「……ピアノ教室ぅ…?」

帰宅早々の旦那に午前中の信じられない出会いを話し、そしてピアノ教室に通うことになったと締めくくればやっぱり予想した通り怪訝な顔をされた。

「お前ピアノ弾けないだろ」
「…弾けないから教室に通うんじゃないの」
「成宮の家だからだろ」

紛れもなく答えに近いその言葉に、私は思わずウッと言葉に詰まる。だけど誤魔化すように首を振った。

「いいじゃない、私だって新しい趣味を始めたって…」
「月謝いくら?」
「…五千五百円…」
「…高いのか安いのかわかんねぇな…」

それは同感だった。ちなみにリトルとシニアの月会費はひとり八千円だ。それを考えると安いけれど、正直長男の寮費もあるので旦那としては要らぬ出費が増えてしまったという思いなのだろう。やっぱりその顔は険しい。

「練習とかどうするんだ」
「……電子ピアノなら中古で安いのあるかなと思って…」

それでも五万円以上の出費になることは、間違いない。帰宅早々ネットで調べてしばし呆然としてしまった私。きっと旦那もそうなるだろうから、あえて金額は言わなかった。だけど私の歯切れの悪い言葉になんとなく察したらしい彼は、はあ、と大きく溜息を吐き出す。旦那はわかっているのだ。私が一度言い出したら撤回しないことを。だから、「自分の金で買えよ」とだけ言って、逃げるように二階に上がってしまった。残された私もまた、大きく息を吐いた。

「なんでこんなことに…」

とはいうものの結局自分が撒いた種である。それにあの瞬間に戻ってやり直したい、とは不思議と思わなかった。戻っても多分私はきっと同じことを繰り返してしまうだろう。それほどまでに『合法的に推しとお近づきになれる』という誘惑は非常に甘美だ。

ーー思い出すのは、彼の色素の薄い髪。綺麗な青い瞳。それが私を捉えた。私の顔を見た。彼の視界に入ったのだ。…テレビで見るより、大きな身体をしていたな、とか。意外とラフな服装だったな、とか。今更になって色々と思い返して、やっぱり頬が熱くなる。……まさか、ご近所さんになるなんて。今でもまだ信じられない。もしかしたら、夢かもしれない。そう思って頬を抓ってみるけど、やっぱり痛いからどうやら現実らしい。

「ピアノかぁ…」

呟いて、自分の手をまじまじと見つめた。オニギリばかりを握ってきた私の手。水仕事で荒れて、お世辞にも綺麗とは言えない。爪だって短い。この手が、ピアノを弾く。なんだかえもいえぬ気持ちが胸を占めた。
…幼い頃、誰にも言えなかったけれど、本当はピアノを習ってみたかったのだ。小さな憧れ。近所のお姉さんが習っていて、その家から聞こえてくるメロディーに密かに心を躍らせていたのが懐かしい。外で遊ぶのが好きだった私だけど、本当はずっとずっとやってみたかったことなのだ。そんな風に幼い頃の気持ちを『正当化する理由』としてしまうのは卑怯かもしれない。だけど後にもひけない。だから、しょうがない。

四十路を目前にして私は新しい趣味を始める。その嬉しさを噛みしめるように、私はひとりリビングでへへへと笑った。


▼▼▼


「推しの奥さん」こと成宮紗南先生は優しかった。聞けば年齢は彼と同い年らしい。同級生だったんだろうな、と勝手に納得した。部活は吹奏楽部だったと教えてくれたから、稲実は吹奏楽部も強いですもんねぇ、と私が言えば彼女はそうですねと微笑んだ。その流れで長男が稲実に通っているという話をしたのは、通い始めてわりと最初の頃だ。開かれたばかりのピアノ教室。生徒の数は数えるほどだからか、先生も時間に余裕があるらしくレッスン時間よりもその後のおしゃべりの時間が長くなっていった。…ちなみに…私は、記念すべき生徒第一号だったらしい。光栄なことだ。

一家で野球好きとは話したし、推しが所属している球団を応援している、とは話したけれど…私が『鳴ちゃんフィーバー』時代から彼女の旦那さんのことを推しているとは言えなかった。もしかしたらなんとなく察している部分は、あったかもしれないけれど。それでも深くは聞いてこなかったから、ホッとした私。だってやっぱりなんだか気恥ずかしかったしそれに後ろめたかった。

