夜明けのすきまを縫いとめて 壱

(あなたが知らない誰かの話)


私の手って、いつもオニギリを握ってる

突然そんな言葉が浮かんで、そして消えた。カウンターに置いたラジオが、朝の六時半を告げる。窓から差し込む日差しは、まだ弱い。夜明けを残した早朝。私はふりかけを塗して綺麗な三角形で握ったオニギリをアルミホイルで包みながら、小さく息を吐いた。

思えば幼い頃から、私の人生はオニギリと共にあったように思う。両親は共働きで、同居していた祖母に育てられたといってもいい幼少期。祖母は厳しい人だった。自分のことは自分でやりなさい。それが口癖。だから私は遠足の時のお弁当も自分で作っていた。中学校で給食がなくなり毎日お弁当を持参するようになると、勿論これも自分でつくるしかない。高校もそうだ。更に私は高校で野球部のマネージャーをやっていたので、放課後は毎日補食のオニギリを握っていた。同級生の握るそれが歪な形ばかりの中、私の握ったオニギリはいつも均等。それがちょっとした誇り。…なんて、昔のことを思い出してちょっと口元が緩む。だってあの頃は良かった。お前のオニギリすげぇな、綺麗だな、って褒めてくれる子が何人もいたのだ。それが今じゃどうだろうか。朝から晩まで汗水垂らして家族のために、家の仕事も、スーパーでレジ打ちのパートも一生懸命やっているというのに。掛けられる言葉と言えば…

「母ちゃん、なんで起こしてくれなかったんだよ?!」

…ほら、これだ。私はリビングに駆け込んできた次男の顔をジロリと睨んだ。

「起こしたわよ。起きなかったアンタが悪いんでしょ」
「子供の面倒見るのが母親の役目だろ!」

その言葉に、思わず拳を握りしめた。ムカつく。自分の子供に向ける感情ではないかもしれないけれど。でもムカつくものはムカつくのだ。ワナワナと震える身体を押さえつけるように、何度か短い息を吐いた。
今年中学二年生の次男は、口が達者でお調子者だ。喋らなくなる思春期よりもよっぽどいいじゃない、とママ友に言われるけれど。でも無口な方が絶対私の精神衛生上いいに決まっている。

ボサボサ寝癖頭の次男は、学ランの釦をとめながらまだブツブツと文句を言っている。私はそれを横目に見ながら、お弁当箱におかずを詰めた。毎日のルーティーン。

「なんだお前今日早いんじゃなかったのか?」
「早い、よ!!!」

二階の寝室から降りてきてリビングに顔を出したのは、旦那だ。その姿はまるで寝起きの熊。私への挨拶は後回しで、次男の姿に首を傾げている。昨晩「明日はセーソーカツドウがあって朝早いから!」と言っていた次男の言葉を覚えていたのだろう。慌ただしく朝食をかきこむその姿に流石の旦那も呆れ顔だ。

「あ、今日夕飯いらないから」
「…はいはい」

結局おはようの言葉もなしか。詰め終わったお弁当箱を布で包みながら、私はまた小さく息を吐いた。小さな保冷バックにそれを入れて、箱の上にはアルミホイルに包んだオニギリ。相変わらず綺麗な三角形。それだけが勲章のようにピカピカと光っていて、僅かな達成感を感じる。どうせこの家にいる誰もわかってくれないだろうけど。
カウンターのラジオの横にお弁当袋を置く。旦那の朝ご飯を用意して、ダイニングテーブルに座りのんびり新聞を広げて読んでいる彼の前に配給。それから時計を見れば、既に七時だ。三男を起こしに行かなくては。私はまた、ため息を吐き出して、そしてリビングを出て二階に続く階段を昇った。

男ばかり三人の子供たち。長男は今年高校入学と共に家を出た。今は八王子の高校で寮生活。通学できない距離じゃないけど、部活に集中したいから、と本人たっての希望。…まあ、その進路は私も旦那も念願に近かったのでふたりして異論もなく肯いたわけだけれど…。

(…寂しいなぁ…)

半年近く経っても、まだ寂しい。ふいをついていつまでもそんな言葉を呟いてしまう。
長男はのんびりとした性格で、そして一番私を大事にしてくれていたのだ。反抗期らしい反抗期もないまま成長し、今でも時々忙しい部活の合間に連絡をくれる。自分の子供ながら、本当にいい子だ。そんな長男が家を出て、残ったのはもはや会話らしい会話をしない旦那と、お調子者の次男と、そして…

