10月24日

まさに晴天、快晴。
雲が高い。秋の空だ。
試合も後半戦、スコアボードには0が並んでいる。私は祈る気持ちで真鍮の相棒を胸に抱えて、足元に広がるグラウンドでの攻防を見守るしかない。

初回からコツコツと積み上げていた得点をひっくり返されたのは、四回の裏。五回表ですぐに一点を返し同点となったものの、その裏でまた逆転を許した。そのままお互い得点を譲らず、九回ラストイニング。ツーアウト、ランナーなし。
あとひとつ、あとひとつ。
向こうの客席が色めき立っている。
あとひとつで、甲子園。
ドッドッと大きな音を立てて、心臓が脈を打つ。私は、この場面を知ってる。つい三ヶ月前。三ヶ月前もこんな風に胸が痛いぐらいに張り詰めた。けれどあの時と違うのは、私たちが追う側だってこと。点が入らなければ、もうそこで終わり。心なしかみんなの顔色は暗い。何処か諦めムードが漂っている。その雰囲気を払拭したくて、私は思わず吠えた。

「ッ、みんな!まだ終わってないよ!打者に届く音!意識して!前向いて!」
「…っ、はい!」
「はい!」
「はい!部長!」

各楽器、各パートから声が上がる。大丈夫、まだ終わりじゃない。私たちが彼らを信じられなければ、誰が彼らを信じるというのだろう。私たちに出来ることは、選手達を信じ、そして気持ちを込めた演奏をすること。それだけだ。

「やるじゃん、紗南」

隣に立っていた友人の川瀬優子が、私の脇腹を肘で突いた。やるじゃん、なんて。言われる程のことでもない。些細な一喝。

「うるさい、ゆっこ」
「部長が板についてきたねー」
「いいから!楽器かまえてよ、早く」

場内のアナウンスが次の打者の名前を告げる。華奢で小柄な一年生。ヒッティングマーチは「キューティーハニー」。打席に立つ彼を奮い立たせるような演奏を。それだけを意識して、楽器に息を吹き込む。明るいメロディー。サビの盛り上がりが好きだ。突き抜けるトランペットの音。私の音。主旋律。張り詰めた空気を裂くような、音を。少しでも選手の力になるような音を。そして、ネクストバッターボックスで待つ彼に届く、音を。

緊張の第一球。
初球。
打っ、

「ったー!!!」

パーカスの子の声が後ろから響いた。スタンドもベンチも沸く。センター前ヒット。一塁でガッツポーズを決める三番の姿。
そして、打席に立つのは…。
優子が興奮したように私の肩を叩いた。

「紗南!紗南!つぎ!つぎ、御幸くんだよ!!」
「…わかってるってば」
「大丈夫なの?」
「なにが、」
「今日御幸くん、調子悪いよ、ね?」

確かめるような、そんな言葉尻。わかってる。確かに彼女の言う通り、今日の彼は四番の仕事をしていない。ノーヒット。ことごとくチャンスに倒れている。それでも、

「一也ならやってくれるって、私、信じてるから」

ずっと傍で見てきた私だから言える言葉の中に、ほんの少しの祈るような気持ち。少し震えた声と、真剣な表情にそれを悟ったらしい優子は、今度は優しく私の肩を撫でた。

「わかった」
「…うん」
「よし、じゃあ、みんな!いくよ!」

優子が私のかわりに声を張る。
狙いうち。
一也の曲。

(かずや)

イントロから入るメロディー。懸命に唇を震わせ息を吹き、指を動かす。視線はバッターボックスから離れない。離れられない。

(かずや)

心の中で彼の名前を繰り返し呼ぶ。どうか応えてほしい。昨日届いたメールに書いてあった言葉、信じてるから。
甲子園に行く。
その言葉がどれだけ重いかを知ってるよ。
慣れない主将という立場に悩みながらここまで戦い続けてきたことを知ってるよ。誰よりも野球を愛していて、天才ともて囃されながらも努力を忘れないことを知ってるよ。
だから、一也、お願い。