推しとは、時々顔を合わせた。彼の家なのだから、当然だろう。特に通い始めたばかりの頃はシーズンオフに突入したばかりの冬。一年のうちのほんの少しの休養のタイミングだったからだろうか。会えば、相変わらずの愛想の良さでニコニコと対応してくれたものだから、私の胸はやっぱりときめく。可愛い。彼の顔をみるといつもいつも緩む頬を、引き締めるのに大変苦労した。

肝心なピアノは、といえば。まあ初心者にしてはだいぶ弾けるようになったかな、と思うレベル。進歩が亀並みだ。年末年始に二日だけ我が家に帰ってきた長男を「え、ピアノはじめたの?え、成宮の?家?え?」と情報過多で混乱させてしまったけれど、それでも弾けるようになった曲を電子ピアノで披露したら「すごいね」と褒めてくれたから、やっぱり長男は優しい子だ。
ちなみに旦那は何にも言わない。次男もまたピアノには興味なし。三男は気まぐれに授業で習った曲をポロンポロンと弾く程度。「習ってみる?」と聞いたけどどうやらそこまでの熱意はないらしく、首を横に振られてしまった。やっぱり野球の方が楽しいらしい。まあそんなもんだろう。

そんな風に、私がピアノを習いはじめて約半年が過ぎた頃。たまたま出先で、紗南先生とばったり出くわした。
西国分寺駅。久しぶりのママ友とのランチ会(という名の情報収集会)の帰り。顔を合わせた紗南先生は、見慣れないスーツ姿。だから思わず首を傾げてしまった。そんな私の疑問に答えるように、彼女は穏やかな笑みを浮かべて口を開く。

「去年から、春から秋にかけて母校で吹奏楽部の外部講師をしてるんです。今日はその打ち合わせの帰りで」
「そうなの!」

なるほど、と頷いてみたものの。稲実があるのは八王子市。ここは当然ながら最寄駅じゃない。その考えもきっと紗南先生にはお見通しだったんだろう。彼女はちょっと眉を下げて、困ったような表情を浮かべて言った。

「実は私、青道が母校なんです」
「えっあ、あー…!…ご、ごめんなさい、私勝手に勘違いして…」
「大丈夫です。私もなんだか言うタイミング逃しちゃって」

頬を掻く彼女と、自分の早とちり具合に焦る私。なんだか妙な空気だった。だけどまあ帰る駅は一緒だし、となんとなく共に帰路につくことになる。最寄り駅行の電車に乗りこんで、ふたりで横並びに座った。電車の中は時間も時間なので空いている。
紗南先生は推しと同い年。それに青道高校。思い浮かぶのは、勿論『あの選手』の名前だ。

「ってことは、紗南先生、御幸選手と同級生ってことですか?」

御幸一也。推しと同じく高卒でプロになった捕手のこと。
成宮鳴と御幸一也。
ふたりが幼い頃からの知り合いで、ライバルであり、ともにこれから球界を牽引していくだろう同志であることは、野球に詳しい人にしてみたら周知の事実。それに私は覚えていた。初めて紗南先生と会った時、推しが「一也」と口にしていたことを。だからその名前を挙げたのは当然といえば、当然で。
だけど先生は、私の言葉に不自然に口を噤んだ。でもまあそれも一瞬。すぐに「そうですね」と頷く。

「御幸も同級生でしたし、あと倉持君とか…」
「千葉の?」
「そうです、そうです」

それはすごい。一介の野球ファンからしてみたら羨ましい話だ。まあ紗南先生が一番凄いのは、あの成宮鳴と結婚していることだろうけれど…。それからやっぱりなんとなく野球の話になった。先生はあまり野球のことが詳しくないらしいが、それでも旦那さんが登板する試合は見ているらしく。

「今年もなかなか厳しいわねぇ」

私がそう言えば先生は、そうですね、と眉を下げて頷いた。
推しの所属する球団は、もうずっとBクラス止まりだ。推しはそれなりに結果を残しているけれど、チーム自体がなかなか勝ちきれない。ファンとしてはじれったい。

