2月25日

長い、長い夢から覚めた。
そんな気分だった。

重い身体を起こす。身体中の関節がギシギシと痛む感覚に、眉を顰めた。まだハッキリとしない意識の中で、私が今までどうやら床の上で寝ていたらしいことだけは理解する。畳の上に敷かれたラグマットの毛並みが、私の体の形にぐしゃりと押しつぶされて四方に向きを乱していた。

「…どこ、ここ」

思わず、呟く。
本当にどこだろうか。
窓から部屋に差す光は、どこか柔らかい。ぼんやりと橙色を帯びている。午後の夕日だ。見知らぬ部屋。
胸が騒めく。
一体全体どういうこと。

「夢…?」

真っ先にそんな言葉が脳裏を過ぎる。
あたりを見渡せば、六畳ぐらいの部屋だ。壁には本棚。部屋の隅に乱雑に積み上げられた雑誌。それと押し入れ。なんだか懐かしい雰囲気がするのは、天井や柱が随分と年季のはいった代物だからだろうか。例えるなら、のび太くんの部屋、みたいな。そんな感じだ。
自分の住んでいる家よりも、明らかに築年数はこちらの方が古いだろう。
それでも、なんだか懐かしいと感じてしまう。何故なら、

「この本棚…私のだ…」

二メートル近くある、巨大なそれ。転倒防止用の突っ張り棒が天井と上部を繋いでいる。少し古ぼけた気がするけれど、間違うはずがない。クリーム色の木目にガラス戸。私の部屋に置いてあるものと同じだ。下のガラスに好きなアーティストのロゴマークシールが貼ってある。震える指先で、撫ぜた。

目の前の本棚には、つい昨日まで少女漫画ばかりが並んでいたはずなのに。
それなのに。
楽譜ばかりが綺麗に整頓されて並んでいる。
よくよく見ると棚の高さもいじってあって、見慣れたレイアウトじゃないことに抱いた違和感。
それにハードカバーの書籍の数も多い。
本なんてあまり読まないのに。
ガラス越しに見る背表紙のタイトルからなんとなく察すると、だいたいが野球関連のものらしい。
私は、本を買うほど野球に興味があるわけじゃない。
一也が真剣に取り組んでいることだから、と人並みにルールを覚えてるぐらいだ。
音楽に野球。
隅に山積みになった雑誌たちもだいたいこのふたつのジャンルのものだった。
なんだか、ごった煮だ。わたしのプレーヤーのリストと一緒の、ごった煮。

そこでふと気付く。
上段に飾ってあったはずの写真立てがなかった。夏のコンクールで金賞をとった時に文化ホールの外でみんなで撮った集合写真。その写真をはめ込んであった可愛い写真立て。優子とお揃いで買ったもの。三年生の先輩と一緒に映った写真。私の勲章。それなのに。

夢にしては、妙にリアルな心臓の痛み。思わず掌で胸を抑えた。

「…とりあえず、学校……って、そんなこと言ってる場合じゃ、ない、か…?」

ひとりで呟いて、ひとりで突っ込む。
夢の中でも焦燥感や不快感を感じることはあるけれど、今の心情はいつものそれじゃない。現実。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
だけどもし本当に現実なら、さっき口にしたように「学校」という問題に直面するわけで。部屋の壁掛け時計は16時を少し回ったところだった。
完全に遅刻…というか欠席じゃないか。

「…ここがどこか、調べなくちゃ」

夢でも、現実でも。
どちらにしてもひとまずこの部屋を出よう。
そう思いたって、腰を上げて立ち上がった。

そして立ち上がり、気付く。
身を包む服が、眠る前に着ていたスウェットと制服のスカートじゃない。
グレーのタートルネックに、黒いレースの膝下スカートに薄い黒のタイツ…というかストッキングだろうか。
手持ちの私服の中にはない洋服。ずいぶん大人っぽい組み合わせ。
ぺたぺたと身体を触る。
…心なしか、胸が大きくなったような…?
いや、ほんの少し、そんな気がするだけだ。
この部屋には鏡がないので確認のしようがない。ひとつ確かなことは、さっき本棚のガラス戸に映った顔は確かに自分の顔だったということだけ。

私はゆっくりと自分が眠っていた部屋を出た。
扉には鍵がかかっている…なんてこともなく。
もしそうだったら、監禁、とでも考えるけど。
そうではないらしい。
ひんやりとした冷たい空気の廊下を一歩、二歩進んで足を止める。
とりあえず外に出た方がいいだろうか。

