きみのための柔らかいねむり



(前日譚)

……ふたりで出掛けたいんだけど


成宮が電話越しにそう言ったのは、十月のドラフト会議の日だった。取材で忙しいだろうに、夜寝る前にわざわざ電話してきたものだから驚いた。その日は、御幸目当てで青道高校にもマスコミが多く来ていて、なんだかみんなソワソワしていたのを覚えている。きっと稲実でもそうだったんだろう。みんな午後はその一報を気にしていた。結局、御幸も成宮も、どちらも東京の球団が交渉権を引き当てたことを聞き、なんとなくホッとした私。勝手なお節介かもしれないけど、どちらも東京生まれなんだからそりゃあ慣れ親しんだ土地の方がいいだろうと思ったんだ。良かったね、と一応社交辞令で電話越しに成宮に伝えれば、少し間があった。

『…ほんっと、お前の呪いって強力だよね』
「……呪い? なにそれ」
失礼な。そんなこと言われる覚えがなくて思わず眉間に皺を寄せる。成宮は大きな溜息を吐いた。

『……覚えてないなら、いいよ』
「気なるんだけど」
『べつにこっちの話』

そんな風に、呆れているような、ちょっと怒っているような…成宮の態度はまあ言ってしまえばいつもどおり私に接するものそのままだった。昔に比べれば、嫌味の数は減った気がするけれど。それでも外面の良い『鳴ちゃん』は私の前には姿を現さない。よくも悪くも成宮は素で私と対峙する。

『……あのさ』
「なに?」
『無事にこうして俺の進路は決まったわけだし………ふたりで出掛けたいんだけど』
「……なんで?」
『…べつに理由なんてない』
「…この間も言ったけど、私は来週全国あるし、それに大学の試験も控えてるんだよ。忙しい」
『じゃあ大学決まってからでいいよ』
「……なんで、そんなに私と出掛けたいの」

私がそう問えば、成宮は黙り込んだ。嫌な沈黙が、私たちの間に流れる。

『…理由なんている?』
成宮がようやく口を開いたと思ったら、ため息混じりにそう言ったものだから、私も思わず息を吐いた。いると思う。少なくとも、私たちの間柄には。……だけどどうやら成宮は、私がうんと頷くまで電話を切るつもりはないらしい。なんだか面倒くさくなってきた。

「……わかった」
『………いいの?』
「…そっちが誘ってきたんじゃん。もう切るよ」

向こうから誘ってきたのに、変な奴。
一方的に通話を終わらせて、携帯電話を耳から離す。そのまま腰掛けていたベッドに、仰向けに倒れ込んだ。見慣れた自室の天井。目を閉じて、駆け巡るのは、ここ数ヶ月のこと。……成宮は、引退してから私によく電話をかけてくるようになった。一番最初の電話は、夏休みも終わりの頃。…どうやらどこかで御幸と立花さんのことを聞いたらしい。もしかしたら御幸が話したのかもしれない。それは私の知った話ではない。ただ、成宮らしくない遠慮がちな「一也のこと聞いた」という言葉に、ちょっと面食らったのを覚えている。いつもの調子で「失恋しちゃってかわいそー」なんて揶揄ってくるかと思ったのに、そうじゃなかった。「…大丈夫なの?」なんて、彼らしくない言葉。悪いものでも食べたんじゃないんだろうかとも思ったし、なにか企んでいる気もして、結局その時は話もそこそこに電話を切ったのだけれど、それ以降もちょくちょく電話がかかってくるものだから、なんだかんだと成宮と話している事実がある。そして、九月の文化祭に来た時は、本当に驚いた。優子たちは「紗南のこと好きなんじゃないの?」なんて無責任なことを好き放題言ってるけど。あの成宮だよ。…私のこと好きなはずないじゃん。

(………可愛いって、言われたけど…)

ずっと嫌な言葉ばかりを投げつけてきた成宮が、九月の文化祭で対峙した時、今まで言わなかった類の言葉を呟いた。それが今でも信じられない。御幸に告白もさせてもらえなくて失恋してバッサリ切った髪の毛。物心つく頃からずっと長かった髪型は、人生で初めてのボブカットに。それを見た成宮は「似合ってる、可愛い」って微笑んだ。……そういう顔も出来るんだな、って驚いたのを覚えている。