「いい加減起きなさい!」
「……まだ眠い…」
「もう七時!アンタご飯食べるのも支度するのも遅いんだから早く起きなさいっていっつも言ってるでしょ!」
「眠い…」

マイペースな三男。今年、小学五年生。ベッドの上でゴロゴロと転がる様子はまるで猫のよう。毎朝のことながら、本当に世話が焼ける。掛け布団をひっぺ返して叩き起こした。そのまま一緒に部屋を出て、階段を下りる。ちょうど次男が慌てるように玄関を飛び出して行ったので「気をつけてねー!」と背中に声を掛けたけれど返事はない。続いて旦那も出勤。こちらも私の見送りに対する返答はなし。静かになったリビングに戻れば、テーブルの上には空になった茶碗とお皿が残されたままだった。私はまた大きな溜息を吐く。

「………あーやだやだ……」

ムカムカする気持ちを押さえ込んで、皿を重ねていく。流し台に運び、水を貼った桶にじゃぶんとつけた。その流れで三男の朝食を用意する。三男はまだ眠そうに目蓋を擦りながら、テレビをザッピングしていた。…昔は、教育テレビ一択だったのに最近は一丁前に朝のニュース番組を見るようになったものだから、時が経つのは早いなぁと思ってしまう。だからといって彼が興味あるのは政治経済などではなく年相応にエンタメとかスポーツのことだけど。

「あ、お母さん、鳴ちゃんまた新しいCMやるんだって!」

三男のその言葉に、私は思わず手を止めた。カウンター越しにテレビを見れば、確かに彼の言う通り画面に映る私の「推し」の姿。思わず頬が緩む。さっきまでの憂鬱な気分が一気にどこかへいってしまうのだから、やっぱり愛の力は偉大だ。

「格好いいね」

三男の感嘆の言葉通り、彼は相変わらず格好いいし、それに可愛い。色素の薄い髪も、ちょっと勝気な青い瞳も、鼻筋の通った顔立ちも。彼を構成するその全てが美しい。成宮鳴。通称鳴ちゃん。プロ野球選手。私の推し。
彼の存在を認知したのは、もう六年も前の話だ。私が三十三歳の時。夏の甲子園。テレビ中継でその姿を見た瞬間、私の身体は稲妻に打たれたような衝撃を受けたことを今でも覚えている。いい年して、とは今でも思うけど。それほどまでに彼の存在は衝撃的だったのだ。試合を重ねていくごとに新聞やテレビなどのメディアを騒がせる「都のプリンス」。まさに全国的なフィーバー。彼の姿見たさに甲子園まで足を運ぶ奥様方続出、なんていう一種の社会現象にまでなったのだ。勿論私もそのうちの一人だった。

「今日はいい日だわ」

緩む頬で、そんな言葉を呟く。
十一月に入って野球もオフシーズン。毎日楽しみにしていた試合中継がない代わりに、野球選手のメディア露出が増える。それだけが今の私の楽しみだ。

「はい、朝ご飯。しっかり食べないと鳴ちゃんみたいになれないよ!」
「はーい」

推しのインタビュー映像を食い入るように見つめている三男の目の前に、朝食の皿を用意してそんな言葉で叱咤激励。若干反抗期に足を突っ込み掛けているマイペースな三男だけど、推しの名前を出すとわりと素直にいうことを聞いてくれる。そういうところはまだまだ可愛いな、と思う。家族の中で私と同じ熱量で彼を応援しているのは、三男なのだ。

三男が朝食に箸をつけ始めたので、---ようやく、私もそこで一息ついた。エプロンを外して、ダイニングテーブルの自分の定位置の椅子に腰を下ろす。

元高校球児の旦那と、野球部のマネージャーだった私。息子三人もリトルから野球をしている。そんな我が家。幸せなんだと思う。…思うけど、…ふいをついてなんだか物足りないと思ってしまうのはなんでだろうか。原因は色々ある。夫婦間でまったく会話がないことだったり、長男が家を出たことだったり、次男の進路のことだったり、三男の学校生活や成績のことだったり……問題を挙げるとキリがない。きっとどこの家も同じような問題を抱えているだろうけど…。