初球、一塁走者が盗塁するも一也は空振り。
2球目、アウトコース、ボール。
3球目も、ボール。

「緊張する…」

相手チームのとったタイムの合間、マウスピースからそっと口を離して思わず呟いた。ザワザワと漣のように広がる客席の興奮。私は自分の胸の騒めきを押し殺すかのように部員達に声を掛ける。不意に、バッターボックスで自分のスイングを確認していた一也がこちらを見た。彼のサングラス越しの瞳と目が合った気がする。
多分気のせいだ。ただ、ベンチを見ただけ。
そんな風に自分に言い聞かせる。
試合再開。
賑やかな笑い声が、相手チームの内野手から聞こえてきた。それを掻き消すかのように、音を風に乗せる。吹く。懸命に、吹く。

四球目、ファウル、これで2ストライク。
五球目、ボール。
六球目、ファウル。

そして、七球目。

鋭い音が、響き渡った。ボールはピッチャー横を潜り抜け、遊撃手のグラブをも弾く。

「一塁!!セーフ!!!」
「よし!!!」
「やった!!!」
「よっしゃー!!!」

ついに掴んだ反撃の糸口に、ベンチ、スタンド、私たち吹奏楽部が声を上げる。そして球場の全てが興奮に包まれた。まだ終わってない。今度は期待に胸が膨らむ。その中に、ほんの少しの焦燥感。だけど私たちは信じるしかないのだ。
次の打者の曲は、「とんぼ」。カウントからスローテンポな低音メロディーと掛け声。スタンドの野球部員達も声を張って、エールを送る。打って、お願い、打って。一也のヒットを無駄にしないで。いつだって、誰が打席に立っていたって、想うのは彼のこと。

初球、ストライク、一也が盗塁に成功。

応援にも熱が入る。これで走者、二・三塁。逆転。そんな言葉が自然と浮かび上がってきた。ピストンを抑える指先が震える。

二球目、ストライク。

これでツーアウト。祈るような気持ちで球場を見下ろす。

三球目、ファウル。
四球目、ボール。
五球目、ファウル。

後がない。お願い。お願い。心臓が痛いぐらいにバクバクと高鳴る。喉がカラカラだ。酸欠になりそう。

投手が構え、投げた六球目。

「っや、…!」
「た!!打った!打った!!!」

バットの先に当たった白球はセカンドの頭上を超えて、落ちる。球場の実況の声も打者・前園くんの雄叫びも全部いっしょになって耳に飛び込んできた。三塁走者がホームベースを踏み、これで同点。

(一也は…!)

思わず目で追えば、ちょうど三塁ベースを踏む直前。一也の視線の先にいるであろう三塁コーチャーがぐるぐると腕を回していた。
一也は三塁を踏んで、そのままホームを目指して走る。
頑張れ、頑張れ…!!
そんなありきたりな言葉しか出てこないけれど、目を逸らすこともせずにただ一也の姿を固唾をのんで見つめていた。
一也が、ホームベースに飛び込む。

一瞬の静寂。
主審が、両手を大きく広げた。

「セーフ!!」
「セーフだ!」
「逆転!!」
「っ、しゃあ!!」
「逆転ー!!逆転だよ!!」

優子が涙目になりながら、わたしの肩を大きく揺らす。会場全体がワッと湧き上がる。ベンチもスタンドも喜びが爆発する。そんな中で、私の視線はホームベースに縫い止められていた。
やだ、やだ、うそ。
一也が動かない。
うそ。
ホームインした体勢のまま、四つん這いで、俯いている一也。出来るなら今すぐ駆け寄りたい。一也。

「かずや…」

思わず口端から漏れた彼の名前。その瞬間、動かなかった彼の右手はダン、ダン、とグランドの土を叩いた。そしてそのままゆっくりと立ち上がり、ベンチに、スタンドに、そしてわたしたち吹奏楽部に、渾身のガッツポーズ。わああああっと爆発したような歓声が球場を包み込んだ。