「……はぁ……」

大きな溜息を吐き出した。そりゃあ、可愛いって言われたら嬉しいけど。…あの成宮だよ?何度も言うけど、心から彼の言葉を信じることは今の私にはなかなか出来ない。

「……勉強しよ…」

寝ていた身体を起こす。成宮に振り回されている場合じゃない。決意を表すように首を振る。のろのろと立ち上がり、勉強机に向かって椅子に腰を下ろした。参考書を開く。

「早く大学決まらないかなぁ」

ペンケースからシャーペンを取り出しながら、ついそんな言葉を呟いていた。それは自分の努力次第っていうのは勿論わかってるけど。もう何度この言葉を呟いただろう。宙ぶらりんな立場は、やっぱり精神衛生的に良くない。
教員免許が取得できるカリキュラムのある音大を志望したのは、青道の吹奏楽部で過ごした時間が、私にとってかけがえのないものになったからだ。去年の今頃は、部長を任されてかなり参っていたけれど、優子たちの助けを借りながら下級生たちと何度も話し合いを重ねたのはいい思い出。中にはついていけないという子もいたけれど。それでも最終的にはみんながひとつになって、努力した。そんな努力には必ず結果がついてくる。……それが、証明された全国コンクール出場。都大会で青道の名前を呼ばれた瞬間を今でも覚えている。嬉しかった。
もともと大学進学を見据えて、春休みからオープンキャンパスへ行ったり、入試については色々と調べていたけれど、はっきりと気持ちが決まったのは、夏だ。……私には、御幸に代わる新しい目標が必要だった。最初はがむしゃらに頑張って、でも時々彼を思い出して、自分の中に染み付いた積年の恋慕に泣いたりすることもあったけれど…もう今はだいぶ吹っ切れて、その目標に向かってまっしぐら。…それに…あんまり公言したくないけれど…成宮の電話に助けられてる自分も、少なからずいた。それを認めてしまうのはなんだか癪だし、あの成宮に助けられてる自分がいる事実が気恥ずかしいから、絶対本人には言ってやらないけどね。
一時間ぐらい集中して、少し休憩しよう、と顔を上げた。その流れで、ふっと窓の外を見上げる。相変わらず東京の夜は明るい。この空の下、成宮はもう眠っただろうか。心配はしていなかっただろうけれど、球団が無事に決まって嬉しいだろうな…なんて。気づけば成宮のことばかり考えてしまう。そんな煩悩を振り払うように、私はもう一度頭を振った。



///



「あら、出かけるの?」
「うん」
「それこの間買ってきたワンピース? 可愛いじゃない」

全国コンクールを銀賞で終え、大学の推薦試験も無事に合格。なんだか全ての肩の荷が降りて暦は十二月を数え、とうとう成宮と出掛ける当日を迎えてしまった。買ったばかりの花柄のワンピースを着て、洗面所で柄にもなくちょっとお化粧を頑張っていたらお母さんに声を掛けられた。鏡越しの顔がニヤニヤしている。

「…変じゃない?」
「変じゃないわよ。男の子と出かけるの?」
「……一応」
「あら、じゃあそれってデートじゃない」
「相手、成宮だよ。デートじゃないよ」
「成宮くんと出掛けるの?」
「…まあ、成り行きで」
「そうなの」

お母さんは少し驚いた様子だった。昔から成宮に酷いこと言われて泣いて帰ってきた私を知っているから当然だ。去年の「鳴ちゃんフィーバー」も冷めた目でみていた私が成宮とふたりで出掛けるなんて、信じられないんだろう。……当事者の私も、まだ信じられない。

「ママ。パパには内緒にしておいてね」
「大丈夫、大丈夫」

お父さんは昔、成宮と出掛けた時に「オジサン」って呼ばれてから生意気な成宮のことがちょっと苦手だって言ってた。溺愛してる一人娘の私のこと虐めてたとまでは言わないまでも意地悪してたことも知ってるし、余計にそう思うんだろう。女だけの秘密ね、とウインク。有り難い。そんな理解のあるお母さんにお化粧のコツを教えてもらいながら支度を終えて、成宮との待ち合わせ時間に間に合うように家を出た。

成宮は引退後も、自宅には戻らず卒業まで寮に残っているのだという。まあ年明けすぐに球団の独身寮に入寮するからそっちの方が色々と都合がいいのだと思う。江戸川区の私の自宅と八王子市にある稲実の寮。そのちょうど中間地点の駅で待ち合わせ。特にどこに行こうという目的地はない。成宮はなにか考えてくれているんだろうか。そんなことを考えながら、電車に揺られて、待ち合わせ場所を目指した。
待ち合わせ時間の十分前に到着して、改札を出たら、成宮は既に其処にいた。見慣れない私服姿。…なんとなく、三年前公園に呼び出された時のことを思い出す。私服の趣味はあんまり変わっていないらしい。いかにも男の子って感じの洋服だ。瞬きして彼を見れば、「なに?」と成宮は訝しげな表情を浮かべる。

