがキルア様から何かを頂戴するなど……! ましてそもそも、元がミルキ様のものであればなおさ、」
「いいからもらっとけって」
「待っ」

なおさらいただけません、そう言いたかったのにキルア様は私のスーツのポケットにキャンディのようにラッピングされた丸いチョコレートを複数押し込んでさっさと背中を向けてしまわれた。全く警戒できていなかったとはいえ、まだお若いのにあまりの素早さに言葉を失う。この不甲斐なさ、ツボネ様に叱られてしまうのでは……と慄いていると、キルア様は軽く手を上げて猫のように愛らしく微笑み「ホワイトデー期待してるね」とおっしゃった。

使用人から雇い主に、私的な贈り物をすることは固く禁じられている。どうしたものか、と思いながらもバレたときが恐ろしいのでその日私は素直にツボネ様に報告した。やはりみすみすポケットに物を入れられてしまった件を叱られ、せっかくいただいたチョコレートはツボネ様により没収。後ほどキルア様に返却されることになってしまった。

せめて写真くらい撮って残しておけばよかった。そう後悔したところで後の祭りである。ミルキ様からくすねてきたらしい、大量の市販のチョコレート。色とりどりに個包装されたそれはまるで夢みたいにかわいらしかった。たとえキルア様の気まぐれでしかなくても、そこに他意などなかったとしても、味わい噛み締め後生大事な思い出にしたかったな。……なんて、使用人にあるまじき考えにやるせなく笑い、両の頬を叩いて喝を入れ仕事に戻る。それからというもの、キルア様は私と目が合っても声をかけてくださらなくなってしまった。致し方ないとはいえ、酷く心が沈んだ。


それから数ヶ月後、突然キルア様が家出をなさった。キキョウ様のお顔とミルキ様の脇腹を刺し、制止も振り切って飛び出してしまわれたらしい。
私はその話を耳に挟んだ時、彼の思い切った行動に感動して震えてしまった。だってここの人間はまるで機械のようにただ日常を続けるから。それを当然として教育されていたであろうキルア様が抗ったことに感激し、どうかこのまま羽ばたいてほしいと祈った。雇い主に対して特別な感情を抱くことは御法度である。けれども願わずにはいられなかった。
……だからこそ、あのバレンタインの日からおよそ一年後、彼が再び屋敷にお帰りになられたときは、一介の使用人の分際で胸が張り裂けそうに苦しかった。

キルア様はずっと独房にいらっしゃる。いつまで罰をお受けになるのかはわからないけれど、ミルキ様は相当怒っていらっしゃったからまだまだかかるだろう。私ができるのは、キルア様がお部屋に戻られた際に少しでも気持ちよく感じていただけるよう誠心誠意掃除をすることだけだ。そう気合を入れて、今度は雑巾がけをしようとしたとき。

「……ミルキから取ってきたチョコじゃなかったら受け取ってくれんの?」
「ヘェッ!?」

突然背後から懐かしい声がして私はまた飛び上がった。驚いて振り向くと、懲罰の後だからか顔中に打たれた跡のあるキルア様が私を見つめている。

「き、キルア様!? ご無事で」
「なぁ、オレが普通に買ったチョコなら受け取ってくれる?」

久しぶりにお会いしたキルア様は、記憶よりいささか身長が伸びてたくましくなっていらっしゃった。差し出がましくもその成長ぶりを嬉しく思いつつも、慌ててかけた言葉を遮られる。誤魔化しなど通じないとハッキリとわかるまっすぐな瞳でそう聞かれた私は、視線をさ迷わせた後小さく答えた。

「……わたくしが使用人で、キルア様が雇い主である限り、いただけません」
「じゃあお前もここ出て使用人やめようぜ」
「えっ?」

言うが早いかキルア様は軽々と私を抱え上げ、そのまま歩き始める。どうしてキルア様相手だとこんなにも気が抜けてしまうんだろうと思いつつ、状況を理解しきれていない私は目を白黒させながら声を上げた。

「き、キルア様!? な、何を、」
「やっぱ使用人いない生活不便でさー、ついてきてよ。あーいや屋敷でたら使用人じゃなくなるんだけど、んーどうしよ、まあとりあえず着いてこいよ」
「ヘェッ……?」

訳が分からないけれど、私はこのまま連れ去られてしまうんだろうか。状況を飲み込めない私の頭は真っ白である。……けれども確かにこの胸は、期待とときめきで震えていた。このまま本当に、キルア様と一緒に、この屋敷を出ていいのだろうか。

「なに。少なくとも屋敷にいる間はオレに逆らえないでしょ」
「そ、それはそうですが……えっ?」
「じゃあついてきてよ、山下りたら好きなチョコ買ってやるからさ。オレけっこう怒ってんだぜ? 去年ツボネからチョコ返されたの」
「あっその、それは……申し訳ございません」
「今年こそホワイトデー期待してるから」

言葉を失った私を連れて、キルア様はどんどん進んでいく。正直、頑張ればこの腕から逃げ出すことはできるだろう。けれどもあの日、ツボネ様にチョコレートを没収されてうっかり涙が出そうになった私は、ただこの信じられないほど甘ったるい奇跡を噛み締めること以外できなかった。
初めて触れたキルア様の体温は、蕩けてしまいそうな程に熱い。

チョコレートフィリングに溺れる