「一也!」

副主将の倉持くんと前園くんに抱えられ間に挟まれた一也の背中に声を掛けた。タクシーに乗り込む寸前。三人の顔が一斉にこちらを向く。
試合終了後、エースの降谷くんを囲う輪に一也が加わることはなかった。そして整列した時の様子や、閉会式の様子を見る限りやっぱり万全の体調ではなかったらしい。そんなことぐらい私にも分かる。だから思わず人目も気にせず、駆け寄った。

「…あー、見つかったか…」
「っ、身体!どっか痛めたの?!」
「別にたいしたことねぇよ、それよりお前吹部はいいのかよー。部長だろ」
「…ゆっこが行ってきていいって言ったんだもん…」

私の顔を見るなりバツの悪そうな顔をした一也だったけれど、すぐに主導権を握り返すように私の痛いところを突く。楽器の積み込みの指示はしたし、球場外で選手たちを出迎えるまで多少時間があった。心配してすっ飛んできたのに、相変わらず一也は私に意地悪だ。
倉持君と前園くんが私と一也の顔を交互に見比べている。野球部主将と吹奏楽部部長は例年関わりが深いが、どうも私たちの間柄はそれ以上だと察するものがあるらしい。「彼女か?!彼女なんか?!」と小気味良い関西弁で前園くんが、一也の体を揺らした。

「俺のおさななじみ」
「うん」

一也の的確な言葉に、私は頷いた。
それ以上でも、それ以下でもない。そんな事実を突きつけられた気分だった。でも本当のことだから仕方ない。日に焼けてヒリヒリと痛む頬を上に持ち上げて、笑う。

「一也、甲子園おめでとう」

応援行くから。連れて行ってくれて、ありがとうね。そんな気持ちを乗せて口にした言葉。いつもの黒縁メガネのレンズ越しの一也の瞳が、私をじっと見つめた。激闘の証。汗だくで、柔らかな髪がいつもよりしんなりしていて、そしてほんのりと赤く染まった頬。

「紗南」

一也の唇が、そっと私の名前を紡いだ。

「聞こえてたよ、お前のトランペット。甲子園でも頼むな」

うん、うん、と。
溢れそうになる涙を堪えながら、私は何度も頷いた。
それだけで十分だった。
くるりと踵を返して、吹奏楽部のみんなの元へ戻る。背中に聞こえるのは、「お前!今まで隠してやがったな!」という倉持くんの声と「タッチか?!タッチなんか?!」という前園くんの声。なんだか漫才を聞いているようで思わずクスクスと笑みが溢れた。新チーム結成当初、人伝に聞く野球部の話題は決していいものばかりではなかった。勿論わたしたち吹奏楽部だってそれは同じこと。先輩達が抜けた穴は大きい。それでも、前を向いて頑張っている。今日それが証明されたのだ。いいチームだね、一也。
私も負けてらんないよ。
そんな気持ちを抱えながら、球場から出てくる観客の波をすいすいと掻き分けて、もといた場所へと戻る道を急ぐ。その時、

「えっ、うそ、成宮鳴?!」
「やっぱり来てたんだ!」
「どこ、どこにいたのー?」

一際甲高い声が耳に入った。
なるみやめい
もはや聞きすぎるほどに、この夏、耳にした投手の名前。私は思わず足を止める。どくり、と。血流が一瞬重たくなった気がした。喉が乾く。あたりを見渡せば、少し離れたところに人集り。きゃあきゃあと騒がしい。色んな制服の女子生徒に囲まれたその中心に、見慣れた明るい髪色。

(成宮だ)

来ているだろうとは思っていたけれど。
思っているのと、実際にその姿を目にするのとは違う。
脳裏に浮かび上がるのは、いつも一也の肩越しに見た勝気な瞳。明るいブルー。私をせせら嗤うような口端。ああ、嫌だ。ふいにそんな言葉が胸を満たした。
私たちの夢を阻んだ大きな壁は、いつものように愛想を振りまいて写真撮影に応じている。思わず唇を噛んだ。
一瞬。ほんの、一瞬。
目があった気がする。
そして、風が吹いた。
私はその隙に、スカートを揺らして駆けていく。
みんなのもとへ。
背に刺さるあの青い瞳の鋭い視線に気付かないふりをして。