「べつに。私服だな、と思って」
「制服着てくるわけないじゃん」
「……まあ、そうだよね」
「………」
「………」
「……ワンピース似合ってる」
「…ありがとう」

やっぱり成宮に褒められるのは、なんとなく居心地が悪い。目が見れず、顔を伏せてポツリとお礼を呟く。電話の時みたいな、変な沈黙。面と向かっているぶんだけ沈黙が重く感じるのはきっと気のせいじゃない。黙り込んでいる私たちを尻目に、周りの人の流れは淀みない。週末だし、クリスマス前だからだろうか。カップルの姿が目につく。…私たちも周りから見たらカップルに見えるんだろうか。そんなことを考えてしまった。今更ながら張り切ってお化粧して、新品のワンピースを着てきた自分が、気恥ずかしい。

「…どこいくの?」

そんな気持ちを隠すように、成宮に問う。

「映画とかどう?」
「映画」
「いや?」
「いいよ、それで」

正直ちょっとホッとした。映画なら成宮と面と向かって話す機会が減る。嫌味を言わない成宮といることは別に苦痛ではないけど、私たちの間に流れる気まずい雰囲気にはいつまで経っても慣れないから、そう思うのも仕方がない。そんな風に自分に言い聞かせる。
とりあえず駅近くのビルに入っている映画館に向かうことになった。冬休み前ということで面白そうな作品がラインナップされている。チケット売り場の前に立ち、二人で何を見ようかという話になった。

「成宮はどんな映画が好きなの?」
「アクション映画」
「へー」

そんな答えにも、男の子だなって思った。野球だけを愛して俗物的なものにはあまり興味がなさそうな成宮だけど、人並みに映画も見るらしい。とはいえ映画館に来るのは久しぶりだと言っていた。寮生活だから当然だろう。

「そっちはなんか見たいのある?」
「…無難に恋愛映画かなぁ」
「じゃあそれでいいよ」
「…いいの?」
「見たいんでしょ」
「…まあ、見たいけど」

そんなわけで、ちょうどお昼過ぎの上映回がある恋愛コメディーを見ることになった。なんとなくテレビCMでタイトルを聞いたことあるぐらいの作品で、正直すごく見たかった作品じゃないけど。でもここで家族向けのアニメ映画を見たいというのも何か違う気がしたのだ。
チケットを買って、先にお昼を食べることになった。お洒落なカフェに入って、ランチセットを頼む。私はオムライス、成宮はハンバーグプレートに単品でさらにミートドリアも頼んでいた。よく食べるなぁと感心してしまう。そして、意外にも箸の持ち方が綺麗だ。

「…何?」

視線に気づいた成宮が、私をジッと見つめる。…成宮の眼は、綺麗な宝石のような青。私はいつもその瞳を畏怖の対象としてみていたけれど、今はそれに対して、恐れを抱くことはない。成宮の表情は驚くほど穏やかだ。

「食べ方綺麗だなと思って…」
「…そう?」
「うん」

付き合いの長さはそれなりなのに、こうしてふたりで出かけるのは初めてで、面と向かってゆっくり会話を交わすのも初めてだから、今更成宮の意外な一面を知ってちょっとドキドキする。指先が綺麗。きっと丁寧に手入れしているんだろう。野球に関しては妥協をしない性格だということだけは、今までの私も知っていること。何度か瞬きした睫毛は、髪の毛の色と同様に少し色素が薄い。…綺麗だなぁ。確かにメディアで騒がれただけのことはある、整った顔立ち。そこでふっと気になったことを聞いてみた。