廊下の奥。今出てきたばかりの部屋の左手にあるいくつかの部屋の扉も気になるんだけど。
…いや、それよりも、まず現状を把握する方が先でしょ。

またひとりで自分自身と会話する。
わかった。外に出よう。
自分に言い聞かせ、右を選んだ。
そろりそろりと歩みを進めて、階段の手摺りを持つ。
随分と急な勾配だ。なんだかおばあちゃんの家の階段に似ていた。
やっぱりこの「家」は随分昔に建てられたものなんだろう。

そんなことを考えながらゆっくりと、一段一段、確実に足を下ろす。
その度に、ギシギシと軋む音が耳についた。
階段を下りれば、すぐ下は玄関だ。
これまた古めかしい玄関の扉。両側にはステンドグラスのようにガラス細工が施されている。外の世界が広がっているであろう向こう側から差し込む夕日が眩しい。キラキラと輝いて、左手側の下駄箱を照らす。下駄箱の上には、可愛らしいテディベアのぬいぐるみとピアノの形をした小さな陶器の置物が置かれている。横には花瓶にささったミモザの花。その黄色い花が嫌でも目についた。

そのまま靴を探して履いて、この「家」を出てしまえば良かった。
それなのに、私はハッと息を呑んで、思わず薄暗い廊下で足を止める。
玄関横の部屋の扉が無造作に開いていた。
目に飛び込んできたのは、グランドピアノ。

「ピアノだ…!」

思わず声が出る。
ピアノは幼稚園から習っていて、家にも置いてあるけれど勿論電子ピアノだし、こんなに大きなグランドピアノは先生の家か学校でしか見たことがなかった。
興奮気味にその部屋に入る。
その部屋は、二階の部屋とは違い洋室だった。
それなりの広さの部屋なのだろうけれど、ピアノが置かれていることによってなんだか狭く感じる。もともと二間続きの和室だったのだろうか。部屋の真ん中に梁がある。奥の部屋にグランドピアノ、手前の部屋には電子ピアノが二台。左手側の壁沿いL字型に配置されていた。
それから反対側の壁沿いには、ソファと本棚。二階の本棚のようにこちらも楽譜が並んでいる。ただひとつ違うのは、棚の三分の二以上を何故か漫画本が占めていること。少女漫画や少年漫画。私が持っている本もある。首を傾げた。
なんで、どうして。
そんな胸の騒めきを押さえつけるように、私はピアノにそおっと近づく。
鍵盤蓋を上げ、人差し指で鍵盤をポーンと押した。良い音が耳に届く。調律されていた。ピアノの状態も綺麗に保たれている。埃ひとつない。

この「家」には ピアノを愛する誰か が住んでいる。

そんな言葉が、胸にストンと落ちた。

鍵盤蓋を元に戻し、今度こそ玄関から外に出ようと決意する。このままここにいてはいけない。そんな風に本能が警告する。その時、

ピーッピーッピーッ

無機質な電子音が耳に届く。まるで本能と共鳴する様に。私の身体はその音を聞いた途端、サッと動いていた。意識とは別の無意識。そのままピアノが置かれている部屋の奥の扉に向かって足が動く。

扉を抜けたら、そこは台所だった。「家」の造りは古いけれど、キッチンはどうやらリフォームされているらしく真新しい。

耳につく電子音はガスコンロから発せられていることに気づき、私は迷わずコンロを止める。火にかけていたヤカンが吹きこぼれて空焚きになっていたのだ。
ふぅ、と息を吐いた。

それからぐるりとキッチンを見渡す。
なんだか自宅のそれに似ていた。
窓辺のコンロと流し台、その隣のシルバーの大きい冷蔵庫を背に立ち、左手側の壁には食器棚。中にはいろんなお皿がふたつずつ。マグカップも、コップも。
真ん中にはダイニングテーブル。ここにも花が飾られている。椅子は四脚。
食器棚の反対側、右手側の壁には木製のシェルフ。電話と、メモ帳。見慣れた分厚い黄色い電話帳も目についた。
シェルフの上、クリーム色の壁紙にかかったカレンダーは2月の文字。
色々と書き込まれているが、25日の日付を囲んだ大きな赤丸が目についた。

(2月…)

昨日は、10月24日だった。
秋季東京都高等学校野球大会、決勝。
一也の背中、背番号二番。
会場を沸かせたガッツポーズ姿がありありと浮かび上がってくる。

(かずや、)