誰もが野球部の勝利に胸を躍らせたまま、バスに揺られて一度学校に戻った。車に積み込んだ楽器を下ろし、部室に運び込む。短いミーティングを終え、解散。いくら今日がどんなに素晴らしい日だったとしても、明日は月曜日だ。通常通りに授業がある。「早く帰って休むんだよ」なんて、同じパートの子達を中心に下級生達に声を掛けていく。

「紗南ー」
「なにー?」
「どっか寄ってかない?」
「んん、いいや、大丈夫。今日は休む」

優子や良い同級生たちの誘いを断って、私は顧問と週明けの練習の打ち合わせ。今後控えているのは、十二月の定期演奏会。今日野球部が出場を決めた十一月の神宮大会の応援は顧問が断ってしまったらしい。その話を聞いて、少し残念に思う。だけどまあ部の決定しては妥当だろう。それに今日の様子では、一也が出場出来るか微妙なところだし。なんて、不純なこと考えながら。
結局打ち合わせを終えたのは、部員が皆帰宅した時分だった。
部室の鍵を職員室に返した後、校舎を出て最寄り駅へと急ぐ。陽が落ちた黄昏時。水彩絵の具を塗ってじんわりと溶かしたような、夕暮れと夜の合間。
野球部のグラウンドからいつも聞こえてくる声は耳に届かない。
今日ばかりは、寮で祝勝会だろう。
一也は病院から戻ってきただろうか。いつも考えるのは、彼のこと。

JR西国分寺駅から新宿行きの快速に乗って、そのあと2回乗り換え。約一時間半の道のり。駅までの徒歩を加味すると約二時間。決して近くはない学校だけれど、それでも通う価値がある。だって青道には一也がいる。

電車に乗り込んで早々運良く座席に座れたので、ふうっと一息ついた。心地よい疲労感。このまま眠ってしまいそうになるので、学生鞄からポータブルオーディオプレーヤーを取り出して、イヤフォンを耳に装着する。再生ボタンを押せば、聴き慣れたメロディ。流行りの音楽も入っていれば、コンクールで吹いた課題曲まで入っている。優子はよく私のプレイリストを「ごった煮」と笑うが、きっと彼女も同じだろう。そんなことを思い、ふふっと笑った。
曲が三曲目を数えたあたりで、私はブレザーのポケットに入れっぱなしだった折りたたみ携帯を取り出す。左上のボタンを押してメールボックスを開き、受信箱のすぐ下。フォルダ分けしてあるパンドラの筐を開く。REマークが連なるメール達。一番上。昨日受信したメール。それをえいっと気合を入れて開いた。

from 御幸一也
title Re:
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ありがとう
甲子園連れてくから


これをなにも知らずに読んだら、素っ気ない文体だと思うかもしれない。
でも一也にしてみたら、長い方だ。
それに最後の一文がいい。
約束。
覚えていてくれたんだ。
それだけで、嬉しい。

ふうと息を吐いて、返信メールの作成ボタンを押した。
一文字一文字考えて、ゆっくりと。
思いが伝わるように。


to 御幸一也
title Re:Re:
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優勝おめでとう
今日はきっとお祭り騒ぎだね
身体の方は大丈夫?