「あんまり変装しないの?」
「変装?」
「だってあの成宮鳴だよ? 騒がれるんじゃない?」
「別に…俺も普通の高校生だし。野球興味ない人の方が多いでしょ」

実際今日だって今まで声掛けてきた人いないでしょ、と。成宮はなんでもないことのように言う。でもそうは言っても、成宮がドラフト一位の超高校生球児なのは確かだ。

「私なんかと出掛けて良かったの…?」
「なんで」
「……彼女、とか…」
「…今更?」

成宮は溜息を吐いて、改めて私の顔をジッと見つめた。

「いないよ、彼女なんて」
「…でもいっつもファンに囲まれて、きゃあきゃあ言われてたじゃん」
「ファンとそういう対象はべつモノなの」

そんな風にキッパリ言い切る成宮の言葉に、胸が騒いだ。この状況が、まるで私を『そういう対象』だと言っているような、そんな気になってくる。…自惚れが過ぎるかもしれないけど。どんな言葉を返せば正解か分からなくなって、私は黙り込んだ。こうしてふたりで出掛けようと誘ったり、可愛いなんて言葉を口にするくせに、成宮は肝心な言葉を言わない。……言ってくれないから、身の振り方がわからない。

結局。その話は、それきりおしまいになった。食事を食べ終わったし、腕時計で時間を確認すれば映画の上映時間まであと三十分だったからだ。お会計を済ませて(なんと成宮が奢ってくれた)、また映画館に戻る。ランチでお腹がいっぱいだったから、私は売店でメロンソーダを買っただけだったけど、成宮はポップコーンとドリンクのセット。…本当に良く食べる。さすがだ。トイレを済ませて、入場。六番シアター。絨毯張りの一番奥。薄暗い劇場の中に入って、隣り合った指定席にふたりで腰を下ろした。会話もなく上映時間を待ち、ブザーとともに更に暗くなるシアター。近日公開予定の予告編が何本か放映されて、そして始まる本編。

映画の内容は、よくある恋愛映画だったけれど、主人公が男の人だったのはなんとなく意外だった。大学時代から友人関係にある男女。遊び人の主人公にとって、ずっと友情だと思っていた大親友の女性との関係が、恋愛感情であり愛情だと気づくのは十年経ってから。だけどいざ告白しようと決めた冒頭、女性の結婚が決まって介添人を頼まれて…という粗筋。クスッと笑えるところもありつつ、恋愛のドキドキも勿論あって、なかなかにいい映画だった。

「あの婚約者の人、成宮に似てたね」

そんな感想を、何気なしに呟いたのは映画を見終わったあとだ。横を歩く成宮を見れば、眉根を寄せてちょっと変な顔。

「それって見た目のこと? 性格?」
「見た目もそうだし、性格もそうかなぁ」
「失礼なやつ」

唇を尖らせて、成宮は私を見下ろす。そのちょっと拗ねた顔が、可愛いな、なんて思ってしまった私。誤魔化すために、「でも格好良かったよ」と笑む。作中で完全に当て馬にされていた成宮似(仮)の婚約者。主人公たちにとってハッピーエンドで終わってしまったその後の結末は、私たちで勝手に想像するしかないんだろうけれど。でも、可哀想だったから是非幸せになってもらいたいと思う。そんなことを考えていたら、ふいに成宮が口を開いた。

「主人公、一也に似てたよね」

…それは、なんとなく映画を見ながら私も思っていたことだ。外見とか、得意分野以外でちょっと優柔不断なところとか。格好つけるからクールに見えるけどでも案外そうじゃなくてひとりで思い悩むところとか…心優しいところとか。例を挙げるとキリがない。

「…似てたね」
「だから余計にそう思うんだけど…あの婚約者は気付いてないだけで、きっと、もっとずっと前に運命の相手に出逢ってるから。その人と恋に落ちて、幸せになるよ」

その言葉には、不思議な確信が秘められているように思う。そしてその映画を語る口ぶりから察するにどうやら最後まで真剣に見てくれていたらしい。途中寝るだろうなって勝手に考えていたけれど、邪推だったみたいだ。…なんだか成宮がロマンチックな言葉で映画を語るのが、意外だった。あの映画通り、御幸が主人公だとしたら。関係性から言えば、ヒロインの立場に居たのは私だ。だけど現実はそうならなかった。どちらかといえば当て馬だったのは、私自身だろう。別にもう吹っ切れてるからいいんだけど。…そう考えると、成宮が言うように私も既に運命の相手に出会っているんだろうか。そんな柄にもないことを考えてしまった。
成宮と映画についての感想をあれやこれや話しながら、そのあとはふたりで行くあてもなくブラブラとウィンドウショッピング。本屋に寄ったり、スポーツショップを覗いてみたり。なんだなんだと時間はあっという間に過ぎ、少し早いけれど夕飯もふたりで食べることになった。