「主人も頑張ってるんですけどね…すみません」
「先生が謝ることないでしょう、それに鳴ちゃんの活躍はみんなわかってるから大丈夫ですよ」

そこでハッとした。口を掌で押さえる。ついついいつもの呼び方で推しを呼んでしまった。今まで気を付けていたのに…。先生はそんな私にふふっと笑みを漏らす。

「いいですよ、鳴ちゃんで。みんなそう呼んでますから」
「…ありがとうございます…気をつけてたんですけど…もうずっとそう呼んでるので、つい癖で…」
「都のプリンスですからね」

揶揄うような、口ぶり。それはふいをついて感じる先生の、推しに対する心情を表していた。なんというか彼女は…だいたいのファンが彼に対して抱いている好意や憧れを持っていないんだろう、そんな風に感じることが時折あった。それは多分紗南先生が野球というものを除いて成宮鳴と向き合っているからなのかもしれない。そんなことを考える。だからこそやっぱり野次馬根性で気になるのは、ふたりの出会い。今まで聞かないようにしていたけれど、なんとなくこの流れだったら聞けるかも、と私は気づけば口を開いていた。

「青道と稲実で…先生たちってどうやって出会ったんですか…?」

おずおずと尋ねる。紗南先生は少し考える素振りを見せて…それから昔を懐かしむような表情で教えてくれた。

「…私、実は御幸と幼馴染なんです。だからその関係で、主人とは小学生の頃に知り合いました」
「えっ、え…えー!?」

電車の中だというのに、思わずちょっと大きな声が出てしまった。だって、先生が教えてくれた事実は予想以上の衝撃だったから。み、御幸の幼馴染が、成宮鳴の嫁…。なにそれ、すごい…。前世でどんな徳を積んだらそんな人生を歩めるんだろう。羨ましいとも思うけど、きっと私だったら周囲からの妬み嫉みに耐え切れないかもしれない…。そう考えると、もしかしたら先生も色々苦労したのかな、と思ってしまった。

「す、ごいですね…」
「…まあ…ふたりとも有名になったのでそう言われることも増えましたけど…私にとっては昔も今も…どっちもただの『野球馬鹿』ですよ」
「『野球馬鹿』」

紗南先生の口振りに思わず笑ってしまった。そう考えると我が家は『野球馬鹿』の集まりだ。それを言えば、先生もふふっと笑う。…なんだか、この短い時間で随分彼女のパーソナルな部分に触れた気がして嬉しくなった。

ふたりがうちの近所に越してきてから、やっぱり暫く町内の話題は推しの話ばかりだった。だって近くに有名人が暮らしはじめたのだ。当然そうなる。最初のうちは私も含めそんな風に遠巻きに噂話をしていたのだけれど、若い新婚夫婦は彼らなりに近所に馴染もうと頑張って町内会の集まりに顔を出したり、ふたりで仲睦まじく商店街で買い物をしたりしていた。今ではご近所さんの殆どが、推し夫婦のファンだ。それはきっと、紗南先生の内助の功だろう。…推しが結婚した時に感じた寂しさはもうない。彼女なら安心だって、そう思える。

「この話、皆さんには内緒にしてもらえると助かります」
「勿論!だけど、御幸選手までうちの近所歩いてたらきっと息子が大喜びだわ…」

ポツリと溢したその言葉に。紗南先生の瞳がちょっと寂しそうに揺れたのを、浮かれていた私は勿論知るはずもない。


▼▼▼


ピアノ教室のお休みの連絡が入ったのは、紗南先生との仲が進展したような出来事のそれから暫く経った日のことだ。お身内に不幸があったらしい。二週連続でレッスンは休みになった。なんとなく老婆心で、月謝を渡しに行くという正当性を提げてお悔やみの言葉を伝えようと考えたのは、もはや思いつきに近い。
気づけば、私の足の家に足が向いていた。月曜日の昼間のこと。