(…私の手って、いつもオニギリを握ってる…)

またその言葉が浮かんでは、消える。"これ"はいつまで続くんだろうか。三男が高校を卒業まで?だとしたらまだ先は長い。野球は好きだし、息子たちの夢をサポートするのは楽しい。だけど…。

(……それだけだ)

そう。それだけ。

『結婚生活はいかがですか?』

その時。ぼんやりしていた私の耳が、テレビ越しのアナウンサーの声を拾った。思わず顔を上げて、画面を見つめる。CM撮影現場でのインタビューなのか普段のユニフォーム姿とは違い、私服風の姿の推しが、相変わらず可愛らしい笑みを浮かべていた。

『実はまだ一緒に暮らしてなくて。シーズンが終わったのでようやく退寮して、これから新婚生活です』

嬉しそうな声。幸せそうな笑顔。相変わらず完璧なメディア対応。いつもだったら「ああ可愛いなぁ」ってさっきみたいに頬を緩ませるんだけど。でも話題が話題なだけに、私は思わず溜息を吐いていた。
ーーー推しが結婚したのは、今年の三月。開幕戦の数日前に入籍したらしい。その一報は当然テレビやスポーツ新聞を賑わせた。おめでたい話題なのに数日がっくりと肩を落としていた私に、旦那を始め息子たちも呆れていたのは最早懐かしい。…別に、本気で推しに恋していたわけじゃない。ただあまりにも早すぎる結婚に、「大丈夫なの?」と思ってしまったのだ。高校生の時から活躍を見守っている推しである。気分は最早母親のそれ。だいたい彼はプロ入りしてから週刊誌になんだかんだとスッパ抜かれていたから。…どうせ、女子アナとかアイドルとか、そういう類の女の子に引っかかってしまったのだと思っていたのだけれど…。

『本当にようやく可愛い奥さんと一緒に暮らせます』

高校時代から付き合っていた一般の女性。それだけが私の知り得る推しの奥さんの素性。……まあ、合格範囲内かな、とは思う。我ながら何様だろう。だけどやっぱり心配だし、寂しいのだ。柔かな推しの笑顔を見ながら、私はまた小さく溜息を吐いた。


▼▼▼


「いってきまーす」
「はい、気をつけてねー」

集団登校の集合場所の近くまで三男を送っていくのも、毎日の日課。流石に母親と一緒にいるところを見られるのは恥ずかしい年頃らしく、いつも道の途中でお別れだ。三男の背中が見えなくなるまで、見送る。今日はパートがお休みの日だけれど、やることはたくさん。家の掃除、洗濯、買い物にも行かなくちゃ。一日のタスクを頭の中で組み立てながら、家に戻る道をのんびりと歩く。どうせこれからせかせかと動かなくてはいけないのだ。これぐらい許してほしい。なんてことを考えながら…『それ』がふっと目についたのは、必然だったように思う。
見慣れた近所の風景に、ほんの少しの違和感。異物。私は思わず足を止めた。視線の先には、真新しい看板。可愛いクマがピアノを弾いているイラストに、『成宮ピアノ教室』の文字。こんな看板いつの間に取り付けられたんだろう。首を傾げた。その看板が取り付けられている外壁に囲まれた家は、随分長い間空き家だった。
売り家の看板が無くなったのは、ちょうど去年の今頃。ようやく買い手がついたのね、という話が井戸端会議の話題にあがったから覚えている。それから暫くしてリフォーム工事の業者さんが出入り様子を目にしたから、どんな人が越してくるんだろう、なんて話もしていたのだけれど。それから一年近く誰かが引っ越してきた様子もなくて…。時折、若い女の子がご両親らしい人と一緒に家に入っていく姿を見たとか、そういう噂話を聞いたこともあったけど本当かどうかは定かじゃない。越してこないのに家を買うなんてどっかのお金持ちの節税対策じゃないの?なんて話していた疑惑の空き家。その家に看板。しかもピアノ教室。

改めて、私はその家を観察してみた。外観は変わっていない。私が生まれるよりも前に建てられただろう古い家。だけど、気づいた。以前までは雑草だらけだった庭がちょっと小ぎれいになっている。誰かが手をいれたんだろうか。外壁には真新しい表札。ここにも『成宮』。
ーーー偶然にも、私の推しと同じ苗字。なんだかそれだけで親近感が湧いてくる。
そして視線は、外壁の横の駐車スペースに移った。軽自動車と外車が縦列駐車で停まっている。…あながち、節税対策の話は本当かもしれない。これはご近所さん達への話題ができた、と思っていたその時だった。