「なに食べたい?」

成宮が私の意思を確認するように尋ねた。この半日でだいぶ彼との距離が縮まったように感じた私は、少し緊張した面持ちでごくりと唾を飲み込む。そしてゆっくりと口を開いた。

「……馬鹿にしない?」
「なんだよ」
「……ラーメン食べたい…」

冬になると無性にラーメンが食べたくなるのはなんでだろう。別にまたお洒落な食事をしても良かったけれど、洋食は昼間食べたし、和食はなんか違う。空腹がラーメンを欲していた。成宮はしばらく私の言葉にキョトンとしてから…それからプッと笑った。

「お前ってほんと色気ないね」
「……悪かったね」
「…でもそれでいいと思うよ。紗南らしくて」

あまりにも自然だったから、名前で呼ばれたと気づいたのは成宮が「行こう」と歩き出した時だった。彼の背を見つめながら、頬に熱が集まるのがわかる。
ふたりでチェーン店のラーメン屋に入り、私はチャーシュー麺を頼んで、成宮はラーメンとチャーハンを頼んだ。男の人が多い店内で、カップルは数えるほどだ。手を動かしながら、よく部活帰りにみんなで青道近くのラーメン屋に行ったことを話したり、稲実の寮での生活の話を聞いたり。夕飯も和やかな雰囲気だった。

「…あのさぁ」

成宮が突然そんな風に切り出したのは、ふたりとも食べ終わって、さあ今から帰るかっていう時分だった。なにやらガサゴソ、隣の椅子に置いてあった成宮自身のかばんを漁っている。私が首を傾げていると、ポンと差し出されたのはお店を見て回っていた時に立ち寄った雑貨屋さんのロゴマークが印字された紙袋。私が「えっ」という前に、「あげる」とぶっきらぼうな言葉が飛んでくる。

「クリスマスプレゼント。本当はもっと雰囲気のあるとこで渡したかったんだけど…まあ俺たちらしいかなと思って」

成宮は随分早口にそう言った。一体いつの間に用意していたんだろう、なんて疑問が思い浮かぶけれど、そういえばトイレに行くと言って別れた時間があったのを思い出した。その時に買いに行ったんだろうか。思い起こしてみれば「ファンに声を掛けられた」ということで戻ってくるのが遅かったような気がする。

「…私、何にも用意してないよ」
「いいよ。俺があげたかっただけだから」

その言葉に、なんだか泣きそうになってしまった。優しい成宮なんて成宮じゃないって思ってたけど。でも私が成長してきたように彼もまた成長したのだ。今、それを実感する。

「割れ物だから気をつけて。あとここでは開けないでよね、恥ずかしいから」
「……うん、わかった。……成宮、ありがとう」

お礼の言葉と共に、私はプレゼントの紙袋をギュッと抱きしめた。
ラーメン屋さんを出た私たち。時間もちょうどいい時間でそのまま帰ることになったのだけれど、成宮が自宅まで送ってくれることになった。お言葉に甘えることにする。なんだか、別れるのが名残惜しかったのだ。緊張しながらも迎えた今日という日が、自分が思っていた以上に素晴らしいものになったから。すごく盛り上がったわけでもないけれど、帰りの電車の中でもなんだかんだと話は尽きなかった。最寄駅について、自宅までの道をふたりで並んで歩く。成宮と合流してからほとんど建物の中にいたからあまり気にしていなかったけれど、今日はひどく冷えた。悴んだ指先が時折成宮の掌にそっと触れる。それぐらい近い距離。でも不思議と嫌じゃなかった。

「家、すぐそこだから」

ここまででいいよ、と言えば、成宮は足を止める。私もつられて立ち止まった。

「紗南は、……もう、一也たちのことなんとも思ってない?」

成宮はやっぱりいつも突然だ。また名前を呼ばれたこととその問いに少し驚いたけれど、本当になんとも思ってないからしっかりと頷く。すると、向かい合って立つ彼は、…なんとも形容し難い表情を浮かべて、それからその大きな手で私の手を握り締めた。

「………俺と付き合って。一生のお願い」

…すごく、びっくりした。そんな願い乞うような言い方、成宮には似合わない。でもようやくはっきりとした言葉をくれたことに安堵したのも事実。付き合いたいっていうだけなら、きっと選び放題なはずなのに。
―― ファンとそういう対象はベツモノなの
昼間に聞いた彼の言葉が瞬時に蘇ってくる。