ピンポーン、と玄関のインターフォンを鳴らして数秒。応答はない。留守かな、と思ったのでくるりと踵を返した瞬間。背後でガチャリとドアが開いた音がした。

「あれ、水野さん」

掛けられた声に、思わず肩が揺れる。そして油の切れたブリキのように、ギギギ、と後ろに振り返ればーー最早最近ちょっと見慣れた生の推し。その姿を目にしただけで、やっぱり私の鼓動はちょっと早くなる。いい加減慣れないといけないんだけど…いつになることやら。

「こ、こんにちは!」
「こんにちはー。どうかしました?」
「…えっと、…ピアノ教室の月謝をお持ちしたのと…あと…お身内に不幸があったって聞いたので、お悔やみを言いに…」
「…あー…わざわざすいません。今ちょっと奥さん出掛けてるんですけど…、…すぐに戻ってくるんであがって待っててもらってもいいですか?」
「……えっ…」

思わぬ言葉に、母音が漏れた。家に、あがる。推しの、家。いや、まあピアノ教室でいつもお邪魔しているけれど…今日のそれは、なんとなくニュアンスが違う。固まる私をよそに、推しは「どうぞ」と相変わらずの愛想の良さで私を成宮家へと招き入れた。小さく頷いて、その指示に従う。
彼は手慣れた手つきで玄関の下駄箱から、来客用のスリッパを出してくれた。靴を脱いだ私はそれを履く。そのままいつものように玄関横のピアノの部屋の方に体が向いていたのだけれど…

「こっちです」

彼が先導したのは、私が立ち入ったことのない廊下の奥。…先生たちが暮らす居住空間だった。予想していなかった展開に、内心焦るけれど…ここで引き返すわけにもいかない。推しの背中を追うように歩き、案内されたのはリビングだった。古い外観とは正反対の、綺麗な内装。まるでモデルルームみたいだ。

(…さすが…テレビ…大きい…)

部屋を見た瞬間抱いた感想は、そんなありきたりなものである。

「いま、お茶煎れますね」
「えっ、あ……ありがとうございます…」

展開についていけず、やっぱり口から出るのは母音と、そして小さな感謝の言葉。いや、だって…ここで頑として断るのもなんか違うだろう…。なんて自分自身に苦しい言い訳。本当は推しが淹れたお茶!貴重!ぐらいには思っていた。どうやら台所へと繋がる扉らしい、リビング左手のそこから姿を消した推し。ひとりになってようやく、息を吐く。……これが、推しの、プライベート空間…。思わず邪な気持ちで、周囲をジロジロと見渡してしまった。腰を下ろした革張りのソファー。木目調のローテーブル。全体的に落ち着いた色合いのインテリアコーディネート。大人っぽい雰囲気が、なんだか推しと似合わず意外だった。紗南先生の趣味かなぁとも思うけれど、…意外と推しの好みかもしれない。だって私は当然のことながら推しの『趣味』を知らないのだ。
リビングの中で、ふっと目についたのは…テレビ横の棚に飾られてある写真立てだった。飾りのないシンプルなそれの中には、白い衣装に身を包んで満面の笑みを浮かべている推しと紗南先生の姿。

(…結婚式だ)

幸せそうな、若いふたり。新婚なんてもう一体何年前の話だろうか。初々しいなぁ、可愛らしいなぁ、と思っていると、推しがトレイを持ってリビングに戻ってきた。

「はい、どうぞ」

目の前のテーブルに置かれたのはグラスに注がれた麦茶。そしてご丁寧に菓子受けまで。なんて気の利く子なんだろう、と感心してしまった。もうずっと長いこと彼を推してきたけれど、こういうことが出来る子だとは思ってなかったのでちょっと驚く。推しは流れる動作で、私の斜め左に座った。…なんだか居心地が、悪い。そりゃあそうだ、今、予想だにせず推しと一緒なんだから…なんて、自分の中で緊急会議。だからといって何をするわけでもない。私は出された麦茶をちびりちびりと飲むしかない。そんな気まずい沈黙を破ったのは、意外にも推しの方だった。

「…水野さんって、俺のファンでしょ?」
「えっ、!?」

悪戯な笑みに、随分フランクな言葉遣い。まさに成宮鳴といった様子。私はズバリ言い当てられた事実に、言葉が詰まる。そんな私をよそに推しはなんでもないことのように話を続けた。

