待ち人は眠る

 初めて会ったのもちょうどこれくらいの季節、梅雨目前で昼間は太陽が照り夜はじめじめとする湿度の高い時期だった。冷房を入れるには寒いし、かと言って蒸し暑いし、窓でも開けようかと思いながらも気圧のせいで輪をかけて怠惰になった体を動かすのは億劫で、ごろごろと転がりながら睡眠と覚醒の狭間で彷徨っていた時。コンコンと窓を叩く音がして、なんだなんだと振り返ったらこの世のものとは思えないイケメンがそうスペースはないはずの桟にぶら下がるようにしていて、わたしはあんぐりと口を開けた。驚きで固まる体に鞭打ってなんとかその窓を開くと、彼は至極当然のような顔をしながらわたしの部屋に入ってきた。出会いはあまりにも奇妙でその当時のわたしの混乱と言えば筆舌に尽くしがたく、しかしかといって運命的でもなく、ただただものすごい衝撃を彼はわたしに与えたのだった。
 
 彼が堅気でないことは割と始めの方に気がついた。あの日突然わたしの家を訪ねてきた彼が何者かから逃げていたことも分かった。ごくごく普通の一般人であるわたしを巻き込まないでほしいという気持ちは勿論あったが、そんなことより当時の自分は繰り返される無機質な毎日に飽き飽きしていたし、その中で何の因果か不意に現れた彼は眩しく、まるでわたしは何か大きくて見えない力に選ばれたのではないかとすら思った。それくらい、彼は魅力的だったのだ。
 
 彼を部屋に招き入れた後とりあえずお茶を出してやると、向こうも向こうでわたしが変わっていると言って笑った。わたしも本来であれば急に窓から現れた男に茶を淹れたりしないので単純に美形に絆されただけだったのだが、その言葉はまるでわたしの陰鬱な人生の中で初めて受けた賞賛のような気がして、わたしはそれを心の中にある宝箱に大切にしまった。
 彼はわたしが与えた茶を気に入ったようだった。礼を述べた後彼は自分の名を名乗りシャルと呼べと言った。その言葉にわたしは浅はかにもまた来てくれるんだろうかと期待した。そしてその晩わたしはシャルに抱かれた。逞しい二の腕に顔を埋めると、生まれて初めて呼吸をしたのではないかというくらい肺が澄み渡った。
 
 シャルはそれからも時折わたしの部屋に訪れた。それは三日後のこともあったし、一週間後のときも、一ヶ月後のときもあった。三ヶ月程間が空いた時はさすがに少し応えた。それでもわたしは彼をいつも待っていた。けれどもそれに悟られたら彼はもうここに現れないような気がして、せめてもの抵抗としてわたしは窓を頑なに閉めるようになった。コンコンとノックを受けて、やれやれといったポーズでそれを開く。そんな関係しか築けなかった。こちらから踏み込むことは到底できなかった。臆病者めと自嘲しながら、彼に対するこのまどろこしい感情に名前をつけられないでいた。執着や優越のような言葉が合っているのかもしれないな、とひとりごちつつ、頭の片隅に浮かんだやけに青臭い言葉には気づかないふりをしていた。
 
 恋だったのかもしれないな。突然そう受け入れられたのは季節が二巡したときだった。彼はもうわたしの元にこないだろうと悟ったのはもっと前のことだったが、それでもこの部屋から一歩も動けない体に反してわたしの脳みそは執念深く思考を続けてしまっていたようだ。
 さらりと指通りのいい髪も、笑う時に下がる眦も、薄い唇も、わたしの名を呼ぶやけに通る声も、細く長い蜘蛛の糸のようにわたしに少しずつ纏わりついては雁字搦めにした。彼は捕食者でわたしは被食者だった。できることなら髪の毛一本、思考一片残らず食べてくれればよかったのに。
 
 最後にあの笑顔を見てから三年が経った。恋人というにはあまりにおざなりで、ただの知人というにはあまったるかった。いまだに熱を残す体、これは本当に彼の熱なのだろうか。幾度も細胞が入れ替わったであろうこの肉体は、都合のいい夢を宿しているのではないだろうか。その問いの答えを知るには彼が必要だ。だからいまも、わたしは窓が叩かれるいつかに思いを馳せずにはいられない。
 
 
 わたしはいまもあの人を待つ。突然現れては少しずつ、でも確実にわたしの心を・体を、奪っていったあの人を待つ。彼はいつもわたしの元を去るとき、わたしの大事な何かを奪っていった。共にいる時間だけそれはわたしの中に還る。
 わたしはわたしひとりではわたしでなくなってしまった。わたしは、あの人と一緒にいないと不完全なままなのだ。
 
 あの人に名を呼ばれては蕩けた夜を思い出す。窓が叩かれる気配はない。新しい季節を迎えるたびに絶望する。それでもなおわたしがここにいるのは、彼がいなければ意味のない退屈な日々をなんとか乗り切りまだ呼吸を続けるのは、いつか来るかもしれない彼に居場所をくれてやるためだ。そして、わたしが、わたしになるためだ。
 
 わたしはもうひとりでは、わたしとして生きることもわたしとして死ぬこともできない。次に彼が来たら優しく殺してもらおうか。そんなことを考えながら、わたしは少し笑って眠りについた。遠くでカラスが鳴いている。