甲子園で狙いうちを吹けるのが今から楽しみ


一也とは幼稚園の頃からの付き合いだった。実家が近所の所謂幼なじみ。一也のお母さんが病気で亡くなったことをきっかけに、世話好きの母がよく御幸家を気にかけるようになった。一也のお父さんは仕事が忙しく、家事にまで手が回っていなかったから、それこそ小さい頃の一也は私の家でよく晩ご飯を食べていた。まあ、自立心が強い彼は小学校に上がる頃には料理を覚えてしまったので、その回数も年々減っていったのだけれど。それでも私たちの付き合いが変わることもなく。それは一也が野球を始めても、私が小学校の音楽クラブに入ってトランペットを始めても、中学校に進学しても変わらなかった。

高校は青道に行くよ
寮生活になるから、親父のこと頼むっておばさんに言っといて

一也は私にそう言った。
それこそ中学校一年生の時から、彼の進路は変わらなかった。
だから私も、決めたのだ。

私も青道に行く
吹奏楽部に入って、一也を応援したいの
だから、甲子園連れてってよね

その言葉に、一也はただ「馬鹿だな」と笑うだけだった。
自分でもそう思う。
でもしょうがないじゃないか。
一也が好きなんだから。
きちんと自分の気持ちを伝えたことはない。でも聡い一也のことだから気付いていると思う。まあ今気持ちを伝えたところで、「野球以外のことは考えたくない」と断られるのが関の山だろう。…あと一年。せめて、一也の進路が決まるまで。待つ心算は出来ている。

そんなことを考えながら、私は作成したメールを送信した。
きっと返信が返ってくるのは、明日以降だろう。一也のことに関してだけ 待つこと に慣れてしまった自分が恐ろしい。
一也からのメールを返し終わった後は、クラスの友人や吹奏楽部の仲間達のメールを返す。こちらは結構適当だ。向こうもそうだから、わりと気楽。馬鹿みたいな話を早打ちでポンポン返していく。こういう何気ない瞬間に、ああ青春しているな、と思う。
それにしても笑えてくるのは、私に「野球部甲子園出場おめでとう!」なんて送られてくることだ。あまりおおっぴらに一也と幼なじみだと言い触らしていないけれど、親しい子には伝えてある。一也は多分…というか絶対言ってないだろうな。数時間前の倉持くんと前園くんの様子から察した。隠したいわけではないだろうけれど、あまり自分から自身の話をしない性格だし、なんて。言い聞かせるような言葉。寂しいなんて思ってはいけないのだ。

最寄駅に着いた時には、20時を回っていた。駐輪場から漕ぎ慣れた自転車に跨って自宅を目指す。時間があれば一也の実家に寄っておじさんに試合の結果を伝えたかったけれどもう遅いし。真っ直ぐ帰ることにする。
そうしてくたくたになった身体で帰宅したというのに、自宅は真っ暗だった。両親共にそれぞれ飲み会で留守にすると伝えられていたけれど、なんだか寂しい。
一也、頑張ったんだよ。
そんな言葉を誰かに伝えたかった。
家屋横の駐車スペースに自転車を止め、鞄からキーケースを取り出して施錠された扉を開ける。
静かな廊下。靴を脱ぎ、電気をパチンパチンとつけて、廊下を進む。汗だくになって汚れたインナーと制服のカッターシャツを洗濯機の中に放り込み、ついでにブラジャーもネットに入れてポイ。洗面所に置いておいたスウェットを上から無造作に被って顔を出した。スカートは自分の部屋で脱ごう。ブレザーを手に二階の自室に戻る時。ふっと洗面台の鏡に映った自分の姿が目に入った。
嬉しそうだね。
だって嬉しいんだもん。
そんな風に自分と会話する。
映っているのは、恋に浮かれる女子高生。

トントンと小気味良く階段を登る足音のリズムが、聞きっぱなしのメロディーの隙をついて聞こえてくる。ひとりだとわかっているからなんとなくイヤフォンをつけっぱなしにしていた。穏やかなクラシックの旋律。ヴァイオリンが、眠気を誘う。
自分の部屋に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。スカートを脱いで寝巻きのジャージに着替える手間も惜しい。今日はそのまま眠ってしまおう。

うつらうつら、と。
波のように寄せては帰る眠気。
携帯がメールの受信を告げても、それに手が伸びることはなかった。

目蓋を閉じた真っ暗な世界に浮かび上がるのは、突き抜けるような空の青。土の茶色。芝の緑。そして、背番号二番。

わたしのだいすきなひと


私の意識はそこで、プツン、と切れた。