幼馴染の名前を心中で呟くと、視界がぼやけた。涙腺が緩む。じんわりと熱を持つ目尻。夢なら早く覚めて欲しい。ここに一也はいない。早く迎えに来て、大丈夫だって言って欲しかった。
だって、ここは、この「家」は、夢じゃない。ここまでくると嫌でも理解するしかない。二階の本棚のガラス戸のつるりとした感触も、廊下の肌寒さも、階段の手摺りの木目も、玄関のミモザの黄色も、グランドピアノの音色も、キッチンの暖かさも、私の身体も。
全部、全部、本物。

「どうしたら、いいの…?」

もうこの「家」には居たくない。
「誰か」が住んでいる。私じゃない「誰か」。

「…やっぱり出ていこう…」

外に出れば、まだ誰かに助けを求められるかもしれない。誰か事情を知ってるかもしれない。自分自身に言い聞かせる。
そうと決まればやることはひとつだ。
私は元来た道順で台所を出てピアノの部屋を通り、足早に玄関へと急ぐ。幸いタイル張りの土間には靴が出しっぱなしだった。ヒールのないぺたんこの黒いパンプス。勿論これも私の物ではない。だけどこの非常事態にそんなことを言っている暇なんてないんだ。
気合を入れて、えいっ、と靴に足を突っ込む。よく履いているのだろう、少し先っぽが擦り切れているその靴は、不思議と私の足に馴染んだ。

「よし、行こう」

立ち上がった、その瞬間だった。

ガチャガチャッ

玄関の鍵が、外側からゆっくりと開いたのだ。誰かが施錠を外した。誰かが入ってくる。思わず、固まった。
ドッドッと心臓が痛いぐらい早鐘を打つ。昨日感じた鼓動と似ているようで違う。肝が冷えた。恐ろしい。足が震えて竦んで動くことが出来なかった。

嫌だ
助けて
助けてよ
一也

いつだって一也は野球が中心の人生だったけど、それでも私がそばにいることを許してくれていた。追いかけるように青道に行くことも「馬鹿だなぁ」って笑うだけで、駄目とは言わなかった。私が吹奏楽部の部長に選ばれた時も、一也自身 野球部主将として色々と部の問題を抱えていたはずなのに、話を聞いてくれた。
いつだって辛い時に私が思い出すのは、一也のこと。
脳裏に浮かぶのは、子供がそのまま大きくなったような一也のあの優しい微笑み。

グッと拳を握る。
逃げられない。
だったら立ち向かうしかない。
来るなら来い。
そんな気持ちで、玄関扉をじっと見つめていた。

ドアが開く。

眩しい。
夕陽が薄暗い玄関に差し込む。
一瞬、反射的に目蓋を閉じた。

「ただいまー」

張り詰めた空気とは正反対の、明るい声。男の人の、声。聞いたことあるような、ないような。怖くて目が開けられない。閉じたままただ突っ立っているだけの私。

「ねえ、なにしてるの」

そんな私に、怪訝な言葉が投げかけられた。
その声の主は、いまわたしの目の前に立っている。それだけはわかる。

「突っ立って、目瞑って。もしかして出迎えようとしてくれた?ごめんね、遅くなって。これでも空港から急いで帰ってきたんだけど」

ガラガラと。
キャスターを引く音がする。
空港という単語から、男はどこかから帰ってきたらしいことはわかった。そして「私」を知っていることも。目を閉じたままなにも言葉を発しない私に、少し苛ついたような口調で彼は喋り続けた。

「…ねぇ、まだ怒ってるの?ちゃんと、電話で謝ったじゃん。メールだってしたでしょ?お土産だって買ってきたんだよ」

ふ、と。
その怒りを孕んだ声を聞いて、脳裏に真っ白なユニフォームが浮かび上がる。
突き抜けるような空の青。土の茶色。芝の緑。
そして、背番号一番。
知っている。
私は、この目の前の男を知っている。

「紗南」

名前を呼ばれると同時に、男の掌が私の肩を掴んだ。

いつだって自分本位で、
いつだって私と一也の仲を邪魔するように、
いつだって私のことを「一也のお荷物」って馬鹿にした男。

私はようやく固く閉じていた目蓋を上げる。ぼやけた視界に飛び込んできたのは、夕陽に照らされてキラキラと輝く色素の薄い髪だった。美しいブルーの瞳がジッと私を見つめている。

「…な、んで…」

乾いた唇で言葉を紡いだ。
囁くような小さな声。

「なんで、成宮が、いるの」

成宮鳴
今年の夏、嫌というほど聞いた名前。
嫌というほどテレビの画面越しに見たその姿。今わたしの目の前に立っている男の名前。

成宮、どうしてそんな泣きそうな顔してるの。

その言葉を目の前にいる彼に聞く権利、今のわたしにはきっとない。