ガチャリ、と。玄関の扉が開いたのだ。あっと思う前に。玄関から出てきた若い女の子と目が合った。私の身体は思わずびくりと揺れる。視線が交わってしまったものだから、まさかスルーするわけにもいかず、小さく会釈。すると彼女もまた頭を下げた。…き、気まずい。そんな私の心情を知ってか知らずか、若い彼女は愛想のいい笑顔を浮かべてちょっと駆け足で私の方へ歩みを寄せたものだから驚く。

「近所の方ですか?」
「え、あ…はい…」

反射で頷いていた。別に嘘をついたわけでもないけれど、ジロジロと人様の家を観察していたのでなんだか後ろめたい気持ちが胸を占める。しかし彼女は相変わらずの笑顔で私と対峙した。

「最近引っ越してきた成宮です。ご挨拶遅くなってすみません」
「そ、そうなんですね。よろしくお願いします。すぐそこに住んでる水野です」
「水野さん」

彼女ーー成宮さんは確かめるように、私の名前を繰り返すように呟いた。もしかしたら、私だけじゃなくて他のご近所さんも同じようにこの家を観察していたのかもしれない。だからこそのこの対応。なんとなくそんなことを考える。このあたりは昔からの住宅街で、新しく引っ越してくる人は少ないから、みんな気になるのは仕方ない話。そんな風に自分を正当化した。

「また改めてご挨拶に伺いますね」
「え、いや、そんな…」

さっきから私はどもってばかりだ。どうしようかな。なんとなく世間話をする流れになっている気がして、内心焦る。その時。

「紗南、どうしたの?」

古い家から出てきたその姿に。
その声に。
私は思わず口をあんぐり開けていた。
嘘でしょ!?
はっきり言って内心はパニック状態。上手く言葉が出てこない。そんな私をよそに対面していた彼女は振り返って、そして、『彼』の名前を呼んだ。

「鳴」

ーーー成宮、鳴。全ての点が、すごいスピードで繋がっていく。思考はフル回転なのに、言葉はやっぱり出てこない。

「ご近所の水野さん。挨拶してたの」
「そうなんだ。初めまして、成宮です。よろしくお願いします」

彼は私がよく知る笑顔を浮かべて、頭を下げた。いつも画面越しに見るその顔が、今、私の目の前にある。心臓は飛び出してしまいそうなほど、バクバク、と心音を刻んでいるし、喉はカラカラに乾いていた。頬も燃えるように熱い。きっと年甲斐もなく、真っ赤な顔をしているに違いない。

「さっき一也から連絡あってちょっと待ち合わせ時間遅らせたいって」
「なにかあったの?」
「なんか急用出来たらしい。旭さんの仕事関係っぽかったけど」
「そうなんだ…。旭も相変わらず忙しそう…急がなくていいよって私から旭にラインしとくね」
「そうして」

ふたりは私を尻目にそんな会話を交わしていた。その姿が、彼らを『夫婦』だと示している。ふたりだけの、ふたりにしかわからない会話。普段通りのやりとりなんだろう。メディアで目にする愛想のいい彼の言葉とは違う、素の姿。素っ気ないともまた少し違うかもしれないけれど…私はそんな推しのプライベートなやりとりに、思わず目を伏せた。この場の全てが、私には刺激が強すぎる。情報過多だ。…だから、だろうか。人間与えられた情報が多すぎると、どうやら判断能力が低下するらしい。

「あ、あの!」

話の切れ目に「これで失礼しますね」と愛想なく挨拶すれば良かったのだ。それでそれ以上足を踏み入れなければ良かったのだ。それなのに…

「ピ、ピアノ教室って…生徒募集してますか…?」

私は気づけば震える唇で、そんな言葉を呟いていた。私の問いに推しは目を少し見開いて、それから…ほんの少し怪訝な顔になる。だけどその横で、「してます!」と彼女が反射的に私の手を強く強く握って、満面の笑みを浮かべるものだから。誤魔化すように、ハハハ、と笑うしかなかったのだ。
…推しと対面すると、人は予想もつかない行動に出るらしい。それが今日、ひとつ学んだこと。