「最初からそうなんじゃないかなぁって思ってたんですよね。だって水野さん、挙動不審だったし…ピアノ教室の看板とりつけてすぐ生徒希望の人が来るってそんな上手い話があるとも思えなかったから。多分、俺目当てなんだろうなって」
「……確かに、ファン、なのは…否定しないですけど…でも、ピアノはずっと習ってみたかったから…」
「うん、大丈夫。今はちゃんとわかってます。水野さんいい人だもん。ちゃんと練習してきてくれるって、紗南も言ってたから」

だからもう俺はなんにも心配してないですよ、と。推しは見たことのない穏やかな微笑みを浮かべて、私の顔をジッと見つめた。ざっくばらんな物言いと敬語が入り混じった話し方。なんとなくここが間のような気がした。今、目の前にいる人は、プロ野球選手の成宮鳴ではなく、あくまでご近所の成宮さんちの旦那さんなんだなぁって。そこでようやく、なんだか私の肩の力がストンと抜けたのだ。我ながら単純だけど。

「紗南先生、大丈夫ですか?」

お身内、ということは聞いていたけれど、誰が亡くなったかまでは聞いていなかった。ご両親もまだ随分若いだろう。だってふたりはまだ二十三歳。そう考えると、まあ祖父母かなぁと勝手に考えていたのだけれど。どうやら正解だったらしい。

「まあ…お祖父ちゃん亡くなって、しばらくは気落ちしてましたけど…今はバタバタしてそれどころじゃないって感じですかねー」
「バタバタ…?」
「紗南の両親が長野に移住することになって。お祖母ちゃんひとりになっちゃったから。介護も必要みたいで」
「…ああ…そうなんですね…」

それは大変だ。その時なんとなく、推しに自分の話をしてみようと思ったのは偶然の思いつきだった。穏やかな空気に充てられたからだろうか。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、介護。その言葉が、私の琴線に触れたのである。

「…うち、旦那がひとまわり以上年上で。わりと早く結婚したんですけど…当然、結婚当初には義両親、結構な歳だったんですよ。結婚してすぐに義父が亡くなって、それから…十年ぐらい前かなぁ…義母が認知症患っちゃって。二十代のうちから子育てと並行して、もうずっと介護生活」
「…そう、だったんですね」
「……そんな介護生活真っただ中の六年前…、テレビで、ある人を…見かけまして…」

私はその言葉を紡ぐと同時に、あの瞬間を思い出していた。突き抜けるような青。土の茶色。真っ白いユニフォームに、赤文字の刺繍。太陽の光を通す、色素の薄い髪。カメラが映した彼の青い瞳。もうずっと心の中に焼き付いて、離れない。

「…最初は、綺麗な顔の子だなぁって…思っただけだったんですけど…こう、試合に勝ち進んでいく度に、彼の活躍を見るたびに、胸がスカッとして…私も頑張ろうと思えたんですよね。だから、…きっと、貴方が活躍するところを見れば、…紗南先生も、元気出ると…思います…。だって、…鳴ちゃんは、いつだって太陽みたいな存在だから…」

気づけば私は、泣きそうになりながらずっと心に抱えていた心情を呟いていた。推しはそんな私の言葉を黙って聞きながら、そして最後に小さく頷いてくれて…私が馴れ馴れしく鳴ちゃんと呼んでも、嫌な顔ひとつしない。それどころか、彼は徐に私の手を握ったのだ。大きな掌。それが、私の手を、ぎゅっと、握った。

「ありがとうございます。本当に、嬉しい」

いつもの完璧なメディア対応じゃない。愛想のいい彼とはまた少し違う、素の『成宮鳴』がそこにいた。私はこの瞬間彼のその輪郭に触れたのだ、と理解する。手はすぐに離れた。でも推しのーー鳴ちゃんの温もりはまだ自分の手の甲に残っていて…ちょっと照れる。年甲斐もなく。頬を掻いた。彼もまた、頭を掻いている。気まずいけれど、でもどこか心温まる…そんな不思議な空気は、紗南先生が帰宅するまで変化することはなかった。

そんな風にして、この日を境に、「私の推し」の成宮鳴は、「ご近所」の成宮鳴になったのである。