「……ずっと一緒に、居てくれるの…?」

一時の気の迷いかもしれない。そんな疑心もあって、つい意地悪な質問をしてしまった。だけど成宮は私の手を握ったまま、真剣な顔。

「ずっと一緒にいる」

仰々しい言葉と表情で、成宮の唇が約束を結ぶ。それは確実に私の心臓を射抜いた。冷たかったはずの指先に熱が集まる。身体中が火照った。頬もきっと真っ赤だ。それは、寒さのせいじゃない。

「……わかった。付き合う」

泣きそうになりながら、頷いた。そんな私を見つめる成宮の目もまた、少し潤んでいた気がする。……待ち合わせた時とは少し違う、穏やかな沈黙が私たちの間を支配した。もう気まずさはない。気恥ずかしさは、少しあるけれど。

「……あ、」
「…なに?」
「成宮、雪だよ」

はらり、と舞い落ちた白い結晶。通りで寒いはずだ。指をさして空を見上げれば、成宮も私につられて顔を上げた。そして彼は、ぽつりと呟く。

「……綺麗だね」
「うん、綺麗」

それはまるで私たちを祝福してくれているみたいだなって思うのだ。とっぷりと日の暮れた…だけどちょっぴり明るい夜空から降り頻る雪を、私たちはしばらく、ただじっと言葉もなく見つめる。繋いだままの掌は、とても暖かかった。


///


「ただいま」
「おかえり、早かったわね」

成宮とさよならをして、家の中に入れば出迎えてくれるお母さん。ブーツを脱いでスリッパに履き替えリビングに顔を出せば、お父さんが食後のコーヒーを飲んでいる姿が目に入った。お母さんは私にニコニコ顔で問いかける。

「お出掛け、どうだった?」
「………付き合うことになった」
「あら、まぁ!」
「えっ⁉」

隠しても仕方がないのでハッキリと伝えれば、お母さんは驚きつつも嬉しそうに両手を上げ、お父さんは衝撃のあまり飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになっていた。なんとか堪えたみたいだけど、少し咽せている。

「だ、誰と…?」
「成宮。でもこの話はまた明日ね。ちょっと疲れちゃった」

「な、成宮くん?…って、あの成宮くん?」なんてお父さんの慌てた声を背に、私はリビングを出て、階段を駆け上がる。自分の部屋に飛び込み、真っ先に勉強机に腰を下ろす。そして机の上に立て掛けてあった皮張りの日記帳を手に取って、机の上で開いた。

今年からつけ始めた日記。なんだかんだと続けてもうすぐ一年。今日の日付のページを開く。ゆっくりと、成宮とのデートを振り返りながら、今日あった出来事を書き記した。成宮が力強い言葉で私と一緒にいると誓い『思わず泣きそうになった』というところまで書いたところでふっと思い出すのは、彼がくれたプレゼントの存在。ペンを置いて、鞄の中から紙袋をとり出す。迅る気持ちを抑えつつ、ゆっくりとその包みを袋から取り出し、そして包装紙のテープを解いた。そして裸になった箱を開けて中を覗き込むと、そこには陶器製のピアノの置物。丁寧な手つきで取り出して、しげしげと眺める。指先で撫でれば、つるつるした感触。ピアノの屋根が蓋になっているデザインで、それをとれば小物入れにもなる品物だった。

「…かわいい…」

本当に、可愛い。まさか成宮がこんないいセンスを持ち合わせているとは思わず、少し驚く。じわじわと幸せが心臓に染み渡る感触。ああ、幸せだなぁ。そんな風に思うんだ。私はしばらくその置き物をずっと見つめていた。そして突如思い立ち、置き物を置いて、代わりに先ほどで使っていたペンを取る。日記の結びの文には、
  私は、多分、成宮のとこ好きになる。そんな風に思う。
という言葉たちを選んだ。書き終わって、ペンを置く。

―― きっと、もっとずっと前に運命の相手に出逢ってるから。その人と恋に落ちて、幸せになるよ。

 胸を占めるのは、成宮の予言めいた言葉。

「そうだったら、いいなぁ」

私にとって、成宮が、運命の相手だったらいいな。…きっと、今の成宮なら、私のこと幸せにしてくれる。そんな確信めいた言葉を抱きながら、私はただずっと…彼のくれた陶器のピアノを眺めていた。

成宮は、私の深い夜に差した一筋の光。そして希望。だから私たちの未来はきっと明るい。そんな風に、思うのだ。



(書籍『暁天の白むころ』下巻 書下ろし再録)